第1部「誕生から画家を目指すまで」の続きです。
本稿、第2部ではゴッホのオランダ時代について解説していきます。
前回のおさらい
宗教に情熱を燃やすゴッホは両親の反対を押し切り聖職者になることを決意します。
聖職者を目指しボリナージュにて伝道活動に勤しむゴッホでしたが、その行き過ぎた行動から当地の委員会から活動の中止と俸給の中止を言い渡されてしまいました。
画家を志す
絶望の果てに残されたもの
ボリナージュで聖職者への道を断たれたゴッホは、深い失意の中にいました。しかし、その中でも彼は自身の内にわずかな希望を見出します。それは「絵を描くこと」でした。
かつてゴッホは宗教への情熱に目覚め、熱心に学んでいましたが、その一方で絵を描くことも手放してはいませんでした。ドルトレヒトで書店員をしていた時期や、アムステルダムで受験勉強をしていた頃、ゴッホはしばしば美術館を訪れていました。絵を描くことは、孤独なゴッホにとって常に必要なものだったのです。
そんな彼はボリナージュの人々を鉛筆で素描し始めます。さらには、かつてグーピル商会での上司であったテルステーフから水彩道具を送ってもらい、水彩画にも取り組みました。
「君に何枚か素描をみせたい。〔……〕僕は度々夜遅くまで描いている。」1
しかし、ゴッホ自身は絵を仕事にできるとは考えていませんでした。また、素描の話を聞いた弟テオも、兄が画家になれるとは思っていなかったのです。二人とも美術商の経験から、画家として成功することの難しさをよく理解していました。
1879年8月、テオがゴッホを訪ねた際、「家族に多くの苦労を引き起こされている」、「そろそろ自活を始めなければならない」と忠告します。ゴッホは自分で生計を立てることを強く求められましたが、何を仕事にすべきか分からず、再び途方に暮れてしまいます。
北フランスの放浪
1880年3月、ゴッホは北フランスを放浪します。持っていたわずか10フラン(当時の価値で1~2万円程度?)をすぐに使い果たし、彼は1週間、道路を歩き続け、夜は捨てられた荷馬車や藁の中で過ごしました。そして、北フランスのクーリエールに辿り着きます。
この旅の目的について、ゴッホは「はっきり説明できない」と語っています。しかし一方で、クーリエールに住む画家ジュール・ブルトンを訪ねようとしていました。ブルトンは、ゴッホが尊敬するバルビゾン派の画家で、ゴッホはグーピル商会時代に一度彼に会ったことがありました。もしかすると、ブルトンに会うことで自分の進むべき道を見つけられるのではないかという淡い期待を抱いていたのかもしれません。
しかし、ゴッホはブルトンの家の扉を叩くことはありませんでした。その理由として、ゴッホはブルトンの家が「無愛想で、人を苛立たせるような外観」だったと述べていますが、同時に「思い切って中に入って自己紹介する気になれなかった」とも語っています。彼は、自分のボロボロの姿に自己嫌悪を感じ、ブルトンに会うことができなかったのでしょう。
ブルトンに会うことなく、北フランスの放浪で具体的な成果は得られませんでした。しかし、ゴッホはクーリエールの風景、積藁や褐色の耕地、澄み切った空、苔むした草葺き屋根に、霊的な美しさを感じ取ります。疲れ果てた彼でしたが、その美しい景色の中で、自らのエネルギーが再び湧き上がるのを感じました。そして、この時、ゴッホは生涯を通して絵を描き続けることを決意します。
「自分の精力がよみがえってくるのを感じて〔……〕どんなことがあろうと、ぼくはまた立ち上がろう、大きな落胆の中で捨ててしまった鉛筆をもう一度取りあげよう。またデッサンを始めよう〔……〕それ以来、僕の目の前の一切が変わってしまった。」2
この時、ゴッホは既に27歳になっていました。
エッテンへの帰省、父ドルスとの軋轢
北フランスを放浪して心身ともに疲れ果てたゴッホは、一度ボリナージュからエッテンの両親の元へ帰省します。痩せこけて骨と皮だけの姿となったゴッホを、家族は困惑しながら迎えました。
