ゴッホを解説!もう少し詳しく知りたいその人生 第2部オランダ時代

第1部「誕生から画家を目指すまで」の続きです。
本稿、第2部ではゴッホのオランダ時代について解説していきます

前回のおさらい

宗教に情熱を燃やすゴッホは両親の反対を押し切り聖職者になることを決意します。
聖職者を目指しボリナージュにて伝道活動に勤しむゴッホでしたが、その行き過ぎた行動から当地の委員会から活動の中止と俸給の中止を言い渡されてしまいました。

目次

画家を志す

絶望の果てに残されたもの

ボリナージュにて、聖職者への道が完全に断たれたゴッホは失意に沈んでいました。
しかしその中、ゴッホは自身の中に一片の希望を見出します。
それは「絵を描くこと」でした

ゴッホはかつて、宗教への情熱に目覚めてから猪突猛進に宗教の勉強に努めてきました。しかしその裏では度々素描を描き、またドルトレヒトでの書店員時代やアムステルダムでの受験勉強時代においては当地の美術館に通うなど、美術方面への関心は持ち続けていました。
孤独なゴッホは常に芸術を必要としていたのです。

ゴッホは鉛筆を手に取りボリナージュの人々を素描するようになります。
また、グーピル商会時代の上司テルステーフから水彩絵の具道具を送ってもらい、水彩画も描きました。

君に何枚か素描をみせたい。〔……〕僕は度々夜遅くまで描いている。1

「ボリナージュの炭鉱」鉛筆と水彩 1879年

しかし、絵を仕事にできるとはゴッホ自身は考えておらず、素描のことを聞いたテオも兄が画家になれるとは思っていません。美術商を行っていた当人たちは、画家になることがどれだけ難しいか理解していました。
1879年8月、テオがゴッホの元を訪れた際には、ゴッホが原因で「家族に多くの苦労が引き起こされている」、「そろそろ自活を始めなければならない」とテオから忠告され、ゴッホは自身で生計を立てることを迫られてしまいます。

ゴッホに仕事のあてはなく、何を仕事にすべきか全く見当がつきませんでした。
ゴッホは再び途方に暮れてしまいます

北フランスの放浪

画像出典:© OpenStreetMap contributors

1880年3月、ゴッホは北フランスに放浪の旅に出ます
持ち金の10フラン(当時の価値でいうと1~2万円程度?)をすぐに使い切ったゴッホは1週間道路の上を歩き続け、夜は置き去りにしてあった荷馬車や藁推積の中で過ごしました。
そして、北フランスのクーリエールに辿り着きます。

旅の目的について、ゴッホは「はっきり説明できない」と語っています。しかしその一方、ゴッホはクーリエールに住む画家ジュール・ブルトンを訪ねようとしました。尊敬するバルビゾン派の画家であるブルトン(ゴッホはグーピル時代に一度ブルトンに会ったことがあった)を訪ねる事で、自分の進むべき糸口が見つかるかもしれないと漠然とした期待を持っていたのかもしれません。
しかし、ゴッホはブルトンの家の扉を叩くことはありませんでした。ゴッホはその理由について、ブルトンの家が「無愛想で人を苛立たせるような外観」であったことをあげていますが、その一方で「思い切って中に入って自己紹介する気になれなかった」とも語っています。グーピル時代からの自身の変貌ぶり(ボロ切れを纏った姿)に自己嫌悪からブルトンに会うことができなかったことが想像できます。

パリ市美術館蔵 ジュール・ブルトン作「クーリエールの虹」1855年

ブルトンにも会えず、北フランスの放浪旅行にてゴッホは具体的な成果を得ることはできませんでした。
しかしゴッホは、クーリエールの風景、積藁や褐色の耕地、澄みきった空、苔むした草葺きの屋根に霊的な美しさをみます。疲労困憊しひどい惨めさの中にあったゴッホですが、クーリエールの美しい風景の中で自分の精力がよみがえってくるのを感じました。
そして生涯を通して絵を描き続けることを決意します。

「自分の精力がよみがえってくるのを感じて〔……〕どんなことがあろうと、ぼくはまた立ち上がろう、大きな落胆の中で捨ててしまった鉛筆をもう一度取りあげよう。またデッサンを始めよう〔……〕それ以来、僕の目の前の一切が変わってしまった。」2

この時、ゴッホは既に27歳になっていました。

エッテンへの帰省、父ドルスとの軋轢

北フランスの放浪の旅から心身ともに疲労困憊でボリナージュに戻ってきたゴッホは、一旦エッテンの両親の元まで帰ります。痩せ細って骨と皮だけになっていたゴッホを家族は困惑しながら迎えました。

今回の自殺行為的な放浪や、ズンデルトのアールセンの件、ボリナージュでの過剰な伝道活動等から、父ドルスは自身の息子が「異常である」と感じざるを得ませんでした。ドルスはゴッホをエッテンの南にあるヘールの癲狂院へ入れることを決意しゴッホに精神科医への受診するよう促します。しかしゴッホはこれを拒否し、ボリナージュに戻ってしまいました。

聖職者の父を敬愛していたゴッホですが、ボリナージュでの伝道活動を否定されたことや今回の癲狂院の件で、ゴッホは父ドルス対して不信感を持つようになります。

画家ファン・ゴッホ

 僕の苦悩はただ一つ、どうしたら自分が何か善いことのできる人間になれるか、何かの役に立つ人になれないものだろうか〔……〕このことなのだよ、絶えず僕を苦しめているのは。」3

ゴッホは伝道師の仕事をしていた時と同様に、画業においても人の役に立つ方法を模索しました。
その果てにゴッホは、バルビゾン派の画家ミレーのように社会階層の中で最下層に位置する人々を描くことに自身の使命を見出します。
そしてゴッホは、伝道活動にて潰えた野心を新たな使命に重ねました。

「真に善きもの、美しいもの、人間とその手になるもののなかで内面の道徳的な、精神的な、崇高な美しさ、これら一切は神から出たものだ。〔……〕偉大な芸術家や真剣な巨匠がその傑作のなかで言おうとした究極の言葉を汲みとろうと努めたまえ、そこに神を見出すことになるだろう4

ゴッホはボリナージュの炭坑夫を素描し、ある時にはミレーの版画の模写を行いました。また、人物画が難しいと感じれば、元上司のテルステーフに手紙を出し「バルグのデッサン教本」(グーピル商会から出版されたデッサンの本)を貸してくれるよう催促しました(テルステーフは「バルグのデッサン教本」加えて解剖学の本と遠近法の本をゴッホへ送った)。
こうしてゴッホは持ち前の行動力と集中力で画業に勤しんでいきます。

意気揚々と画家としての道を歩みだしたゴッホでしたが、その一方「自活しろ」との家族からの命令は果たせずにいました。素人画家の絵が売れるはずもなく、またゴッホ自身も他の仕事で生活費を稼ごうとはしません。
収入源のないゴッホは、この時期から父ドルスに加えて弟テオからも生活費の援助を受けるようになります。

クレラー・ミュラー美術館蔵「炭鉱夫たち」素描、1880年9月
ファン・ゴッホ美術館蔵 ゴッホ作「種をまく人」(ミレーの模写)1881年
ゴッホは人物を描くことが難しいと語っており、ミレーやブルトン、ブリオンなどの巨匠の人物画を手本に勉強しました。
ミレーの「種をまく人」はゴッホのお気に入りで1880年9月の手紙では「5回もデッサンした」と述べています。

ブリュッセルへ

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カネの浪費

ゴッホは1880年10月(27歳)、ボリナージュの下宿先の小部屋は「デッサンには実に不便」という理由で、テオへの報告なしにブリュッセルへ引っ越しました。無計画なゴッホは下宿先も決めずに引っ越した為、居酒屋兼宿屋の「オザミ・ド・シャルルロワ」に寝泊まりすることになり、宿賃に月50フランという少なくない額を使ってしまいます。

また、テオの元上司であるグーピル商会ブリュッセル支店長のシュミットに会いに行き、交際できそうな画家(ゴッホは画家仲間を欲していた)を紹介してくれるよう頼みます。シュミットは元部下の兄を親切に迎えましたが、それはテオの人望があってのことでした。シュミットは突然訪ねてきた素人画家に内心大いに戸惑ったに違いありません。

