アサヒグループ大山崎山荘美術館とモネの『睡蓮』

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アサヒグループ大山崎山荘美術館について

アサヒグループ大山崎山荘美術館は、京都府乙訓郡大山崎町に位置する美術館で、印象派の巨匠クロード・モネの『睡蓮』シリーズを所蔵することで知られています。大正から昭和初期にかけて建設された英国風の山荘を活用し、1996年に開館しました。現在はアサヒグループホールディングスが運営しています。

美術館は天王山の中腹にあり、自然に囲まれた環境で美術鑑賞を楽しめるのが魅力の一つです。美術館には庭園が併設されており、散策を楽しむこともできます。

JR山崎駅から美術館までは徒歩14分の距離ですが、前述の通り、山の中腹にあるため、歩くと距離以上に体力を消耗するかもしれません。体力に自信のある方は徒歩でのぼるのも良いですが、そうでない場合は無料の送迎バスが運行しているので、利用をおすすめします。詳細→アサヒグループ大山崎山荘美術館HP

美術館外の庭園

アサヒグループ大山崎山荘美術館 庭園3
アサヒグループ大山崎山荘美術館 庭園1
アサヒグループ大山崎山荘美術館 庭園2
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目次

所蔵作品紹介

アサヒグループ大山崎山荘美術館は、モネの大作『睡蓮』を複数所蔵しており、建築家・安藤忠雄氏が設計した新館「地中館」にて展示されています(※展示替えあり)。歴史ある山荘の趣と現代建築が絶妙に調和しており、独特の空間で絵画鑑賞を楽しむことができます。

「地中館」出入口

クロード・モネ
『睡蓮』

モネ「睡蓮」1
モネ「睡蓮」2
モネ「睡蓮」4
モネ「睡蓮」5
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作品解説(クリックまたはタッチ)
クロード・モネ(Claude Monet,1840~1926)

印象派の巨匠として知られるクロード・モネは晩年に『睡蓮』の連作を描いたことは広く知られています。1910年のセーヌ川の洪水や、1911年の妻アリスの死により、その制作は一時中断しますが、1914年頃になるとモネは再び『睡蓮』を描き出しました。

そして、彼は以前から構想していた展示室の壁を『睡蓮』埋め尽くす『大装飾画』を作成するために、『睡蓮』を大きめのキャンバスに描くようになりました。アサヒグループ大山崎山荘美術館に収蔵される『睡蓮』5点の内4点はこの時期に描かれた作品で、『大装飾画』の習作であると考えられます。『睡蓮』の4点すべての1辺が1mを超え、中には2m×2mの作品もあり、その大きさに圧倒されます。

こうした作品の制作を経て、モネは最終的に合計22枚のパネルで構成される計8点の作品を描きました。それらの作品は縦2mで、作品を全てつなげると横の長さは91mにも及び、モネの構想通り展示室を埋め尽くす『睡蓮』となりました。この睡蓮の『大装飾画』は現在、フランスのオランジュリー美術館に収蔵されています。

オランジュリー美術館蔵 【『睡蓮』大装飾画】の内の1点
『睡蓮』大装飾画《緑の反映》(1915~1926)
200×850cm

クロード・モネ
『日本の橋』(1918~1924年)

油彩、カンヴァス、89.0×93.0cm
作品解説(クリックまたはタッチ)

モネは晩年に白内障を患い、1922年には視力が大きく低下していました。担当の眼科医は、「右目は失明し、左目も10パーセントほどしか見えていない」と診断し、手術の必要性を訴えましたが、モネは手術を嫌がり、なかなか決断が下せずにいました。

本作『日本橋』は、この時期に描かれた作品で、「水の庭」の日本橋が燃えるような筆致で描かれています。モネの画風は、初期に比べて次第に輪郭が曖昧になっていきましたが、本作では、視力の低下が影響したため、画風はさらに抽象的なものになっています。まるで霧の中に浮かぶような、あるいは蜃気楼のように揺らめく日本橋の姿は、視力を失いつつあったモネの世界を反映しているようにも見えます。

