意外に身近にあるかも!?ゴッホの絵がある日本の美術館

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みなさん、ゴッホは好きですか?

ゴッホは、好きな画家のランキングには必ず入るほど、日本では人気の画家です。
そのため、国内の美術館では度々ゴッホの企画展が開かれ、海外の美術館から有名な作品がやってきます。

しかし、日本の美術館にもゴッホの作品が多く収蔵されていることはあまり知られていません。
中でも、ひまわりドービニーの庭はゴッホの名作として世界的に知られており、ファンであれば見ておいて損はありません。

今回は、日本に収蔵されるゴッホ作品を紹介していきます。

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目次

東北地方

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山形美術館(山形県)

「雪原で薪を集める人々」(1884年)
【吉野石膏美術振興財団より寄託】

油彩、カンヴァス、67.0×126.0cm

1884年、この頃のゴッホの絵は暗く、後年の鮮やかな色彩は本作品には見られません。ゴッホは労働者をテーマに彼らの生活を描きとろうと奮闘していました。

当時、グーピル商会という大手の画廊に勤めていた弟テオは、無収入のゴッホを経済的に支援していました。周囲も本人もゴッホの経済的自立を望みましたが、その為にはゴッホの絵が売れなければなりません。しかし、ゴッホの画風は流行りつつあった印象派の画風からは程遠いものでした。テオはゴッホに対して、画風を明るく鮮やかにするよう助言をしますが、ゴッホは頑なに暗い画面固執し、そのスタイルを貫きます。

こうしたこだわりは、翌年に制作された代表作「ジャガイモを食べる人々」に結実します。ゴッホはこの作品を自身の努力の集大成と考え、出来栄えに大きな満足感を抱いていましたが、当時の美術界からの評価は厳しく、商業的な成功には繋がりませんでした

諸橋近代美術館(福島県)

「座る農婦」(1884~1885年)

1885年、ゴッホはオランダ時代の集大成として「ジャガイモを食べる人々」を描こうと計画を立て、その為に農婦の肖像をひたすらに描いていきました。

本作「座る農婦」もそのうちの一点でしょう。ゴッホの描く農婦は肌がごつごつとした粗い筆致で表現されたものが多いですが、本作の農婦の顔は繊細な色面で描かれており、その優しげな眼差しが印象的です。

関東地方

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笠間日動美術館(茨城県)

「サン・レミの道」(1889~1890年)

油彩、カンヴァス、33.5×41.2cm

ゴッホがフランスのサン・レミの精神病院に入院していた時に描かれた作品です。作品が売れず、精神病を患ってしまったゴッホは意気消沈していましたが、創作に対する熱意は持ち続けていました。本作品においてもゴッホの特徴である大胆な配色や力強い筆遣いが見て取れます。

笠間日動美術館の記事

SOMPO美術館(東京都)

「ひまわり」(1888~1889年)

油彩、カンヴァス、100.5×76.5cm

ゴッホは南仏のアルルに滞在中、ひまわりを題材にした作品を7点描きました。

ひまわりが描かれた当時、ゴッホはアルルの黄色い家ゴーギャンを待っていました。以前パリで、ゴーギャンと出会ったゴッホは、ゴーギャンがひまわりの絵を気に入ってくれたことを覚えており、彼を歓迎するためにひまわりを描くことにしました。その絵をゴーギャンの寝室に飾ろうとしたのです。

また、ゴッホは三連祭壇画のように、人物画をひまわりの絵で囲んで飾るという計画を立てていました。そのためにひまわりの絵を量産したとも言われています。

本作、SOMPO美術館蔵の「ひまわり」はゴッホが耳切り事件前後に描いた作品です。ゴーギャンはこの事件でゴッホに愛想をつかしてアルルから去ってしまいました。

SOMPO美術館の記事

アーティゾン美術館(東京都)

「鰊」(1886年頃)

油彩、カンヴァス、37.0×44.5cm

1886年、ゴッホはパリに移住した後に、ロートレックやジョン・ピーター・ラッセルらが通う「コルモン画塾」に通うようになりますが、内気で偏屈な性格のために馴染めず、すぐに辞めてしまいます。