今回の放浪や、ズンデルトでのアールセンとの騒動、そしてボリナージュでの過剰な伝道活動から、父ドルスは次第に「息子は異常である」と感じるようになります。ドルスは、ゴッホをエッテンの南にあるヘールの精神病院へ入院させることを決意し、精神科医の診察を受けるよう促しました。しかし、ゴッホはこれを頑なに拒否し、再びボリナージュへと戻ってしまいます。
ゴッホは聖職者である父を敬愛していましたが、ボリナージュでの伝道活動を否定されたことや、今回の精神病院への入院を巡る対立によって、父ドルスに対する不信感を募らせるようになりました。
画家ファン・ゴッホ
僕の苦悩はただ一つ、どうしたら自分が何か善いことのできる人間になれるか、何かの役に立つ人になれないものだろうか〔……〕このことなのだよ、絶えず僕を苦しめているのは。」3
ゴッホは伝道師として活動していた時と同様に、画家としても人の役に立つ方法を模索しました。その結果、彼はバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーに倣い、社会階層の中で最も過酷な境遇にいる人々を描くことに使命を見出しました。そして、伝道師として叶わなかった野心を、新たな画業に託します。
「真に善きもの、美しいもの、人間とその手になるもののなかで内面の道徳的な、精神的な、崇高な美しさ、これら一切は神から出たものだ。〔……〕偉大な芸術家や真剣な巨匠がその傑作のなかで言おうとした究極の言葉を汲みとろうと努めたまえ、そこに神を見出すことになるだろう」4
ゴッホは、ボリナージュで出会った炭鉱夫たちを素描し、時にはミレーの版画を模写しました。人物画の難しさを感じると、元上司テルステーフに手紙を送り、彼に「バルグのデッサン教本」(グーピル商会が出版したデッサンの教本)を貸してくれるよう頼みました。テルステーフは教本に加え、解剖学と遠近法の本もゴッホに送ります。このようにして、ゴッホは持ち前の行動力と集中力を活かし、画業に没頭していきました。
意気揚々と画家としての道を歩みだしたゴッホでしたが、その一方「自活しろ」との家族からの命令は果たせずにいました。素人画家の絵が売れるはずもなく、またゴッホ自身も他の仕事で生活費を稼ごうとはしません。
収入源のないゴッホは、この時期から父ドルスに加えて弟テオからも生活費の援助を受けるようになります。
ブリュッセルへ
カネの浪費
1880年10月(27歳)、ゴッホは、ボリナージュの小さな部屋が「デッサンには実に不便」という理由で、テオに知らせずブリュッセルへ移ります。計画性のないゴッホは宿も決めておらず、居酒屋兼宿屋「オザミ・ド・シャルルロワ」に滞在することになり、宿賃として月50フランを費やしました。これは少なくない額で、彼の無謀な出費の始まりでした。
ブリュッセルに到着後、ゴッホはテオの元上司でグーピル商会のブリュッセル支店長シュミットを訪ね、画家仲間を紹介してもらおうとしました。シュミットはテオへの信頼もあり、ゴッホを親切に迎えましたが、突然訪ねてきた素人画家に戸惑ったことでしょう。
テオはゴッホからの手紙で、兄がブリュッセルに移り住んだことやシュミットを訪問したことを知り、大いに困惑します。テオはグーピル商会との関係悪化を恐れ、ゴッホに無闇に商会を訪ねないよう警告しました。しかし、ゴッホはそれだけで済む人物ではありませんでした。
無計画にカネを使い始めたゴッホは、仕送りを受け取りながら、生活必需品の他に上質な上着を購入し、遠近法の学習のために無名の画家のレッスンを受けるようになります。そしてゴッホが特に多くの資金を費やしたのは、モデル代でした。
「僕はほとんど毎日誰かしらモデルを使っている。年寄りの運搬夫とか、労働者とか、少年などがポーズをとってくれる。先の日曜には多分二人の兵隊が来てモデルになってくれるはずだ。」5