テオはゴッホがブリュッセルから出した手紙によってこれらの事実を知り、大いに困惑します。
兄の唐突な行動によりグーピルとの関係性がこじれることを恐れたテオは、無暗にグーピルへ立ち寄らないようにゴッホへ釘を刺しました。しかし、ゴッホのブリュッセル滞在による厄介ごとはそれだけではありませんでした。
猪突猛進なゴッホは無計画にカネを使いだすのです。

ゴッホは仕送りのカネで生活必需品の他に上質な上着を購入し、遠近法の学習のために無名の画家のレッスンを受けるようになります。またゴッホが何よりも資金を費やしたのはモデル代でした。

「僕はほとんど毎日誰かしらモデルを使っている。年寄りの運搬夫とか、労働者とか、少年などがポーズをとってくれる。先の日曜には多分二人の兵隊が来てモデルになってくれるはずだ。」5

当時、一般的に画学生は石膏デッサンや模写を続け、1年かそれ以上経験を積んで人物の素描を始めるとされていました。(ちなみに当時ブリュッセルにも美術学校はあり、授業は無料で受けることができた)
それにも拘わらず、ゴッホは素人モデルとはいえ少なくない報酬を支払い、自身の部屋にモデルを招き入れて素描を毎日のように行っていたのです。
さらにゴッホはモデルの衣装をコレクションしようと企て、両親にさらなる送金を促しました。

「僕は追い追い、僕の画のモデルたちに着せる衣服の小さなコレクションを持たなければならないからなのです。例えば、ブラバントの百姓の青い仕事着、抗夫たちが着る灰色の…〔……〕僕が自分のアトリエらしきものを持った時には、これらの着物を存分に使えるようになるでしょう。必要な衣装を着たモデルを描くこと、これが成功するための唯一の方法です。」
「今月の追加分をいくらか送金していただくことができるようでしたら、お願いしたいと思います。」6

当時、ゴッホの仕送りの主たる分は父ドルスの収入から賄われていました。ドルスがテオに書いた手紙によれば、1881年1月初めに40グルデン(オランダの当時の通貨)、同月22日に20グルデン、2月初めに35グルデンをゴッホに送金しています。
19世紀半ば、オランダ・デンボスの成人労働者の平均日給が1グルデン程度7であったとされるため、いかにゴッホが大金を浪費していたか分かります。

ゴッホだけでなくエッテンの家族も養う必要があったドルスは困り果て、ゴッホへの支援のほとんどをテオに任せるようになります。若くしてグーピル・モンマルトル支店の支配人を務めるようになっていたテオは、牧師であるドルスに劣らぬほど稼げるようになっていたのです。

責任感の強いテオはエッテンの両親のためにその命に従い、これ以降ゴッホの面倒をみることになりました。テオのこうした献身的な態度はゴッホや両親への強い愛情によるものでした。しかしその役目はテオの想像以上に困難なものとなり、生涯を通じて彼の頭を悩ませることになります

ファン・ゴッホ美術館蔵「暖炉前」素描、1881年1月

ラッパルトとの出会い

テオはシュミットに代わってブリュッセルの画家をゴッホに紹介しました。
その内の一人であった画家のアントン・ラッパルトはゴッホと打ち解け、以降五年にわたりゴッホの貴重な友人となりました。
貴族出身で弁護士の末っ子であったラッパルトはアムステルダムの美術アカデミーで学んだ経験があり、絵画においてはゴッホよりもはるかに高い技術を身につけていました。またラッパルトはゴッホの5歳年下ながら、その年齢以上に磨かれた人格の持ち主であり、偏屈なゴッホにまで分け隔てなく接することができました。
孤独であったゴッホは、初めての画家仲間となったラッパルトに特別な友情を持つようになり、ラッパルトのアトリエで一緒に制作するようになります。

アントン・ジェラード・アレキサンダー・ファン・ラッパルト(1858~1892年)

テルステーフとの不和

父ドルスに代わってテオがゴッホを支援するようになりますが、その一方で裕福な親族であるセント伯父やコル叔父(父方の伯父。アムステルダムで画商をしていた)からの援助の話は一切ありませんでした。このことに対してゴッホは「伯父たちは裕福なのだから月に100フランの援助くらいあっても良いではないか」と憤るようになります。
(ゴッホは「くらい」と軽めの言葉を使っていますが100フランは大金です。当時の世帯収入の平均額は月80フランで、一般的な労働者はその額で家族全員を養っていました。)

世の中の人はみんな財政的な問題のために進歩を早められもすれば、妨げられもする。〔……〕僕はそのことを考えると、言わざるを得ないのだ。大体我々のような家族の中で、——つまり、二人のファン・ゴッホ、コル伯父とプリンセンハーヘの伯父(セント伯父のこと)は非常な金持で、二人とも美術の分野の人だ〔……〕こうした一門の中の僕が製図家として決まった仕事を得るようになるまで、どうしても過さねばならぬその準備の間、何とか月に100フランくらいこのままずっと当てにすることができてもよかりそうなものじゃないか……〕彼は金をくれるのとは全く別の方法で僕を助けてくれることもできるのだ。例えば、もし都合つくなら、僕に色々教えてくれるような人たちを紹介してくれるとか、ある雑誌に決まった仕事を世話してくれるとか。8

:(原文では「teekenaar」と表記。オランダ語で「イラストレーター」的な意味。手紙の翻訳者ヨハンナ・ボンゲルが「draftsman≒製図家」と訳しているが「製図」では設計的な意味になってしまうため、「素描家」や「挿絵家」などの方が意図として妥当である)

また、ゴッホはいずれ素描家として仕事を得るためには相応の人脈が必要であると考えます。そしてグーピル時代のかつての上司テルステーフに手紙を出し、その関係をより強固なものにしようとしました。

しかし、テルステーフから返ってきたのは拒絶の返事でした。
テルステーフは、仕事を行わず家族を心配させるばかりか図々しくも支援を受けているゴッホを「伯父たちの恵みにすがって暮らしてゆくつもりである」批難したうえ、「そんなことをする権利はない」と厳しく糾弾しました。

ゴッホが芸術にどれほど野心を燃やそうと、絵を始めて数カ月の素人画家にすぎません。それにもかかわらず多額の支援を受けながらモデルまで雇うゴッホの生活は、テルステーフの目には著しく不相応に映りました。
テルステーフはゴッホの協力要請を「とんでもない、それははっきり駄目さ。君は自分の権利を失っているんだから。」ときっぱり断り、別の仕事を探すよう忠告しました。

テルステーフの物言いは容赦のないものでしたが、美術商として経験に富み美術分野に明るいテルステーフだからこそできる忠告でした。そしてその核心を突いた忠告は、沈黙する同業種の伯父たちばかりでなく、エッテンの両親やテオたちの内心を少なからず代弁するものでもありました。

当時、ゴッホの絵の才能を信じるのはゴッホ自身だけでした。素人画家ゴッホの稚拙な素描に絵の才能を見出す人間は誰もいなかったのです。

H.G.テルステーフ(1845~1927)

エッテンへ

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ラッパルトとの友情

1881年4月(28歳)、ラッパルトの帰省に伴い、一緒に使っていたアトリエを引き払うことになります。唯一の友人であるラッパルトがブリュッセルを離れることになった為、ゴッホも宿を引き払って実家のエッテンへ帰省することになりました。

そして6月にはラッパルトがエッテンのゴッホの元を訪れます。

ゴッホはラッパルトを連れてエッテン郊外の荒野や沼を散歩に行き、一緒に風景をスケッチをしました。

個人所蔵 ファン・ゴッホ作「睡蓮のある湿地」1881年6月
ファンゴッホ美術館蔵 アントン・ファン・ラッパルト作「セッペ近郊のパシーファールト」1881年6月

初めての画家仲間であるラッパルトが実家を訪ねてくれたことにゴッホはとても喜びました。
近隣の知人は言います。
あれ程陽気な彼を見るのはそれが最初で最後でしたね
初めて感じる画家同士の友情は、孤独に生きてきたゴッホにとって得難い経験となりました。

この想いは後年、南仏アルルにて「黄色い家」の構想につながります。

未亡人への恋、エッテンからの追放

1881年8月(28歳)、従姉ケー・フォス・ストリッケル(母アンナの姉とヨハネス・ストリッケル牧師の娘)が子供を連れてエッテンの牧師館を訪れます。ケーはその頃、病気によって夫を亡くしたばかりでした。