また移住直後は、バルビゾン派やロマン派の影響が強かったため、フランス印象派の画風に対して抵抗がありました。ゴッホはテオのアパートに閉じこもって本作のような静物画を描きますが、この頃の画風は未だに暗いままです。

ちなみに「鰊(ニシン)」は憲兵の俗語です。後年パリやアルルで憲兵に目をつけられたゴッホは、彼らを皮肉るために、この題材を好んで描きました。

「モンマルトルの風車」(1886年)

油彩、カンヴァス、48.2×39.5cm

ゴッホの初期の画風はとても暗いものでしたが、パリの印象派の画家たちや明るい外光に触れるうちに、その画風は次第に明るくなっていきます。本作「モンマルトルの風車」はゴッホのパリ時代に描かれたもので、画面が明るくなっていく過程を見ることができます。

「花」(1886年頃)

油彩、カンヴァス

本作「花」は「モンマルトルの風車」や「鰊」の少し後に描かれたものと考えられます。

その画面の明るさと鮮やかさの違いに驚かされます。同年にはモンティセリ風の背景が真っ暗な花の絵も描いていますが、本作品はの背景は白く、花の鮮やかさが一層引き立ちます。

ゴッホはパリの印象派と外光に触れた後、浮世絵との出会いを経て、その画風をさらに変化させていきました。

アーティゾン美術館の記事

国立西洋美術館(東京都)

「ばら」(1889年)

油彩、カンヴァス、33.0×41.3cm

ゴッホはアルルで耳切り事件を起こした後、サン・レミの精神病院に入院しました。すっかり意気消沈し、絵に対する野心を捨ててしまったゴッホでしたが、絵を描くことで次第に活力を取り戻していきます。

本作「ばら」はサン・レミの病院の庭に咲いていたバラを描いたものです。ゴッホが見たままを誠実に描いている様子が見て取れ、どこかホッとする作品です。

国立西洋美術館の記事

東京富士美術館(東京都)

「鋤仕事をする農婦のいる家」(1885年)

油彩、カンヴァス、30.5×40.0cm

本作「鋤仕事をする農婦のいる家」は、オランダ時代の大作「ジャガイモを食べる人々」を描いた1月後に描かれたものです。

これよりさらに1か月後、「ジャガイモを食べる人々」のモデルの一人であったホルディナ・デ・フロートの妊娠が発覚します。この犯人として真っ先に疑われたのがフロート家を頻繁に出入りしていたゴッホでした。地元のカトリック教会は村人たちへゴッホのモデルになることを禁止する指導が行われ、ゴッホは人物画を描く手段を失ってしまいます。

さらには、実家の家族との仲も最悪で(度重なるゴッホへの心労により父テオドルスが亡くなっていた)、ゴッホは妹アンナによって実家から追い出されてしまいました。

最終的にゴッホはオランダから去り、ベルギーのアントウェルペンに移住します。そして、これ以降ゴッホが祖国オランダの地を踏むことはありませんでした

ポーラ美術館(神奈川県)

「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」(1888年3月)

油彩、カンヴァス、46.8×51.3cm

ゴッホはパリで印象派や浮世絵の影響を受けた後、南仏のアルルへ移住しました。ここでゴッホの色彩はさらに鮮やかなものに変化していきます。

本作「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」はゴッホがアルルに到着して間もないころに描かれたもので、川や船に散りばめる様に配色された赤色が印象的です。ゴッホが補色効果を実験していたことが窺える作品です。

ゴッホはこの後、「夜のカフェ・テラス」や「夜のカフェ」など補色効果を生かした作品を制作していきます。

「草むら」(1889年)

油彩、カンヴァス、45.1×48.8cm

1888年9月、ゴッホは弟テオに宛てた手紙の中で次のように書いています。

日本芸術を研究するとあきらかに賢者であり、哲学者で知者である人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのだろうか。地球と月との距離を研究しているのか。ちがう。ビスマルクの政策を研究しているのか。いや、ちがう。その人はただ一本の草の芽を研究しているのだ

