絵金とは?高知に残る芝居絵屏風と夏祭り文化を徹底解説【朝倉神社・絵馬台】

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神社の参道を彩る「芝居絵屏風」

以前ご紹介した高知県赤岡町の「絵金祭り」
夏の夜、町の軒先に芝居絵屏風がずらりと並ぶ、あの独特なお祭りです。

実は赤岡町だけじゃなく、同じように絵金の芝居絵屏風を飾る夏祭りがあるのをご存じですか?
今回は高知市の「朝倉神社」で、毎年7月24日に行われる夏祭りをご紹介します。

▶赤岡町の絵金祭りについてはこちらの記事からどうぞ!


「朝倉神社」とは?

高知市朝倉にある「朝倉神社」
いつ創建されたのかははっきりしていませんが、斉明天皇と深いゆかりがあると伝えられています。

660年に唐と新羅によって滅ぼされた百済を救援しようと、斉明天皇は同地に移り戦いに備えましたが、この地で死去したとされています(諸説あり)。

斉明天皇(594~661年)

現在の本殿は江戸時代1657年に土佐藩第二代藩主山内忠義によって再建されたもの。現在は国の重要文化財に登録されています。
この本殿の特徴は壁板に施された絵画。2020年前後に修復されたようで、とても綺麗な状態でみることができます。
神社の建物にこんな綺麗な絵画が描かれているのはあまりみられませんよね。

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そして、この朝倉神社で毎年7月24日に行われるのが夏祭り
境内を彩るのは――あの絵金の芝居絵屏風なのです。

目次
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そもそも絵金ってだれ?

弘瀬 金蔵(ひろせ きんぞう、1812~1876)

通称「絵金(えきん)」。幕末に活躍した絵師です。

狩野派に入門して才能を認められ、土佐藩のお抱え絵師にまで上りつめたものの…20代後半で思わぬトラブルに巻き込まれ、御用絵師の地位を失ってしまいます

でも、そこで終わらないのが絵金。
その後は「町絵師」として各地で作品を描き続け、今も多く残っているのが「芝居絵屏風」です。

赤岡町で行われる「絵金祭り」でも有名ですが、実は高知市の朝倉神社でも、この芝居絵屏風を間近で楽しめる夏祭りが開催されているんです。

赤岡町所蔵《花衣いろは演技 鷲の段》

まるで鳥居?絵馬台に掲げられる芝居絵屏風

高知県では、絵金や弟子たちの芝居絵屏風がいまも各地に残っていて、夏になるとそれぞれの祭りでお披露目されます。

赤岡町の「絵金祭り」では、家の軒先に屏風を広げてろうそくで照らし出すスタイルが有名ですよね。
一方、朝倉神社ではちょっと違います。ここで使われるのは「絵馬台(えまだい)」と呼ばれる特別な装置。屏風をはめ込んで高く掲げるようになっています。

参拝する人は、その絵馬台を鳥居のようにくぐって神前へ
屏風絵が頭上に掲げられることで、まるで神聖な門をくぐるような体験になるんです。高い位置にあるぶん、屏風の迫力や神秘性が一段と際立って見えます。


では、次に展示される作品をいくつかご紹介していきましょう。

作品紹介

双生隅田川(ふたごすみだがわ)
—人買惣太自害(ひとかいそうだじがい—

二曲一隻屏風、紙本彩色、155.0×173.2cm
作品解説(クリックまたはタッチ)

物語のあらすじ

舞台は平安時代末期の隅田川。
人買い(いまで言う人身売買業者)の惣太は、元は武家の家臣でしたが、妻・唐糸のために金を横領してしまい、追放されてしまいます。
その罪を償うために一万両を貯めていたのですが、あと10両というところで事件が起きます。

惣太がいつものように騙して連れてきた少年・梅若。必死に抵抗する梅若を、惣太はついに手にかけてしまいます。
しかも後から知るのです。なんと梅若は、かつての主君・吉田家の子息だったということを…。

自責の念に駆られた惣太は、最期に自ら命を絶ち、その魂を天狗へと転生させます。せめてもの償いに、行方不明になった梅若の双子の兄・松若を探そうとしたのでした。

絵に描かれている場面

絵金が描いたのは、まさに惣太が切腹する決定的瞬間
大きく見開いた目で腹をかき切る惣太。その身体から立ちのぼる煙のような影が、天狗の姿へと変わっていきます。
その様子を見守るのは、妻の唐糸と吉田家の家臣・武国。画面いっぱいに迫ってくる迫力は、まさに絵金ならではです。

さらに細部にも注目。
右側に横たわるのは、命を奪われた梅若。
左奥には、川辺で天狗に驚く人々が小さく描かれています。ほんの一部なのに、次の展開を暗示するような細かさに思わず唸ってしまいます。

絵金の「血赤」

この作品でとくに目を引くのが、惣太の腹から噴き出す鮮やかな赤。
グロテスクなのに不思議と目が離せません。
この赤は「血赤(ちあか)」と呼ばれ、辰砂(硫化水銀)を使った天然顔料。土佐では魔除けの色ともされ、人々に親しまれてきました。