ケー・フォス・ストリッケルと息子ヤン

ゴッホは一緒に過ごすうちにケーに恋心を抱き求婚しましたが、ケーは「駄目です、絶対に駄目です!」ときっぱり断りアムステルダムに戻ってしまいました。
しかしこの拒絶の言葉が、諦めの悪いゴッホの情熱に火をつけてしまいます。

「この『駄目です、絶対に駄目です!』を僕は一塊の氷と考え、これを胸に押し付けて溶かしてしまおうとおもっているのだ」9
「『駄目です、絶対に駄目です!』に対する言葉は何か。『ますます愛する!』だ」10

この求婚に対して、両親からは「時宜を弁えぬ、慎みのない」行為だと批判され、父ドルスからは「お前は家族関係を破壊する気か」と怒られてしまいます。
また、ケーの父であるストリッケル伯父からは「あれの『駄目です』は決定的なものだ」とこれ以上関わらないよう忠告を受けますが、ゴッホは意に介しません。

1881年11月、ゴッホはテオから旅費を無心してアムステルダムのケーの実家を訪れました。
しかし、ケーからは会うことを拒否されたうえ、あまりのしつこさに職業上温厚であったであろうストリッケル伯父からは激怒されます。
お前の執念には反吐が出るぞ
ゴッホはストリッケル家を執拗に何度も訪問し、ある時にはランプの炎に手をかざして「この手を炎にいれていられる間に彼女を連れてきてくれ」とケーの両親に迫りましたが、炎は吹き消され、結局ケーに会うことはかないませんでした。

この一件で両親やストリッケル伯父との溝は深まり、ゴッホはエッテンに帰省することができなくなりました。
そこで、ハーグの義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴを頼り、しばらくハーグに滞在します。

同年12月にゴッホはようやくエッテンへ帰省しますが、クリスマスの日に教会に行く行かないという些細なことで父ドルスと口論になってしまいました。
ゴッホはボリナージュでのこと(活動を邪魔した伝道委員会と父を同じものとみなしていた)や癲狂院の件、ケー・フォスの件について積年の不満をドルスへぶちまけます。
我慢ならなかったのはドルスも同様でした。ことごとく期待を裏切り続ける一家の厄介者に言い放ちます。
「もうたくさんだ!」
おれの家から出ていけ、早ければ早いほど、1時間後よりは半時間後の方がいい」11
ドルスは激怒し、ゴッホをエッテンの実家から追い出してしまいました

クレラー・ミュラー美術館蔵「乾いた稲を囲炉裏に置く老人」1881年11月

ハーグへ

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ハーグへの逃避

1881年12月末(28歳)、エッテンを追われたゴッホはハーグの親戚である画家モーヴの元を再度訪ねます

アントン・モーヴ(1838~1888年)作「自画像」
デン・ハーグ美術館蔵
アントン・モーヴはゴッホの母方の従姉妹であるアリエット(ジェット)・ソフィア・ジャネット・カーベントゥスと1874年に結婚しており、ハーグ派の主要な画家として成功していました。

ドルスは親族に迷惑を掛けることを恐れゴッホに仕送りの話をしますが、ゴッホはこれを拒否し、それを当て付けるかのようにモーヴから100グルテンという大金を借りました。
そしてそのカネでアトリエを借りテオに報告しますが、ゴッホの勝手な行動に怒ったテオは返事を出しませんでした。
高価な家具を買い100グルデンもの大金を使い果たしていたゴッホは、慌ててテオへ支援を請う手紙を書きます。

「ねえ、テオ、いったいどうしたというんだい?この前の僕の手紙は着かなかったのかい?〔……〕ここ二、三日というもの僕は本当にポケットに無一文になってしまっている。無論のこと僕は、一月のひと月分として少なくとも100フランは送ってもらえるものとすっかり思い込んでいたのだ。」12

これに対してテオの返事が返ってきますが、その内容は怒りに満ちていました。

忌々しい話だよ、いったいあんな具合にお父さんやお母さんの生活を苦い味のものにしてぶち壊すなんて、何であんたはそんなに子供じみた、ぬけぬけとした振る舞いに出たんだね?
いつかはあなたがこの問題でこんなにも心無い振る舞いに出たことを後悔するだろうことは確かだよ13

珍しく怒りをあらわにするテオでしたが、これに対しゴッホは開き直って応えます。
「僕は謝るつもりはない」「僕には後悔している暇はない」
また、カネを求めてテルステーフを訪ねたと脅し、早急に送金するようテオに迫りました。

「僕の仕事ぶりがフル・スピードで進むかハーフ・スピードで進むか全然お手上げになるかは、往々にして僕のポケットにカネがあるかないか次第ということになるのだ」
「できるだけ早く2月分のおカネを送ってくれ」14

ゴッホの身勝手な行動はエスカレートしていきます。

モーヴへの師事

念願のアトリエを手に入れたゴッホは、モーヴから絵の手ほどきを受け水彩画や油彩画を制作しました。
絵を始めて1年少しの青二才の画家にモーヴは時間を割いて指導したうえ、「間もなく自身で幾らか稼げる日が来るだろう」と希望を持つよう励ましてくれました。

「僕はモーブが大変好きだし彼とは共感する。僕は彼の仕事が好きだし、自分は彼から教わることができて幸いだと思う。」15

ゴッホはモーヴの絵画の指導を基本的には従順に受けていましたが、制作に熱中するあまり度々癇癪を起すことがありました。
ある時、絵を描いている際に指でカンヴァスに触れすぎるゴッホへモーヴが注意した際には、
「一体、それがどうだと言うんですか。たとえ、踵で描こうと、絵が上手く行って、正しい効果が出れば、かまわんじゃないですか。」16
と強い反抗をみせたのです。

ファンゴッホ美術館蔵「キャベツと木靴のある静物」1881年12月

またある時、モーヴがゴッホに石膏像を使った素描を勧めたことで口論となりました。
ゴッホはモーヴに対して、

「もう二度と俺に向かって石膏の話は持ち出すなよ、俺には我慢できんからな」17

と怒鳴り、石膏素描の話をするモーヴのことを
「その喋り方たるや、アカデミーで一番の能なしの教師といえどもこういう喋り方はしまい」
とこき下ろしたのです。

このような不遜な態度をとるゴッホに対してモーヴは次第に距離をとるようになりました
そして決定的な事件が起こります。

シーンとの出会い。 モーヴとの破局

ゴッホはブリュッセルの時と同様に路上で見つけたモデルをアトリエに連れ込んで素描をしていました。
そのモデルのひとりにクラシーナ・マリア・ホルニク(通称シーン)という妊娠した娼婦がおり、彼女のことを気に入ったゴッホはシーンとその家族(シーンの母親と娘)を援助し始めます

「傘の下のシーンと娘」1882年2月、所在不明

この時代の性風俗産業に対する差別は強く、特にゴッホにおいては自身のカネではなく弟テオの支援金からシーンを援助していたこともあって、ゴッホは後ろめたさからこの件について周囲に秘密にしていました

しかし、頻繁にゴッホのアトリエを出入りしていたモーヴとテルステーフは嫌でもシーンの存在を察知してしまいます。
このことを知ったモーヴはゴッホに会うことを避けるようになり、ついには手紙の返事も出さなくなりました。

そして1882年4月、ゴッホが町中でモーヴに出くわした際、ゴッホは仲直りを請いますが、モーヴは冷たくこれをあしらい絶縁を宣言しました。
君には不道徳なところがある」「俺は決して君に会いには行かない。万事おしまいだ18

白状と脅迫

ブリュッセルでのゴッホの協力要請を拒んだテルステーフでしたが、ゴッホがハーグに来てからはカネを貸したり、アトリエを何度か尋ね作品の批評を行うなどして気にかけていました。
しかし、ゴッホの過剰な浪費や性的不品行の事情を察したテルステーフは、ゴッホに警告しました。
「君がもうテオからこれ以上カネをもらわないように手配するつもりだ」19