当時、一般的な画学生は石膏デッサンや模写から始め、1年以上かけてから人物画に挑戦するのが普通でした。(ブリュッセルにも美術学校があり、授業は無料で受けることができました)それにもかかわらず、ゴッホは素人モデルに報酬を支払い、毎日のように自室でデッサンをしていたのです。さらに、彼はモデルの衣装をコレクションしようと企て、両親にさらなる送金を頼みました。
「僕は追い追い、僕の画のモデルたちに着せる衣服の小さなコレクションを持たなければならないからなのです。例えば、ブラバントの百姓の青い仕事着、抗夫たちが着る灰色の…〔……〕僕が自分のアトリエらしきものを持った時には、これらの着物を存分に使えるようになるでしょう。必要な衣装を着たモデルを描くこと、これが成功するための唯一の方法です。」
「今月の追加分をいくらか送金していただくことができるようでしたら、お願いしたいと思います。」6
当時、ゴッホの主な仕送りは父ドルスの収入から賄われていました。ドルスがテオに宛てた手紙によれば、1881年1月初めに40グルデン、同月22日に20グルデン、2月初めに35グルデンをゴッホに送金しています。当時、オランダの成人労働者の平均日給は1グルデン程度7だったため、ゴッホがいかに多額の資金を浪費していたかが分かります。
ゴッホだけでなく、エッテンの家族も養う必要があった父ドルスは困り果て、ゴッホへの支援の多くをテオに任せるようになりました。テオは、グーピル・モンマルトル支店の支配人として若くして成功を収め、ドルスに劣らぬ収入を得ていました。
責任感の強いテオは、エッテンの両親に従い、ゴッホの生活を支える役目を引き受けます。この献身的な態度は、ゴッホや両親への強い愛情によるものでした。しかし、テオにとってこの役割は予想以上に困難で、彼の生涯を通じて大きな悩みの種となりました。
ラッパルトとの出会い
テオはシュミットに代わり、ブリュッセルの画家をゴッホに紹介しました。その中の一人であるアントン・ラッパルトは、ゴッホとすぐに打ち解け、以降5年間にわたりゴッホの貴重な友人となります。
ラッパルトは貴族出身で、弁護士の末っ子として生まれ、アムステルダムの美術アカデミーで学んだ経験を持っており、絵画の技術においてはゴッホよりも遥かに優れていました。また、5歳年下ながらも、ラッパルトはその年齢以上に成熟した人格の持ち主で、偏屈なゴッホにも分け隔てなく接することができました。
孤独だったゴッホにとって、ラッパルトは初めての画家仲間となり、彼に特別な友情を感じるようになります。そして、ラッパルトのアトリエで共に制作を行うようになり、二人は強い絆を築いていきました。
テルステーフとの不和
父ドルスに代わり、テオがゴッホを支援するようになりますが、裕福な親族であるセント伯父やコル叔父(アムステルダムで画商を営む父方の伯父)からの援助はありませんでした。このことに対してゴッホは、「伯父たちは裕福なのだから月に100フランの援助くらいあっても良いではないか」と不満を抱くようになります。しかし、100フランは当時の世帯収入の平均額を上回り、一般的な労働者が家族を養う額を超える大金でした。
「世の中の人はみんな財政的な問題のために進歩を早められもすれば、妨げられもする。〔……〕僕はそのことを考えると、言わざるを得ないのだ。大体我々のような家族の中で、——つまり、二人のファン・ゴッホ、コル伯父とプリンセンハーヘの伯父(セント伯父のこと)は非常な金持で、二人とも美術の分野の人だ〔……〕こうした一門の中の僕が製図家※として決まった仕事を得るようになるまで、どうしても過さねばならぬその準備の間、何とか月に100フランくらいこのままずっと当てにすることができてもよかりそうなものじゃないか〔……〕彼は金をくれるのとは全く別の方法で僕を助けてくれることもできるのだ。例えば、もし都合つくなら、僕に色々教えてくれるような人たちを紹介してくれるとか、ある雑誌に決まった仕事を世話してくれるとか。」8