しかしこの草の芽がやがて彼にありとある植物を、ついで四季を、山野の大景観を、最後に動物、そして人物を描画させるようになる。彼はそのようにして生涯を過すが、人生はすべてを描きつくすには余りに短い。

どうかね。まるで自身が花であるように、自然の中に生きる、こんな単純なこれらの日本人が、われわれに教えてくれるものこそ、まずは真の宗教ではないだろうか

フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1500頁

ゴッホは浮世絵に強い衝撃を受け、日本美術に深い憧れを抱きました。彼にとって日本美術の神髄は、最も小さく慎ましいものの中に美を見出す姿勢にありました。この考え方は日本の神道や八百万の神に通じるものがあり、ゴッホ自身の宗教観や自然観と共鳴したといえるでしょう。

1888年末、ゴッホは精神的な発作を繰り返すようになり、1889年5月にはサン・レミの精神病院に入院します。入院後しばらくは外出が許されず、彼は病院内の花壇や草むらを主題に絵を描きました。本作「草むら」もその時期に制作されたものです。

この作品では、足元にひっそりと広がる草むらが精緻に描かれています。ゴッホは一本一本の草に対して真摯に向き合い、生命の息吹を感じさせる描写を試みました。それは小さなものに宿る美に対する敬意であり、ゴッホが日本芸術に見出した美徳の精神でもありました。これらはゴッホに、自身の画業の原点を再度認識させ、同時に回復を願う自身への大きな安らぎとなりました。

「アザミの花」(1890年)

油彩、カンヴァス、40.8×33.6cm

ゴッホは、サン・レミの精神病院を退院した後、パリの北西にあるオーヴェルという田舎に移り住みます。そこでゴッホは精力的に絵を描き、わずか2か月の滞在の中で、70点以上の油絵作品を制作しました。1日1枚以上の油彩画を描いたという計算になり、すさまじい勢いで描いたことが分かります。

本作「アザミの花」はゴッホがオーヴェルで描いた作品のうちの一点で、ゴッホが亡くなる1月ほど前に描かれたものです。この頃のゴッホの絵は粗めのタッチが特徴的で、モチーフの印象のままに速描きで描きました。美しい花の色とは対照的に、アザミの特徴的なギザギザの葉っぱや棘が粗い筆致の中で見事に表現されています。

ポーラ美術館の記事

中部地方

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光ミュージアム(岐阜県)

「洗濯する農婦」(1885年)

油彩、カンヴァス、29.5×36.0cm

1885年、ヌエネンの実家で暮らしていたゴッホの稼ぎはなく、父と弟テオの援助のもとで生活していました。ゴッホと実家の関係は次第にこじれていき、ゴッホは事あるごとに父テオドルスと衝突しました。父テオドルスを含め、家族はゴッホの自立を願いましたが、絵は全く売れません。ゴッホのフラストレーションは増大し、癇癪を起して家族に当たり散らすようになります。老年に差し掛かって尚、家を支えていたテオドルスのストレスは、ゴッホの存在により青天井に募っていきました。

1885年3月、テオドルスは脳卒中で倒れ亡くなってしまいます。ゴッホと実家との仲は険悪なものとなり、最終的には家を追い出された上、アトリエとして借りていた家も数々のスキャンダルにより契約を打ち切られてしまいました。ゴッホは最終的に同年11月にオランダを去ることになります。そしてそれ以降、ゴッホはオランダに戻ることはありませんでした。

母アンナはゴッホを他の子供たちと同様に愛していました。しかし、画商をクビになり、聖職者の道も失敗してテオドルスと衝突した挙句、まったく売れない絵を描き続けるゴッホを理解できなくなっていきました。後年、ゴッホが精神病を患い入院した際にも、彼女は一度もゴッホも見舞いに行っていません。

アンナはヌエネンに残されたゴッホの作品の多くを二束三文で処分しました。本作「洗濯する農婦」も、その中のひとつであると考えられます。

メナード美術館(愛知県)

「一日の終り(ミレーによる)」(1889年)