もう隠し通すことができないと判断したゴッホは、テオへシーンとその家族について白状します。また、テオからの送金停止を恐れて同情を乞いました。

この冬、一人の身ごもった女に出くわした。〔……〕出産は6月ごろとなるだろう。〔……〕僕だって一度だけは結婚できる身だ。してみればこの女と結婚するほどいいことがあろうか?それは彼女を救う唯一の道だ。さもなければまた彼女は窮乏のあまり、昔の生活へ戻らざるを得まい。〔……〕モーヴ、テオ、テルステーフ、君らは僕のパンを手中に制している。君らはそれを僕から取り上げるつもりだろうか20

しかし、次の手紙では

「君のカネの力がいかほどのものであろうとも」「無理やり僕に彼女との縁を切るように仕向けることはできないだろうぜ」
「僕は君に、何であれいろんな費用を負うてくれと頼むつもりはない。それどころか、君がカネを削減してきても完全に送金を停止してしまってもいいんだぜ〔……〕たぶん君以外にも進んで僕に暮らしをたてて行けるようにしてくれる人たちもいるかもしれないね」21

と、ありもしない支援者を妄想し開き直っています。

そして、最終的にはシーンとの結婚を宣言し、家族を養いながら制作を行うには月150フランは必要であると訴えました。加えて、テオの送金が無ければシーンの子供たちは「ひどい目に会う」と脅迫めいたことも手紙に綴っています。

月々150フランもらえれば、大いに活気づいて勇気も出して仕事に取り掛かるだろう〔……〕〕君が援助を撤回しようとしていることが定かに分かれば〔……〕僕は落胆してしまうだろう。そうなったらクリスティン(シーン)も子供もひどい目に会うだろう。〔……〕僕をぶん殴ったり僕の首(それからクリスティンと子供の首もだ)をちょん切ったりする前にもう一晩寝てよく考えてくれ」22

この頃のゴッホはモーヴやテルステーフといった後ろ盾を失いつつあり、頼れるのはもうテオだけになっていました。懇願したり、開き直ったり、脅し口調になったり、精神的に不安定になっている様子がうかがえます。

これらの交渉(?)の結果、テオからの援助を月150フランに増額することに成功し、シーンの家族と新たなアパートで同居することになりました。

ガーマン・ライアン・コレクション「悲しみ」1882年4月
この作品についてゴッホはテオへの手紙にて「僕の一番よくできた素描」と言い、このモデルはシーンであることを強調しました。
「そんなに長くたたないうちにシーンが、ポーズをとることで自分自身のパンも稼ぐという結果になるだろう」

淋病感染。父の訪問

1882年6月(29歳)、テオにゴッホから「病院にいる」との手紙が届きます。
ゴッホは淋病感染(感染源はおそらくシーン)のためハーグの病院に入院していました。

「当分僕はこの病院にいる。でも入院は二週間だけだろう。三週間にわたって僕は不眠と微熱に悩み、放尿が苦痛だった。かくてはどうも、いわゆる『淋病』が実際あるのらしいよ。ただしほんの軽症だがね。」

シーンやテルステーフが見舞いにやってくる中、見舞客の中に意外な人物がいました。
それは、昨年のクリスマスに喧嘩をして別れた切りの父ドルスでした。
ドルスはゴッホへ、退院後にエッテンへ一度帰省するよう提案し、和解の意思をみせます。

ハーグに着いた直後はドルスの援助を徹底して拒んできたゴッホでしたが、ボーヴやテルステーフとの関係が崩壊しつつあったその時、ドルスの提案についてゴッホは悪い気はしませんでした。しかし、帰省することに対しては拒否してしまいます。
なぜならば帰省できない理由(シーンとの関係)があったからです。

ゴッホはドルスに対してシーンのことは一切話しませんでしたが、ドルスはゴッホが忙しなく扉の方を「まるで私に会わせたくない訪問者を待っているかのように」23気にしていることに気付いていました。しかし、ドルスの方からゴッホを問い詰めることはありませんでした。

シーンとの同棲。テルステーフとの決別

1882年7月(29歳)初旬にゴッホは無事に退院を許されます。
シーンもゴッホの退院の少し前にライデンの病院にて男児を出産し、ハーグのアパートに帰ってきていました。
そこへテルステーフが訪問します。

子供(誰の子供かわからない)が生まれて幸福を感じていたゴッホは、テルステーフから優しい言葉を期待しましたが、テルステーフは冷たく言い放ちました。

「あの女とあの子供、これはいったいどうしたわけなんだ?」

ゴッホが答えに窮すると、テルステーフは怒りをあらわにして詰め寄りました。
「俺の方が気が違っていたとでも言うのかい?こんなことは明らかに、不健全な精神と性癖のなせるわざだったんだ」24

ゴッホがグーピルを退職してからも目を掛けてきたテルステーフでしたが、この一件で大いに失望し以降ゴッホと関わろうとはしませんでした。
テルステーフは最後にこう述べました。
お前(ゴッホ)はあの女を不幸にするするだろう

このテルステーフの訪問により、彼の介入を恐れたゴッホは結婚について訴えることをやめました
これ以上ことを大きくしテルステーフに加えて両親がこの件に干渉してくれば、全てが駄目になりかねないと考えたためです。

ファンゴッホ美術館蔵「揺り籠」1882年7月
テオはシーンについて「計算ずく」と批難しました。
しかしいずれにしろ、シーンは生まれてきた子にゴッホのミドルネームと同じ「ウィレム」と名付けました。

シーンとの一件でゴッホは金銭面での自立の必要性を今まで以上に感じました。また、弟テオからの促しもあり、売れる見込みのある風景画・水彩画を描くようになりました。

風景画の描画には透視枠を用いて行いました。 「それで海岸でも牧草地でも畑でも、これをちょうど窓のように通して見ることができるわけだ」25
個人蔵「スヘフェニンゲンの魚を乾燥する納屋」水彩、1882年6月
個人蔵「屋上、ハーグのアトリエからの眺め」水彩、1882年7月

また、作品を大量生産できることから石版画(リトグラフ)に目を付け行ってみますが、技術が未成熟なため上手くいきませんした。その為、石版画の作品数は少なく、数点しか現存していません。

ファンゴッホ美術館蔵「コーヒーを飲む老人」リトグラフ、1882年

シーンとの別れ

ゴッホとシーンとの同棲は1年余り続きましたが、1883年5月頃からゴッホはテオへの手紙にてシーンに対する不満を口にするようになります。

時として彼女(シーン)の癇癪は僕にとってもほとんど耐え難いくらいのもの——荒々しく、禍々しく、悪いものとなる26

ゴッホは依然としてモデルを雇って人物素描を行っており、そのやり方・カネ遣いの荒さは留まることを知りませんでした。
スープ配給所の群像素描に閃きを得たゴッホは、自身のアトリエでそれを再現することを思いつきます。その為にモデルを複数人雇ってそれぞれに衣装を買い与えました。
そして、最終的には自身のアトリエを本物のスープ配給所に改造するという尋常ではない計画をテオに述べます。

「もっともっとたくさんのモデルたち、貧しい人々のそっくり一群ぐらいを使って勉強をすることが僕の理想だ。その連中のためにはアトリエが、冬の日かそれとも仕事にあぶれたり酷く食いつめたりした時の避難場所みたいなぐあいになるだろうよ。連中がそこへ来れば、そこでは自分たちのために火も食事も飲み物もあるし、少しばかりのカネを稼ぐこともできることが判るだろう。〔……〕ちょうど今のところ、僕は数人のモデルで我慢をして、もっぱらその数人にかかりっきりさ——これ以上は独りも倹約できず、もう少し多くの人間が要り様になるだろう。」27

「公共炊き出し場でのスープ配給」1883年3月

兄の支援に加え、愛人とその家族の世話まで強要され、挙句の果てには私立の炊き出し場までつくろうという意味不明な提案をする兄ににテオはあきれ果ててしまいます。

ゴッホは自身の要求は無分別に押し通す一方、テオの財政状況がかなり厳しい(グーピルの事業はかなり落ち込んでいた)という訴えについては撥ねつけていました。
さすがのテオも我慢の限界でした。

1883年8月(30歳)、テオは汽車で移動しハーグのゴッホを訪問します。
ゴッホは弟の訪問に喜びますが、テオが持ってきた知らせは兄に対する最後通告でした。

テオはグーピル・パリ支店の支配人の身分を得てはいましたが、その収入は兄の支援の他にエッテンの家族にも分け与える必要がありました。
膨らみ続けるゴッホの要求(臨時の援助要請も含めればおそらく月150フラン以上を要求していた)をこれ以上看過できないこと、このような生活を今後も続けるようなら送金の保証はできないとテオはゴッホへきっぱりと伝えました。
そして、生活を改めるうえで必要なのはシーンとの関係を清算することであると強く訴えたのです。