※:(原文では「teekenaar」と表記。オランダ語で「イラストレーター」的な意味。手紙の翻訳者ヨハンナ・ボンゲルが「draftsman≒製図家」と訳しているが「製図」では設計的な意味になってしまうため、「素描家」や「挿絵家」などの方が意図として妥当である)
また、ゴッホは素描家としての成功には人脈が必要だと考え、かつての上司であるテルステーフに手紙を送り、支援を求めます。しかし、テルステーフからの返事は拒絶的で、彼はゴッホを「伯父たちの恵みにすがって暮らしてゆくつもりである」と批難したうえ、「そんなことをする権利はない」と厳しく糾弾しました。
テルステーフの目には、画家としての経験も浅く多額の支援を受けていながら、無計画にモデルを雇うゴッホの生活は不相応に映ったのです。「君は自分の権利を失っている」ときっぱり断り、別の仕事を探すように忠告しました。
この容赦ない物言いは、敏腕美術商テルステーフの豊富な経験に裏打ちされたものであり、ゴッホ以外には彼の才能を信じる者がいないという現実を反映したものでもありました。
エッテンへ
ラッパルトとの友情
1881年4月(28歳)、ラッパルトの帰省に伴い、一緒に使っていたアトリエを引き払うことになります。唯一の友人であるラッパルトがブリュッセルを離れることになったため、ゴッホも宿を引き払って実家のエッテンへ帰省しました。
6月にはラッパルトがエッテンのゴッホの元を訪れます。
ゴッホはラッパルトを連れてエッテン郊外の荒野や沼を散歩し、一緒に風景をスケッチしました。
初めての画家仲間が実家を訪ねてくれたことに、ゴッホは非常に喜びました。それを見た近隣の知人はこう語っています。「あれ程陽気な彼を見るのはそれが最初で最後でしたね」
初めて感じる画家同士の友情は、孤独に生きてきたゴッホにとって貴重な経験となりました。
この想いは後年、南仏アルルでの「黄色い家」の構想につながっていきます。
未亡人への恋、エッテンからの追放
1881年8月(28歳)、従姉ケー・フォス・ストリッケル(母アンナの姉とヨハネス・ストリッケル牧師の娘)が子供を連れてエッテンの牧師館を訪れました。ケーはその頃、病気によって夫を亡くしたばかりでした。
ゴッホはケーと一緒に過ごすうちに恋心を抱き、求婚しましたが、ケーは「駄目です、絶対に駄目です!」ときっぱり断りアムステルダムに戻ってしまいました。しかしこの拒絶の言葉が、諦めの悪いゴッホの情熱に火をつけてしまいます。
「この『駄目です、絶対に駄目です!』を僕は一塊の氷と考え、これを胸に押し付けて溶かしてしまおうとおもっているのだ」9
「『駄目です、絶対に駄目です!』に対する言葉は何か。『ますます愛する!』だ」10
この求婚に対して、両親からは「時宜を弁えぬ、慎みのない」行為だと批判され、父ドルスからは「お前は家族関係を破壊する気か」と怒られてしまいます。また、ケーの父であるストリッケル伯父からは「あれの『駄目です』は決定的なものだ」とこれ以上関わらないよう忠告を受けますが、ゴッホは意に介しません。
1881年11月、ゴッホはテオから旅費を無心してアムステルダムのケーの実家を訪れました。しかし、ケーには会うことを拒否され、あまりのしつこさにストリッケル伯父からは激怒されます。「お前の執念には反吐が出るぞ」とまで言われました。ゴッホはストリッケル家を執拗に何度も訪問し、ある時にはランプの炎に手をかざして「この手を炎に入れていられる間に彼女を連れてきてくれ」とケーの両親に迫りましたが、炎は吹き消され、結局ケーに会うことはかないませんでした。
この一件で両親やストリッケル伯父との溝は深まり、ゴッホはエッテンに帰省することができなくなりました。そこで、ハーグの義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴを頼り、しばらくハーグに滞在します。
同年12月にゴッホはようやくエッテンへ帰省しますが、クリスマスの日に教会に行く行かないという些細なことで父ドルスと口論になってしまいました。ゴッホはボリナージュでのこと(活動を邪魔した伝道委員会と父を同じものとみなしていた)や癲狂院の件、ケー・フォスの件について積年の不満をドルスへぶちまけます。