辰砂(水銀朱)
画像:by JJ Harrison

悲劇的で血なまぐさい場面なのに、画面は華やかで神秘的。
余白を重んじる当時の日本画とは対照的に、隅々まで物語を詰め込む絵金らしさが光る一枚です。

まさに「劇場型」の絵。芝居絵屏風の醍醐味が詰まった逸品だといえるでしょう。


船弁慶(ふなべんけい)

二曲一隻屏風、紙本彩色、171.8×181.5cm
作品解説(クリックまたはタッチ)

次にご紹介するのは、今も能や歌舞伎で上演される人気演目「船弁慶」を題材にした一枚。

物語のあらすじ

平家を討った源義経。しかし兄・頼朝と仲違いし、命を狙われることになってしまいます。
義経は弁慶ら家臣を連れて都を落ち、兵庫・尼崎の大物浦(だいもつのうら)へ。ここから西へ船で逃れようとしますが――航路は大荒れ。

「これは何か憑いているに違いない!」と船員たちが怯える中、海に姿を現したのは壇ノ浦で滅んだはずの平家の亡霊たち。その中でもひときわ恐ろしい武将・平知盛が、薙刀を手に義経へと斬りかかります。

義経は迎え撃とうとしますが、ここで弁慶が数珠を手に祈りを捧げると、怨霊たちはついに退散。なんとか義経一行は危機を脱するのでした。


絵金が描いた「船弁慶」

この物語を絵金は、大胆かつ迫力たっぷりに描いています。
荒れ狂う波、船上で嘔吐する船員、そして薙刀を振りかざす平知盛――どれも動きが活き活きとして描かれ、画面から飛び出してきそう。

特に知盛のポーズは歌舞伎の「見得」を思わせるほどキマっていて、とにかくカッコいいんです。

ただストーリーをなぞるだけでなく、鮮やかな色彩や独特の構図で観る人の目を釘付けにする。まさに絵金らしさ全開の一枚といえるでしょう。


近江源氏先陣館 盛綱陣屋(おうみげんじせんじんやかた もりつなじんや)

二曲一隻屏風、紙本彩色、171.0×182.0cm
作品解説(クリックまたはタッチ)

物語のあらすじ ~敵同士になった兄弟の悲劇~

時は鎌倉時代。
近江の武将・佐々木盛綱とその弟・高綱は、兄弟でありながら敵味方に分かれて戦うことになってしまいます。

盛綱の陣営は、ついに弟・高綱の子、小四郎を人質に取ります。
主君の北条時政はこれを利用し高綱を寝返らせようとしますが、盛綱の胸中は複雑。敵とはいえ弟に「裏切り」という汚名を着せるわけにはいかない――。

そこで盛綱は母・微妙と相談し、なんと小四郎に切腹させる決断を下します。まだ幼い小四郎は当然これを拒みますが、そのとき衝撃の知らせが届きます。

「高綱が討たれた」

北条時政が首桶を持って陣屋に現れ、盛綱に首実検を迫ります。
盛綱が桶を開け首を検めようとしたそのとき、小四郎が「父上、私もあとを追います」と叫び、自らの腹を切ったのです。

盛綱が目にした首は、実は偽物でした。
しかし、わが身を犠牲にして父を守ろうとした小四郎の覚悟を汲み取り、盛綱は「これこそ高綱の首に相違なし」と告げるしかありませんでした。

高綱に忠義を貫かせようとした盛綱でしたが、最後は高綱親子の忠義に胸を打たれ、自らが主君を裏切る道を選んでしまうのでした。


伊賀越道中双六 岡崎(いがごえどうちゅうすごろく おかざき)

二曲一隻屏風、紙本彩色、171.0×182.0cm
作品解説(クリックまたはタッチ)

「伊賀越道中双六」は、岡山藩士・渡辺数馬が姉婿・荒木又右衛門とともに、弟の仇・河合又五郎を討つ――そんな実話をもとにした物語です。
曾我兄弟の仇討ちや赤穂浪士の討ち入りと並ぶ「日本三大仇討ち」のひとつに数えられ、もとは浄瑠璃で演じられていた名作。

物語は、鎌倉から伊賀上野までの仇討ちの旅を全十段で描きます。いわば時代劇版「ロードムービー」と言えるでしょう。
その中でも「岡崎」の段は人気が高く、独立して上演されることも多い場面です。


物語のあらすじ~仇討ち道中のドラマ~

関所破りで危うく捕らえられそうになった又右衛門は、役人の幸兵衛に助けられます。実は幸兵衛はかつての剣の師。ですが、幸兵衛の娘・お袖は宿敵・又五郎の許嫁。つまり幸兵衛は敵の身内にあたるため、正体を明かすことはできません。

そこに現れるのが又右衛門の元妻・お谷。幼子を抱き、身を寄せようと幸兵衛の家を訪ねます。しかし、幸兵衛に正体が知られることを恐れた又右衛門は彼女を追い返してしまう。
そしてその幼子までも……仇討ちのために、自らの手で斬り捨ててしまうのでした。