テオはハーグに留まらず、すぐに次の汽車でパリに帰ってしまいます。

テオが帰った後、手紙にてあれこれと言い訳を並び立てるゴッホでしたが、最終的にはシーンと別れることを決断しました。

クレラー・ミュラー美術館蔵「授乳するシーン」1882年9月
シーンはゴッホと別れた後、子供たちを家族に預け、裁縫、給仕、娼婦の仕事に就き、1901年に船員と結婚しますが、1904年入水自殺によりこの世を去ります。

ドレンテへ

画像出典:© OpenStreetMap contributors

1883年9月(30歳)、ゴッホはハーグから北東へ150㎞以上離れたドレンテ州ホーヘフェーンへ移ります。
ヌエネンの実家へ帰るという考えもありましたが、弟テオからはブラバント(南オランダ)全域を立ち入り禁止とされた(おそらくケーやシーンの件による)為、以前ラッパルトから訪れることを勧められていたドレンテを移住先に決定しました。

自然豊かな田舎でゴッホは創作に励みます。

ファンゴッホ美術館蔵「小屋」油彩、1883年9月
フローニンゲン博物館像「ニュー・アムステルダムの跳ね橋」水彩、1883年
ファンゴッホ美術館蔵「荒地の2人の女性」油彩、1883年

ドレンテ滞在中の作品をみると、風景画が増えた一方、人物画はあまり確認できません。

ゴッホの手紙には、
「ここのヒース(泥炭地)ではぼくはモデルに困らされた。彼らは僕を嘲笑したり、からかったりした。少なくともこの土地の標準からすれば割のいいカネを払ってやったにもかかわらず、モデルたちの意地悪のためにせっかく始めた人物の習作を完成できずに終わった」28
とあり、モデルの確保に苦労したようです。

人付き合いは相変わらずのゴッホでしたが、ハーグにいた時はシーンとその家族と同棲していたうえ、テルステーフやモーヴがアトリエを訪問してくれていました。
しかし、ドレンテでは知り合いはいないうえ、モデルをほとんど雇うことができず一層孤独になってしまいます。

ファンゴッホ美術館蔵「ドレンテの風景」水彩、1883年9~10月

孤独に耐えかねたゴッホは弟テオへ「グーピルを辞めてドレンテへ来て一緒に絵を描こう」「画家になれ」と訴えるようになります。

その訴えは次第に真剣さを増し、

「昔の巨匠たちの中にも、現代の画家たちにも、兄弟二人して画家になっている例はよくある。〔……〕僕らは少なくとも月に最低150フランは必要だろう。200フランあればなおいい。その為には信用貸しを見つけねばなるまい。その担保がないわけではない。僕らの作品がその担保となるだろう。」29

と妄想に近いことを手紙に書き綴りました。

テオが給与から実家の家族の分も賄っていることをゴッホは知っていたはずですが、それについて言及はありません。また、そもそも碌に売れてもいない画家に充分なカネを貸してくれる人間がいるはずがありません。

無論、テオがこの無謀な計画に応じるわけがありません。
生活は限界を迎え、ゴッホはドレンテを立ち去ることになります。ドレンテでの滞在は3カ月という短い期間でした。

ヌエネンへ

画像出典:© OpenStreetMap contributors

帰還

1883年12月(30歳)、ゴッホはヌエネンの家族の元へ戻りました。(1882年に父ドルスの転勤でエッテンから移住した)
ゴッホは暖かく迎え入れられますが、父ドルスとは2年前のことについて口論になってしまいます。

ゴッホは父に対して訴えました。

お父さんがやはり僕を家から追い出すようなことはすべきではなかった〔……〕お父さんの心の中には自分の行為が正しかったということへの疑念の影が全然見受けられない30
「お父さん、僕は今あなたの独善にぶつかっているのですよ、そいつがあなたにとっても、僕にとっても致命的だったし、現にそうなのですよ」31

それに対してドルスは、
私はあの時自分のやったことを決して後悔はしていない。いつだって私はお前のためによかれかしとおもってやっているのだ
「お前はこの私を手をついて謝らせたいのか」32
と反駁しました。

険悪な状態は2週間ほど続きましたが、最初に一歩譲ったのはドルスでした。
ゴッホはドルスへの訴えの中で、ラッパルト家を引き合いに出し、ゴッホ家にはアトリエすらないことを訴えていました。そこで、ドルスは洗濯場として使用している部屋をゴッホのアトリエとして使用することを許し、歩み寄りをみせます。

ヌエネンのゴッホ家
左手が牧師館。中央がゴッホのアトリエです。
画像 by: A. J. van der Wal

1884年1月、母アンナが転倒し大腿骨を骨折してしまいます。

ゴッホはすぐに弟テオへ手紙を書いて知らせました。

「お母さんが事故にあわれたのだ。ヘルモントで汽車から降りようとして脚を怪我されたのだ」
「僕が君の送ったカネで借金を返済してしまうつもりだったことは知っているね。しかし、いろいろ不慮の支出があると思うのだ。それで、僕はお父さんにこのカネを自由に使っていいと話したのだ。他のことは我慢して後回しにしてもいいわけだ」
「こんなときに僕が家に来ていたのは良かったと思っている。今度の事故のために(僕が両親と意見の相違を来していた)いくつかの問題がすっかり後ろの方へ追いやられてしまったので、我々はとても調子よく行っている33

ゴッホはテオからの仕送りを父へ差し出し、アンナを甲斐甲斐しく介助しました。また「必要な時」の為に担架を自作しています。

この事件をきっかけに家族との関係は好転していくように思われました。

ファンゴッホ美術館蔵「ヌエネンのカルヴァン派教会を後にする群衆」1884年1月
ファンゴッホ美術館蔵「左向きの機織り」1884年1月
バイエルン州絵画コレクション「開けた窓辺の織工」1884年

テオとの契約

ヌエネンでの父ドルスとの口論の件を知った弟テオは憤慨し、ゴッホを「情けない奴」となじりますが、これに対してゴッホは長文で自身の正当性を訴え、非があるのは父の方であると反駁しました。

またドレンテでの件(テオがグーピルを辞めなかったこと)について根に持っていたゴッホは、批判の矛先をテオに向け、シーンの一件について責任を追及しだします。

「僕は彼女(シーン)の過ちに対して過去も現在も決して目を閉じているわけではない、それにもかかわらず彼女を救おうと努力した、今も努力している、だからこそ君は僕の感情をもっと尊重し、もっと理解してくれても良かったではないか〔……〕僕の方も、彼女を見捨てざるを得ないような土壇場まで追い詰められなかったはずなのだ」34

また、テオに送っていた自身の作品が全く売れないことに対して、

「君は今まで僕のために一枚だって売ってくれたためしがない、いや、実際君は一度も売ってみようとさえしなかったのだ35

と訴え、自身が自立できないのはテオに責任があると喚きました。

ファンゴッホ美術館蔵「刈り込まれた樺の木」1883年3月
ゴッホは枝を刈られた木をモチーフにすることを好みました。
幹の無骨な凹凸を丁寧なハッチングで描いており、素描する力は向上していることが窺えます。

手紙の中での癇癪は続きます。

君からいつも受け取っているカネが第一に何かお情け次第のものとして、第二にいわば哀れな愚か者への施しとして見られている
「僕は全然見も知らぬ人たちから一週間に少なくとも三度は『どうしたわけであなたは絵を売らないのですか』などと尋ねられた。こんな事情の中で日々どれだけ楽しい生活が送れよう」
「君には大変はおかげを被っている」