我慢ならなかったのはドルスも同様でした。ことごとく期待を裏切り続ける一家の厄介者に言い放ちます。「もうたくさんだ!」「おれの家から出ていけ、早ければ早いほど、1時間後よりは半時間後の方がいい」11ドルスは激怒し、ゴッホをエッテンの実家から追い出してしまいました。
ハーグへ
ハーグへの逃避
1881年12月末(28歳)、エッテンを追われたゴッホは、再びハーグの親戚である画家アントン・モーヴの元を訪ねます。
父ドルスは、ゴッホが親族に迷惑をかけることを心配し、仕送りの話を持ちかけますが、ゴッホはこれを拒否します。その一方で、モーヴから100グルテンという大金を借り、アトリエを借りる資金に当てました。これをテオに報告しますが、ゴッホの勝手な行動に激怒したテオは、しばらく返事を出しませんでした。
ゴッホは100グルテンを家具などに使い果たしてしまい、すぐに資金が底をつきます。そこで、慌ててテオに支援を求める手紙を送りました。
「ねえ、テオ、いったいどうしたというんだい?この前の僕の手紙は着かなかったのかい?〔……〕ここ二、三日というもの僕は本当にポケットに無一文になってしまっている。無論のこと僕は、一月のひと月分として少なくとも100フランは送ってもらえるものとすっかり思い込んでいたのだ。」12
これに対し、テオは怒りを露わにします。
「忌々しい話だよ、いったいあんな具合にお父さんやお母さんの生活を苦い味のものにしてぶち壊すなんて、何であんたはそんなに子供じみた、ぬけぬけとした振る舞いに出たんだね?」
「いつかはあなたがこの問題でこんなにも心無い振る舞いに出たことを後悔するだろうことは確かだよ」13
珍しく怒りをあらわにするテオでしたが、ゴッホは「僕は謝るつもりはない」「僕には後悔している暇はない」と開き直りました。さらには、テルステーフに頼んでお金を借りるという脅しまで持ち出し、テオに早急な送金を求めました。
「僕の仕事ぶりがフル・スピードで進むかハーフ・スピードで進むか全然お手上げになるかは、往々にして僕のポケットにカネがあるかないか次第ということになるのだ」
「できるだけ早く2月分のおカネを送ってくれ」14
ゴッホの身勝手な行動はますますエスカレートしていくのでした。
モーヴへの師事
念願のアトリエを手に入れたゴッホは、モーヴから絵の指導を受け、水彩画や油彩画を制作しました。絵を始めて1年余りの初心者であるゴッホに対して、モーヴは時間を割いて指導をし、「間もなく自身で幾らか稼げる日が来るだろう」と励ましてくれました。
「僕はモーブが大変好きだし彼とは共感する。僕は彼の仕事が好きだし、自分は彼から教わることができて幸いだと思う。」15
ゴッホは基本的にはモーヴの絵画指導に従順でしたが、制作に熱中するあまり、時折癇癪を起こすことがありました。ある時、絵を描く際にゴッホがカンヴァスに指で触れすぎることをモーヴが注意すると、ゴッホは強く反発します。
「一体、それがどうだと言うんですか。たとえ、踵で描こうと、絵が上手く行って、正しい効果が出れば、かまわんじゃないですか。」16
また、別の時には、モーヴが石膏像を使った素描を勧めたことで口論が発生しました。これに対し、ゴッホは激昂し、
「もう二度と俺に向かって石膏の話は持ち出すなよ、俺には我慢できんからな」17
と怒鳴り、さらにモーヴの話し方を「その喋り方たるや、アカデミーで一番の能なしの教師といえどもこういう喋り方はしまい」と批判したのです。
このような不遜な態度をとるゴッホに対してモーヴは次第に距離をとるようになりました。
そして決定的な事件が起こります。
シーンとの出会い。 モーヴとの破局