モネは最終的に1923年に手術を受け、完全には回復しなかったものの、絵を描くには十分な視力を取り戻すことができました。そして彼は、1926年に亡くなるまで『大装飾画』を制作を続けました。

フィンセント・ファン・ゴッホ
『窓辺の農婦』(1885年)

油彩、カンヴァス、41.0×32.0cm
作品解説(クリックまたはタッチ)
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh,1853~1890)

フィンセント・ファン・ゴッホは、聖職者になることを志していましたが、途中で挫折しました。彼はその後、27歳頃から画家を志し、37歳で亡くなるまでの10年間、絵画制作に没頭していきます。彼が最初に題材としたのは、貧しい階級である炭鉱夫や農民の人々でした。ゴッホは両親や姉弟の暮らすヌエネンの実家に身を寄せ、近隣の農民たちの肖像画を次々に描いていきました。

本作『窓辺の農婦』はその頃に制作された作品で、屋内の窓辺に佇む農婦が描かれています。逆光に照らしだされる窓格子と農婦のシルエットが印象的で、また、窓の外に描かれた鳥たちが当時の農家の雰囲気を醸し出しています。

当時のゴッホは、聖職者としての使命感を画業にも見出し、農民の生活をありのままに描くことを目的としていました。本作からは、農婦の姿を忠実に捉えようとするゴッホの誠実な眼差しが感じられます。

この時期のゴッホの画風は、後年の鮮やかな色彩とは異なり、暗く重厚な特徴を持っています。こうした農民の肖像画の探求は、本作と同じ年に描かれた大作『ジャガイモを食べる人々』へと結実していきます。

『ジャガイモを食べる人々』についての記事はこちらから

ポール・シニャック
『ヴェネツィア』(1908年)

油彩、カンヴァス、73.5×95.0㎝
作品解説(クリックまたはタッチ)
ポール・シニャック(1863~1935年)

ポール・シニャックは新印象派の画家で、点描技法を用いた色彩豊かな作品で広く知られています。彼の初期の作品の点描は細かなものでしたが、1900年代に入ると筆触はより大胆になり、本作のようなモザイク画に近い画風へと変化していきました。

本作『ヴェネツィア』では、ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂と運河を行き交うヨットが描かれました。画面右側のヨットの濃い色彩に対して、遠景の教会には淡い色と明度の高い色が中心に置かれ、その遠近感が巧みに表現されています。色彩豊かに表現された本作ですが、色の他にもヴェネツィア特有の湿潤な空気感まで感じ取ることができるでしょう。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂
画像:by Didier Descouens

パウル・クレー
『大聖堂(東方風の)』(1932年)

油彩、ガーゼ状薄布(カルトンに貼付)、20.0×51.0cm
作品解説(クリックまたはタッチ)
パウル・クレー(Paul Klee,1879~1940)

パウル・クレーは、スイス生まれの画家で、抽象と具象の間を行き来する独自のスタイルを確立した20世紀の重要な芸術家です。独特の色彩と幾何学的な模様が織りなす彼の作品は、ドイツ表現主義やバウハウス運動、シュルレアリスムなどさまざまな芸術運動に影響を与えました。特に彼の代表作である『パルナッソスへ』(1932年)は、クレーが絵画に音楽の概念を取り入れたことで知られています。

『パルナッソスへ』(1932)

本作『大聖堂(東方風の)』も、『パルナッソスへ』と同じ1932年に制作されました。画面には建築的な形が見られ、大聖堂を描いたと推測できます。またその一方で、『パルナッソス山へ』と同様の点描やグラデーションが用いられており、クレーが音楽の概念を意識して描いたことがうかがえます。

クレー自身も音楽に精通しており、ヴァイオリンの腕前は相当なものだったと言われています。しかし、彼は単に音楽を想起させるような絵を描こうとしたのではなく、音楽の構造や原理を絵画に応用し、視覚的な芸術として構築しようとしたのです。「芸術とは見えないものを見えるようにすること」と主張していたクレーにとって、これは野心的な試みでもありました。

アサヒグループ大山崎山荘美術館の基本情報

所在地:京都府乙訓郡大山崎町銭原5−3

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