テオからのお情けの援助で生活しているという周囲からの目線に自尊心が傷ついている、またそれはテオの責任でもあると訴えました。

そして、この援助の問題について勝手な「将来の提案」をします。

「僕の作品を君の所へ送らせてくれ、それを君は好きなようにしたらいい。ただし、三月以降君から受け取るカネは僕が稼いだカネであるということにしたいのだ36

この訴えは世間の目を気にせず活動したいという意味と、さらにもう一つ「誰からの干渉なく自由になりたい」という願望も含んでいました。

実家の老いた両親ではもうゴッホを制御することはできないのは明白であるため、事実ゴッホを制御できるのはテオだけでした。
テオは両親に代わり援助を行い、度々暴挙に走る兄を叱り、時には送金停止することで兄に手綱を掛けて制御してきました。
しかし、今度の要求はその手綱を放棄せよということに等しいものです。そんなことは両親の為にもできません。しかし、要求を拒否すればヌエネンの両親をさらに困らせるのは目に見えていました。
テオはしばらく手紙もカネも送らないという抗議に出ましたが、結局テオが折れ、ゴッホの要求をのむことになったのです。

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵「織工の小屋」1884年
画面は暗く色彩に欠けます。当時、印象派を推していたテオからすると兄の絵画を認めることはできません。まして店頭に並べるなど画廊の信用に関わる行為はとれるはずがありませんでした。

孤立

1884年夏、ゴッホは母アンナの看病に通っていたマルホット・ベーヘマンと恋仲になり結婚まで話は発展します。しかし、シーンの一件がトラウマとなっているゴッホ家からはトラブルを恐れて反対されました。また、ベーヘマン家も、奇矯で迷惑な「絵描き小僧」ゴッホとの結婚は許しませんでした。ベーヘマン家は亜麻布工場を所有する裕福な家だったため、ゴッホが資産目当てでマルホットに言い寄ったのではないかと疑っていたようです。

9月、結婚を反対されマルホットは絶望し、ストリキニーネを飲んで自殺未遂事件を起こしてしまいます。
命に別状はなかったマルホットですが、スキャンダルを恐れた家族から事件後ユトレヒトへ移されてしまいました。

マルホット・ベーヘマン(1841~1907)の胸像
画像:by Daan0416

10月にはラッパルトがヌエネンに訪れゴッホと一緒に制作しますが、前回のような穏やかな滞在にはなりませんでした。

ラッパルトは順調に経歴を重ねており、彼の作品はロンドンの万国博覧会で銀賞を受賞しユトレヒトの国内展にも展示さていました。
ライバル心を燃やすゴッホは制作中、ラッパルトの作品を執拗に批判します。そのあまりのしつこさにラッパルトは激怒し関係性は悪化してしまいました。

アントン・ラッパルト作「織工」1884年
ラッパルトはゴッホと一緒にヌエネンの農家や織工を訪ね、彼らを描きました。

マルホット・ベーヘマンの自殺未遂事件の噂は周囲に広がり、ゴッホ自身だけでなくゴッホ家・牧師館をも危うい立場に追いやります。テオへの手紙にて両親は嘆きました。
「フィンセント(ゴッホ)とマルホットのために、人々と我々の関係は変わってしまった」
「彼と出くわすのが嫌で、人々は我々に会いに来なくなった。少なくとも隣人たちは。そして彼らの判断は正しいと言わざるを得ない」37
ゴッホは近隣住民からだけでなく家庭内においても孤立していきます。

それに加えラッパルトとの関係悪化は、精神的に追い詰められていたゴッホにとって決定的なものとなります。
夕食時にゴッホが突然ドルスに激怒した時の様子を、ラッパルトは後に記しています。
「怒りの余り、彼(ゴッホ)は肉切りナイフをボンから摑むや、席を蹴って立ち上がり、当惑する老人を威嚇したのだ」38

両親はゴッホを心配すると同時に恐怖している旨をテオに伝え、助けを求めます。
フィンセント(ゴッホ)は非常に激しやすい…その行動は、ますます不可解になる一方だ…悲憤に囚われ、安らぎはどこにもない…神よお助けください39
ドルスは「我々は彼を宥めるために最善を尽くしている」としながらも「我々は見守る、敢えて道を示すことは望まぬ」「ある種の事柄はただ起るに任せるしかないのだ」40とテオへ嘆き、もはや自身ではゴッホを制御できないことを訴えました。

そんな哀れな父にゴッホは容赦しません。ヌエネンでの兄の行い方に対して「疑問を抱いている」と批判した弟テオ宛にゴッホは憤慨しながら反抗の手紙を書きました。

「お父さんは僕に対して全く幾度となく、実にひどい疑惑をさしはさんだ。〔……〕ところが、それにもかかわらず、いつもお父さんは『ねえ、きみ』(ここの呼びかけの言葉は直訳すれば『わが友』ということになる)と呼ぶのだ。あんなことをしておきながらだよ。実際、自分に道理があると思い込んでいる人なのだよ。ほかの考え方がどうしてもできないのだ。結局のところ、まあ、言うなれば善意だったわけだ。だが、ある日、僕は率直に言ったのだ、『僕をそんなふうに思っている限りはねえきみなどと呼ばないで下さい』と。僕をそんな風に考えるものは僕の友達ではなくて、敵なのだ。彼らが最悪の敵であることは2×2=4と同じくらい確かなのだ。君が疑惑を抱いているということへの返答として、君に対しても全く同じことが言えるわけだ。〔……〕はっきり言っておくが、お父さんや君と妥協するような約束は絶対にしない。この点はしっかり肝に銘じてほしい」41

ゴッホがヌエネンに住み始めて1年以上経過していましたが父子の抗争は依然として継続しており、それは治まるどころか激しさを増していきました。
しかし、その抗争は父ドルスの突然の死により終わりを迎えます。

父の死

父ドルス(Theodorus van Gogh)
1822~1885

1885年3月26日、父ドルスは近郊の町ゲルドロップの町まで出かけ塀の修繕を行い、その後友人との会食、ピアノの独奏会に参加していました。ゲルドロップはヌエネンから8㎞程度離れており、その日は4月前にもかかわらず雪が降り凍てつく夜でしたが、ドルスは徒歩で帰路につきます。
午後7時30分頃、女中が牧師館の入り口がガタガタ鳴るのを聞き不審に思い戸を開くと、ドルスが彼女にもたれ掛かってきました。
ドルスの意識はありません。居間に運ばれ救命措置が取られましたが、彼は既に事切れていました。
死因は広範囲に及ぶ血栓症と告げられます。

翌日、ゴッホはパリのテオへ電報を打ちます。
「父が脳卒中で倒れた。至急戻れ。だがもう手遅れの様だ」

ゴッホの32回目の誕生日3月30日にドルスの葬式が開かれます。
伝道師を志していたころであればゴッホは周囲を慰めるために熱狂して行動し、後の手紙でその時の心情を情熱的に語ったものでしたが、今回は違いました。

「最初のいく日かはいつもと違ってまるで仕事が手につかなかったと君は書いているが、僕も君と同じ気持ちだった。僕の方も全くその通りだった。実際、あの何日間は、僕らにとって容易に忘れられぬ日々にとなるだろう」42

と葬式の後にテオの手紙に綴ったのみで、それ以降父の死について直接的に触れようとしませんでした。

しかし一方でゴッホは父の煙草入れとパイプの静物画を描きました。それは完成後、何らかの理由で塗りつぶされ、現在はその上には別の絵「バスケットの中のリンゴ」が描かれています。(参考:ファンゴッホ美術館ジャーナル1995https://www.dbnl.org/tekst/_van012199501_01/_van012199501_01_0006.php
また、その素描はテオへの手紙に同封されています。

「前景にあるのはお父さんの煙草入れとパイプだ。もし、君が欲しいと言うなら、もちろん、喜んで君に上げる」

かつて、ボリナージュで負傷した炭鉱夫を看病したように、あるいは先日転倒した母を懸命に看病したように、ゴッホは弱者や病人に対しては同情し非常に献身的な行いで応えました。
父ドルスもゴッホとの口論に対抗しながらも、息子の奇行の始末や妻アンナの看病で疲れ切っていました。しかし、ゴッホはそのことに気付くどころか父を「敵」としてなじり、ドルスが亡くなるまでその頑なな態度を改めなかったのです。
今更、後悔の念を表明し口先だけの慰めで赦しを乞うことはできませんでした。絵で表現することがゴッホにできる精一杯の追悼だったのかもしれません。

ファンゴッホ美術館蔵「花瓶の中の誠実」1885年3~4月
手紙に同封された素描。ドルスのパイプと煙草入れが描かれています。
ファンゴッホ美術館蔵「リンゴを入れたバスケットの静物画」1885年9月
X線の検査によりこの絵の下にパイプや煙草入れ、散った花等の絵が確認されました。