油彩、カンヴァス、72.0×94.0cm

ゴッホが画家を志した背景には、バルビゾン派の巨匠ジャン・フランソワ・ミレーへの深い憧れがありました。彼のオランダ時代の作品が暗く、重厚な雰囲気を持つのは、ミレーの影響を強く受けているためです。

本作「一日の終り」は1889年、サン・レミの精神病院に入院していた際に描かれたものです。この時期のゴッホの絵はアルル時代を経て、非常に明るく鮮やかなものになっており、フランス印象派や点描表現、クロワゾニスム、日本の浮世絵といった新しい価値観に影響されていました。

それでもなお、ゴッホにとってミレーの存在は特別なものであり、彼への尊敬の念は変わることがありませんでした。本作「一日の終り」は、ミレーの版画「一日の終り(1873年)」をもとにした模写作品です。しかし、ゴッホはこれを単なる模写に留めず、自身の独特な色彩感覚を加え、さらにはディテールを補強することで新たな命を吹き込んだのです。

「石膏トルソ(女)」(1887年)

油彩、カンヴァス、73.4×54.4cm

ゴッホは1886年にアントウェルペンの王立芸術学院に通いだし、人物画や石膏デッサンの授業を受けています。しかし、校長のシャルル・ヴェルラからは「腐った犬のようなもの」と罵られ、デッサン講師からも多くの間違いを指摘されてしまいます。

これらの仕打ちに対してゴッホは激怒し、正確さだけを求めるデッサンを「死んでいる」と癇癪を起こした結果、短期間で学校をやめてしまいました。

本作「石膏トルソ(女)」は後年、パリで描かれたものですが、他の作品に比べて非常に細かなタッチで描かれていることが分かります。デッサンの歪みを講師に指摘され激怒したゴッホですが、当の本人もデッサンの必要性は充分に認識しており、特に人物画におけるデッサン力は解剖学と同様に重要視していました。ただ、非難を受けると癇癪を起してしまう性格は、如何ともしがたかったようです。

メナード美術館の記事

近畿地方

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アサヒグループ大山崎山荘美術館(京都府)

「窓辺の農婦」(1885年)

油彩、カンヴァス、41.0×32.0cm

1885年、絵を描き始めて5年が経過していたゴッホは、大作「ジャガイモを食べる人々」を描くために近隣の農家に入り浸って、農民たちの肖像画を描きました。

この頃のゴッホの絵は、後年の作品と比べて非常に暗く、色彩を感じさせないものです。しかし、シャルル・ブラン著「デッサン芸術の文法」という本を読んで、補色などの色の理論を学び、色彩について考えだした時期でもあります。

本作「窓辺の農婦」も初期ゴッホ作品と同じように画面は暗く鈍い色の作品となっていますが、赤みを帯びたグレーや青みを帯びたグレーを使い分けながら描いていることが分かります。

こうした色彩への関心が、後年の鮮やかな画風を育んでいきました。

アサヒグループ大山崎山荘美術館の記事

和泉市久保惣記念美術館(大阪府)

「耕す人」(1882年)

30.1×29.5cm

ゴッホは、1880年に画家を志してから、まず素描に熱心に取り組みましたが、油彩画を描くことには当初それほど積極的ではありませんでした

油絵具の扱いが難しかったことがその理由に挙げられますが、売れない素描を書き続けることに疑問を感じ始め、1882年頃から本格的に油彩画の制作を開始します。

本作は、ゴッホが油彩画を始めた初期の作品の一つです。この時期の静物画は、薄く絵具を塗り重ねる古典的な手法を用いて描かれています。一方で、本作のような人物画では、動作する対象を捉える難しさからか、粗い筆致が目立ちます。

初期のゴッホにとって人物を描くことは技術的に難しい課題でしたが、後年、人物画はゴッホの創作活動の中核をなす重要なテーマへと発展していきました。本作は、試行錯誤を重ねながら技術を磨いていったゴッホの軌跡を感じさせる一作です。

「紡ぎ車をくる女」(1883~1884年)