義理と人情の板挟み。冷酷にも見える又右衛門の決断の裏に、武士としての悲痛な覚悟がのぞきます。


絵金が描く雪景色と「隠し落款」

絵金が描いたのは、まさにお谷が幼子を抱いて幸兵衛の家を訪れる瞬間。
雪の中、立つのもやっとの様子で必死に泊めてほしいと頼むお谷。その隣で、又右衛門は歯を食いしばり、手ぬぐいをねじりながら葛藤に身を裂かれている姿を見せます。

さらにこの作品の特徴は「雪景色」であること。絵金の作品で雪は珍しく、背景に散りばめられた白が、かえって色彩を鮮やかに際立たせています。

そして注目は画面左、夜回り男の提灯。そこには「雀翁(じゃくおう)」の文字が。これは絵金の画号です。
普通なら落款はわかりやすい位置に入れますが、絵金はあえて物語の一部に溶け込ませるように忍ばせました。

遊び心のようにも見えますが、実は若き日に巻き込まれた贋作事件の影響だとも言われています。模写した絵に偽の落款を押された苦い経験から、誰も修正できない場所に自らの署名を残すようになったのでしょう。


河田 小龍(かわだ しょうりゅう)
《佐倉宗五郎 子別れの段(さくらそうごろう こわかれのだん》
《白木屋》

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河田小龍と絵金について(クリックまたはタッチ)
河田小龍(かわだ しょうりゅう、1824~1898)

高知には絵金の芝居絵屏風だけでなく、同時代の絵師たちの作品も残されています。
そのひとりが「河田小龍(1824~1898)」です。

絵金と同じ土佐出身の画家で、親交も深かったといわれています。よく「絵金の弟子」と紹介されることもありますが、実際には師弟関係ではなく、画壇での先輩後輩といった距離感。ただし関わりは濃く、《四季美人図》では協作を残し、さらには絵金の墓標の文字を書いたのも小龍。互いに信頼し合っていたことがうかがえます。

画風にも違いがありました。
絵金が大胆なポージングや時に遠近法を無視した劇的な構図を好んだのに対し、小龍は正確な遠近法と安定感ある人物描写を大切にしました。
《佐倉宗五郎 子別れの段》を見ても、その落ち着いた構図が光ります。

そして何より驚くのは、こうした小龍の作品が、資料化もされずネット検索にもほとんど出てこないということ。
実際に夏祭りで出会って初めて「こんな絵があったのか!」と気づく人も多いでしょう。

こうした思いがけない発見があるのも、高知の夏祭りの醍醐味なんです。



高知の人々と絵金

屏風といえば、もともとは室内の仕切りや装飾に使う家具。
けれど絵金の芝居絵屏風は、その鮮烈な色彩や迫力ある描写からしても、家に飾るためではなく「祭りのために描かれたもの」だと考えられています。

当時の夏祭りでは、各地域が芝居絵屏風を神社に持ち寄り、「どの屏風が一番優れているか」を競う“絵くらべ”が行われました。勝った地域はその年の繁栄を約束されるとされ、いわば占いのような意味合いもあったそうです。

だからこそ氏子たちは「我が地域が一番を」と腕利きの絵師に注文を出しました。藩のお抱え絵師でもあった絵金のもとには依頼が殺到し、結果として今も高知のあちこちに芝居絵屏風が残ることになったのです。

現在では“絵くらべ”こそ行われなくなりましたが、夏祭りの夜に芝居絵屏風を飾る文化は受け継がれています。
朝倉神社の夏祭りもそのひとつ。7月24日の夕暮れには、地域ごとに屏風を持ち寄り、絵馬台にはめ込んで参道に並べるのです。

驚くべきは、その展示方法。
本来なら美術館で厳重に管理されるべき紙の作品が、夏の夜気の中で吹きさらしにされる――。しかも絵馬台にセットする作業は地域の方々が行い、ときには「落ちそうになっている!」なんてハプニングも(筆者は実際に目撃しました笑)。

美術作品としては必ずしも理想的な保存環境とは言えません
けれど、公的に保管されガラス越しに眺めるだけのものになってしまったら、このお祭りの形はきっと失われていたでしょう。地域の人々が自分たちの手で守り、使い続けてきたからこそ、芝居絵屏風は“生きた文化”として伝わってきたのだと思います。

ちなみに、絵馬台も消耗品。
2021年には地元の工業高校の生徒さんが新しい絵馬台を製作しました。少子化の中で祭りの担い手が減っている現状を思えば、こうした若い力は本当に心強いニュース。

願わくば、この祭りが100年先も続き、未来の人々にも絵金の芝居絵屏風を“夏の夜に実際に見る”体験が受け継がれていきますように。

参考動画:建築学ぶ高校生が“絵馬台”修復「100年ばぁ持つ」神社の夏祭りで『絵金』飾る【高知】/高知さんさんテレビ(2021年1月13日公開)
https://www.youtube.com/watch?v=Spcqe52FH8Y

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