ジャガイモを食べる人々

ファンゴッホ美術館蔵「ジャガイモを食べる人々」1885年

時は遡り、ラッパルトのロンドンの万国博覧会で銀賞受賞を意識し焦っていた1884年11月初旬、ハーグのモーヴとテルステーフに復縁を請う手紙を出しました。当時の美術界のトップで活躍していた2人との繋がりを保つことは、これから成り上がる為に必要であると考えたからです。しかし、両名から返ってきたのは共に拒絶の返事でした。
しかし、ゴッホはモチベーションを強く保ちます。

「モーヴとテルステーフに訴えかけをやって断られたからこそ、僕はまた新たに何事かを成就したのだということを直接間接を問わずなるべく早く彼らに示さねばならないのだ43

父ドルスが亡くなる3週間程度前、テオはゴッホにパリのサロンへ作品を出してみてはどうかと提案しました。
ゴッホはサロンまで時間がないことを理由に断りますが、

「僕と言えば、いまだに一枚の油絵も、下手をすると一枚の素描すら世にしめすことができない。だが、習作を僕はやっている。〔……〕どこまでが習作で、どこからがタブローだなどと簡単に言えるものではない。僕は今色々ともっと手の込んだ作品を描く構想をねっている44

とサロンには出せぬにしろ、周囲を納得させるくらいの大作を制作する意欲を見せました。

その後の手紙では、その構想のスケッチを同封しています。
ヌエネンの農家に出入りをしながら何枚もの登場人物の頭部や部分的なスケッチ、習作を描き、タブローの完成を目指しました。

「僕は毎朝規則的に出かけて、畑で働いている人々であろうと、家の中で働いている人々であろうと、まず最初にぶつかったものと取っ組んでみるようにしたい」45

1885年4月9日の手紙内スケッチ
ファンゴッホ美術館蔵「フォークを持つ二つの手の素描」1885年3月
フォークを握る手は「ジャガイモを食べる人々」の中央左の女性の手のスケッチであると思われます。
人体素描の内、最も難しい部位の一つとしてあげられる「手」ですが人体の特徴をとらえ見事に描くことができています。
ファンゴッホ美術館蔵「女性の頭部(ホルディナ・デ・フロート)」
ファンゴッホ美術館蔵「ジャガイモを食べる人々のための習作」1885年
クレラー・ミュラー美術館蔵「ジャガイモを食べる人々のための習作」1885年4月




そして1885年5月初旬に出来上がったのが「ジャガイモを食べる人々」です。
テオが再三に画面を色鮮やかに明るくするよう促してきたにもかかわらず、本作品は中間色を主として描かれており画面は他のヌエネンの作品と同様に暗いままです。これに対してゴッホは持論を展開します。

「君が『あまりに黒すぎる』という言葉で何を言いたいのかは僕にももう充分に分かっている。しかし、他面、例えば灰色の空が常に固有色で描かれなければならぬというのはまだどうしても僕には納得できないのだ」46
「僕は百姓の絵にある種の紋切型の流暢さ与えることは間違いだと思う。もし、百姓の絵にベーコンの煙や馬鈴薯の湯気の匂いがしたら、しめたものだ。そいつは不健全じゃない。厩(うまや)に肥しのにおいがしたら、しめたものだ。まさしく、それは本物の厩だ。畠が熟れ麦とか馬鈴薯とか鳥糞や肥しのにおいを発散していたら、そいつは健全だ、ことに都会人にとってはね。こうした絵は彼らに何事かを教えることが出来よう。だが、香水の香りをさせることなんか百姓の絵には用のないことだ」
「僕は、ランプの光の下で馬鈴薯を食べているこれらの人たちが、今皿に伸ばしているその手で土を掘ったのだということを強調しようと努めたのだ。だから、この絵は『手の労働』を語っているのであり、いかに彼らが正直に自分たちの糧を稼いだかを語っているのだ」47

ゴッホが「ジャガイモを食べる人々」にて描きたかったことは偽りのない農民の生活そのものでした。労働後の夕食時に心もとないランプで身を寄せ合いながら食事をとっている姿こそ真実であるとゴッホは考えたのです。
その為に色がくすんでしまうのは必然であり、逆に白を絵具に混ぜると明るすぎる色になると語っています。
また、色彩についてはシャルル・ブランの著書「デッサン芸術の文法(Grammaire des arts du dessin)」を引用しながら、破調色(灰色掛かった色。例えば灰赤色や灰青色)同士を組み合わせることで中間色同士でも色彩豊かに描くことができたと主張しました。

「ジャガイモを食べる人々」はパリのテオの元へ送られます。テオは本作品に費やしたゴッホの苦労を察して公然とした批判は避けました。
「何人かの人が彼の絵を見ました。中でも画家たちは、それがとても見込みがあると考えています。とても美しいと感じた人もいます。特に人物が真に迫っていると」48
と母アンナへあたりさわりのない手紙を送りましたが、実際には数名に作品を見せたのみであまり周囲には「ジャガイモを食べる人々」を見せませんでした。それはテオ自身が当作品に良い印象を持っていなかったからに他なりません。

周囲からはあまり良い評価を得られなかった「ジャガイモを食べる人々」ですが、ゴッホは本作品について渾身の出来であるという自身の評価を覆すことはありませんでした。
後年、作品の画面が明るく色鮮やかになっていった1887年10月下旬において、
僕自身の仕事については『ヌエネンで描いた馬鈴薯を食べる人たちの絵は結局最上のものだ』と思っている。」
と末妹のウィレミーン・ファン・ゴッホへの手紙に記しています。

また、さらに後年の1890年4月下旬にはテオへ、
「僕の昔のデッサンで人物を描いたものを送ってください。ランプの光りの下で「夕食をしている百姓」のあの油絵(ジャガイモを食べる人々)を描き直してみようと思っているのだ。〔……〕君がまだあの絵を持っているようなら、今なら記憶であれよりも良いものが作れると思う。」
と「ジャガイモを食べる人々」を描き直す旨を語っています。
それほどまでに「ジャガイモを食べる人々」はゴッホにとって思い入れのある作品だったのです。

残念ながらその3か月後にゴッホは死去するためタブローとしての完成はみられませんでしたが、新しい「ジャガイモを食べる人々」の構想を示すスケッチが残っています。

1890年3~4月頃のスケッチ
1890年3~4月頃のスケッチ

ラッパルトとの絶交

ファンゴッホ美術館蔵「ジャガイモを食べる人々」リトグラフ、1885年4月
リトグラフは印刷するときに画像が鏡像状に左右が反転してしまいますが、ゴッホはそれを考慮しなかったようです。

1885年5月、ゴッホは「ジャガイモを食べる人々」のリトグラフバージョンを作成しラッパルトへ送りました。
同月、ラッパルトから返事がきますが、その内容はゴッホが期待していたものではありませんでした。

あんな作品は本気で描いたものじゃないという僕の意見には君も賛成だろう。〔……〕どうして、動きというものを研究しなかったんだい?あの人物たちは、単にポーズをとっているだけじゃないか。〔……〕右側にいる男はどうして、膝や腹や肺を持つことを許されないのか?そんなものは背中についているのか?〔……〕また、左手の女は、鼻の代わりに、端に小さな立方体の付いたパイプの軸をつけていなけらばならないのか?こんなやり方で仕事をしながら、君は、ミレーやブルトンの名前を呼び出そうというのかい?勝手にするがいい!僕の考えでは、芸術というものは、このように無神経に扱われるには、余りにも崇高なものなんだよ49

飽くまでリトグラフ作品をみた上での評価ですが、ラッパルトは「ジャガイモを食べる人々」に対してこの上ない酷評を下します。
この返事に案の定激怒したゴッホは、ラッパルトからの手紙を送り返します。それでも気が済まないゴッホはラッパルトへ改めて長文で苦情と軽蔑の手紙を書きました。