33.0×41.0cm

ゴッホは、オランダのハーグで従兄弟の画家アントン・モーヴに学んだ後、両親のいるヌエネンに移って絵の制作を続けましたが、ゴッホの収入は全く無く、生活費は両親や弟テオに頼っていました。両親との関係は険悪で、父のテオドルスとは口喧嘩が絶えなかったようです。また、周囲の住人からも好奇の目で見られ「絵描き小僧」と陰口を叩かれていました。

それでも、本作のように絵のモデルとなって協力してくれる人物は少なからずおり、ハーグでモデルを雇っていた時よりは楽に生活ができました。

「機を織る人とベビーチェアの子供」(1884年)

30.5×43.0cm

当時ヨーロッパでは、産業革命により織物業の機械化がすすんでいましたが、ゴッホの実家があるヌエネンでは未だに織工たちが手作業で織物を作成していました。

この頃のゴッホは、農民や炭鉱夫ら労働者を題材に絵を描いており、織工はその中でもゴッホが最も惹かれたテーマの一つです。

織工は大掛かりな機械を使って作業していますが、賃金は労働者の中でも最底辺で、ほかの仕事と掛け持ちしなければ生活ができないほどでした。本作品には織工が子守をしながら仕事に勤しんでいる場面が描かれており、その生活の大変さが窺えます。ゴッホは絵を通じて労働者の実態を世間に訴えようとしていました

和泉市久保惣記念美術館の記事

中国地方

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ひろしま美術館(広島県)

「ドービニーの庭」(1890年)

油彩、カンヴァス、53.2×103.5cm

ゴッホがサン・レミの精神病院を退院した後に移り住んだオーヴェル=シュル=オワーズは、パリから約30km離れた田舎町で豊かな自然が特徴です。そのため、セザンヌやドービニー、コローなどの有名な画家が移住してその豊かな自然を題材に作品を描いたことで知られています。

特に、バルビゾン派のシャルル=フランソワ・ドービニーはゴッホの尊敬する画家であり、ゴッホはオーヴェルに滞在した際、ドービニー邸を訪れて夫人に挨拶をしました(ドービニー本人は既に他界していた)。その際に、その見事な庭に感銘を受けたゴッホは何度もドービニー宅を訪れ、その庭を絵に描いたのです。

ゴッホは「ドービニーの庭」を2点残しており、本作のひろしま美術館蔵の作品は、バーゼル美術館蔵の複製であるとされています。ゴッホは度々、自身の作品を複製していますが、本作「ドービニーの庭」に関しては改良するために複製したとみられる点が見受けられます。

ゴッホの晩年の傑作が日本国内に収蔵されているとは案外知られていません。ぜひ、美術館で直にご覧になっていただきたいです。

ひろしま美術館の記事

ウッドワン美術館(広島県)

「農婦」(1885年)

油彩、カンヴァス、41.0×35.0cm

ゴッホの初期の画風は暗く、同時期に描かれた肖像画も一貫して暗いものが多いです。

ゴッホは画家になる前に聖職者を目指していた時期があり、農民や炭鉱夫など社会的に虐げられている人々のために何かしてやりたいと思っていました。その気持ちは画家になってからも変わらず、ゴッホは農民たちを美化することなく、見て感じたことをそのままに描こうとしました。彼らの質素な生活を表現するにあたって、明るい色や鮮やかな色は不要であった為、その画面は必然的に暗いものになってしまったのです。

本作「農婦」は初期ゴッホ作品のうちの一点で、オランダのヌエネンで描かれたものです。日に焼けて黒くなった肌やゴツゴツした皮膚、くたびれた服には、ゴッホの労働に対する深い尊敬と愛情がみてとれます。

ウッドワン美術館の記事

おわりに

というわけで、日本の14の美術館が、合計21点のゴッホ作品(版画を除く)を収蔵しています。

ゴッホの絵を持っている美術館がお近くにあったらぜひ行ってみてくださいね!
また、旅行や出張などのついでに美術館に寄ってみるのもいいかもしれません。
※美術館によっては作品が展示されていない場合があります。美術館を訪れる前にHPなどで確認することお勧めします。

その際には、ゴッホの生涯を知っておくと、作品鑑賞がより一層面白くなります
よろしければ関連記事を覗いていってみてください!

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