君は、僕が人物の形態に注意を払わないと繰り返し書いていたね、そんなものに注意を払うのは、僕にとってはつまらぬことなんだ。それにそういう根拠もないことを口走るのは、君らしくない振る舞いだ。〔……〕実に悲しいことだが君は僕にはほとんど何の役にも立たなかった。それに、こんなことを言うのは最初で最後だから僕の率直な言葉に腹を立てないでほしいが、僕は、君の友情ほど干からびた友情を見たことがないよ。〔……〕君が僕と絶交したいのなら僕としては別に構わない。〔……〕君は、君の仕事についてなにも書いてくれなかったね、僕も何も書かないよ。」

そして、何度か手紙でやり取りをした後、最終通告をします。

「これが僕の最後の言葉だよ。僕は、君が最近何通貨の手紙で書いたことを、率直かつ無条件に、取り消してほしいのだ。先ず最初に、僕が送り返したあの手紙だ。〔……〕あの手紙で言ったことを無条件で取り消せば、僕たちはまた友達になれるだろう」50

ゴッホはテオに対してこのような「最終通告」を良く用い、テオを大いに困惑させました。その結果ゴッホはあらゆる要求を通してきましたが、肉親ではないラッパルトにその手は通用しません。
ゴッホとのやり取りにうんざりしていたラッパルトは容赦なく関係を断つことを選択します。もちろん意見の撤回をすることなく。

故郷との別れ

1885年7月(32歳)の終わり、「ジャガイモを食べる人々」のモデルであったホルディナ・デ・フロートの妊娠が発覚します。その件について真っ先に疑われたのは頻繁にデ・フロート家に出入りしていたゴッホでした。
「絵描きの小僧」としての素行の悪さは無論のこと、マルホット・ベーヘマンとのスキャンダルもあり、村民にとってゴッホの印象は最悪でした。その為、ホルディナとの疑惑は容易に晴らせるものではありません。
ついには地元のカトリック教会から村民へゴッホのモデルになることを禁止する指導が行われ、ゴッホは人物画を描く手段を失ってしまいました

父ドルスの死後、ヌエネンの実家との関係も悪化し、母や妹らとは別居状態となっていました。
母と同じ名前の妹アンナは後年、この時期のゴッホと家族関係について回想します。
「(ゴッホは)やりたい放題で、皆を不快にさせていました。父さんだって、そういうことに悩まされたに違いありません」51
このままでは母も殺されてしまうと考えたアンナはゴッホに家を出るように迫ったのでした。

そして、とうとうヌエネンにゴッホの居場所は無くなり、ヌエネンを去らざるを得なくなります。

ヌエネンを発つ前にゴッホは、知人アントン・ケルセマーケルスの元を訪れ、記念として秋の風景の習作を残していきました。ゴッホのサインが無いことにケルセマーケルスが言及すると、ゴッホは答えました。

「多分、またいつか戻って来ますよ。しかし、今はサインの必要はないでしょう。のちになれば誰もが、僕の作品だときっと見て取ってくれるでしょうし、死ねば僕のことを書くでしょう。僕が生きながらえている間は、それを心掛けるようにしましょう。」52

1885年11月末、ゴッホはヌエネンを発ちます。
知人との何気ない約束に「いずれは関係も修復されヌエネンで家族と一緒に暮らせる日が来るだろう」と期待を持つゴッホでしたが、この日以降ゴッホは二度と祖国オランダの地を踏むことはありませんでした。

クレラー・ミュラー美術館蔵「4本の木がある秋の風景」1885年11月

第2部のまとめ

聖職者への道に挫折したゴッホですが、画家として再起を果たします。
ゴッホと言えば色彩の画家で知られていますが、画家を志した当時からヌエネンまでの約5年間(ゴッホの画家人生の約半分)は非常に画面が暗い絵を描き続けました。
その理由はバルビゾン派への憧れ、特にミレーに強い憧れを持っていたことに起因します。また、それと同時にゴッホが貧困層や虐げられている労働者のために「何かしてやりたい」という性根から発したものでもありました。
しかし、写実性という面ではミレーやブルトンという巨匠の前では非常に劣っており、斬新さという面では印象派に及びません。画商の弟テオは流行りつつあった印象派を推しており、ゴッホにも色鮮やかで明るい絵を描くよう勧めますが、ゴッホは頑なに暗い絵にこだわります。農家に通いつめ5年間の集大成として完成させた「ジャガイモを食べる人々」もテオの心を揺さぶることはありませんでした。

しかし、暗い絵を描き続ける一方、シャルル・ブランの色彩学に興味を示し「ジャガイモを食べる人々」では中間色の中に絶妙な色の組み合わせがあることを学びました。

ゴッホの絵がどのように変化していくか、第3部アルル時代へ続きます。

参考文献・サイト

・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第二巻」みすず書房 1984年8月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第三巻」みすず書房 1984年9月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行
・二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年11月1日発行
・Van Gogh Museum・Huygens ING運営「VIncent van Gogh The Letters」2021年10月更新、https://vangoghletters.org/vg/、2024年4月25日アクセス

引用・出典

  1. フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行、274頁 ↩︎
  2. 二見、1984年7月2日、292頁 ↩︎
  3. 二見、1984年7月2日、282頁 ↩︎
  4. 二見、1984年7月2日、283頁 ↩︎
  5. 二見、1984年7月2日、301頁 ↩︎
  6. 二見、1984年7月2日、304~305頁 ↩︎
  7. ・杉浦恭(2005)「オランダにおける労働環境の変化:19世紀後半から20世紀前半にかけて」、愛知教育大学研究報告,54(人文・社会科学編),pp.169~177、171頁 ↩︎
  8. 二見、1984年7月2日、308頁 ↩︎
  9. 二見、1984年7月2日、346頁 ↩︎
  10. 二見、1984年7月2日、348頁 ↩︎
  11. フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第二巻」みすず書房 1984年8月20日発行改版第一刷、401頁 ↩︎
  12. 二見、1984年8月20日、397頁 ↩︎
  13. 二見、1984年8月20日、398頁 ↩︎
  14. 二見、1984年8月20日、408頁 ↩︎
  15. 二見、1984年8月20日、401頁 ↩︎
  16. フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷、1250頁 ↩︎
  17. 二見、1984年8月20日、452頁 ↩︎
  18. 二見、1984年8月20日、461頁 ↩︎
  19. 二見、1984年8月20日、460頁 ↩︎
  20. 二見、1984年8月20日、462~463頁 ↩︎
  21. 二見、1984年8月20日、473頁 ↩︎
  22. 二見、1984年8月20日、489~490頁 ↩︎
  23. スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行、315頁 ↩︎
  24. 二見、1984年8月20日、537頁 ↩︎
  25. 二見、1984年8月20日、569頁 ↩︎
  26. フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第三巻」みすず書房 1984年9月20日発行改版第一刷、764頁 ↩︎
  27. 二見、1984年9月20日、749頁 ↩︎
  28. 二見、1984年9月20日、906頁 ↩︎
  29. 二見、1984年9月20日、965頁 ↩︎
  30. 二見、1984年9月20日、1001頁 ↩︎
  31. 二見、1984年9月20日、1005頁 ↩︎
  32. 二見、1984年9月20日、1005頁 ↩︎
  33. 二見、1984年9月20日、1034~1036頁 ↩︎
  34. 二見、1984年9月20日、1027頁 ↩︎
  35. 二見、1984年9月20日、1043頁 ↩︎
  36. 二見、1984年9月20日、1054頁 ↩︎
  37. ネイフ・スミス、2016年10月30日、436頁 ↩︎
  38. ネイフ・スミス、2016年10月30日、428頁 ↩︎
  39. ネイフ・スミス、2016年10月30日、428頁 ↩︎
  40. ネイフ・スミス、2016年10月30日、437頁 ↩︎
  41. 二見、1984年10月22日、1123~1124頁 ↩︎
  42. 二見、1984年10月22日、1143頁 ↩︎
  43. 二見、1984年10月22日、1115頁 ↩︎
  44. 二見、1984年10月22日、1141~1142頁 ↩︎
  45. 二見、1984年10月22日、1150頁 ↩︎
  46. 二見、1984年9月20日、1077頁 ↩︎
  47. 二見、1984年10月22日、1161頁 ↩︎
  48. ネイフ・スミス、2016年10月30日、462頁 ↩︎
  49. フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷、1896頁 ↩︎
  50. フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1727頁 ↩︎
  51. ネイフ・スミス、2016年10月30日、457頁 ↩︎
  52. 二見、1984年10月22日、1250頁 ↩︎

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