ゴッホはブリュッセル時代と同様、路上で見つけたモデルをアトリエに連れ込み、素描を続けていました。その中のひとりに、クラシーナ・マリア・ホルニク(通称シーン)という妊娠中の娼婦がいました。ゴッホは彼女に強く惹かれ、シーンと彼女の家族(母親と娘)を支援するようになります。
当時の社会では、性風俗産業に対する偏見が非常に根強く存在していました。特にゴッホの場合、自分のカネではなく、弟テオからの仕送りでシーンを援助していたこともあり、後ろめたさを感じていたゴッホは、このことを周囲には伏せていました。
しかし、ゴッホのアトリエに頻繁に出入りしていたモーヴやテルステーフは、シーンの存在に気づかざるを得ませんでした。この事実を知ったモーヴは、徐々にゴッホとの関わりを避けるようになり、ついには手紙の返事さえも出さなくなります。
そして、1882年4月。ゴッホは街中で偶然モーヴと出会い、仲直りを申し出ましたが、モーヴは冷たく彼を突き放し、絶縁を宣言しました。
「君には不道徳なところがある」「俺は決して君に会いには行かない。万事おしまいだ」18
白状と脅迫
ブリュッセルでの協力を拒んだテルステーフでしたが、ゴッホがハーグに来てからはカネを貸し、アトリエを訪れて作品を批評するなど気にかけていました。しかし、ゴッホの浪費や性的不品行に気づいたテルステーフは、ゴッホに警告します。
「君がもうテオからこれ以上カネをもらわないように手配するつもりだ」19
ゴッホは隠しきれないと判断し、テオにシーンとその家族について白状し、同情を求めます。ゴッホは送金の停止を恐れていました。
「この冬、一人の身ごもった女に出くわした。〔……〕出産は6月ごろとなるだろう。〔……〕僕だって一度だけは結婚できる身だ。してみればこの女と結婚するほどいいことがあろうか?それは彼女を救う唯一の道だ。さもなければまた彼女は窮乏のあまり、昔の生活へ戻らざるを得まい。〔……〕モーヴ、テオ、テルステーフ、君らは僕のパンを手中に制している。君らはそれを僕から取り上げるつもりだろうか」20
しかし、次の手紙では開き直りを見せます。
「君のカネの力がいかほどのものであろうとも」「無理やり僕に彼女との縁を切るように仕向けることはできないだろうぜ」
「僕は君に、何であれいろんな費用を負うてくれと頼むつもりはない。それどころか、君がカネを削減してきても完全に送金を停止してしまってもいいんだぜ〔……〕たぶん君以外にも進んで僕に暮らしをたてて行けるようにしてくれる人たちもいるかもしれないね」21
さらに、シーンとの結婚を宣言し、家族を養うには月150フランが必要だと強調しました。援助が無ければシーンの子供たちが「ひどい目に会う」と脅迫めいた言葉も書き添えます。
「月々150フランもらえれば、大いに活気づいて勇気も出して仕事に取り掛かるだろう〔……〕〕君が援助を撤回しようとしていることが定かに分かれば〔……〕僕は落胆してしまうだろう。そうなったらクリスティン(シーン)も子供もひどい目に会うだろう。〔……〕僕をぶん殴ったり僕の首(それからクリスティンと子供の首もだ)をちょん切ったりする前にもう一晩寝てよく考えてくれ」22
この時期、ゴッホはモーヴやテルステーフと疎遠になり、頼れるのはテオだけになっていました。懇願、開き直り、脅迫を繰り返す様子に、ゴッホの精神的な不安定さがうかがえます。
これらの交渉(?)の結果、テオからの援助を月150フランに増額することに成功し、シーンの家族と新たなアパートで同居を始めることになりました。
淋病感染。父の訪問
1882年6月(29歳)、ゴッホからテオに「病院にいる」という手紙が届きます。彼は淋病に感染(おそらくシーンが原因)し、ハーグの病院に入院していました。
「当分僕はこの病院にいる。でも入院は二週間だけだろう。三週間にわたって僕は不眠と微熱に悩み、放尿が苦痛だった。かくてはどうも、いわゆる『淋病』が実際あるのらしいよ。ただしほんの軽症だがね。」
シーンやテルステーフが見舞いに訪れる中、意外な人物が姿を現します。それは、昨年のクリスマスに喧嘩別れした父ドルスでした。ドルスはゴッホに、退院後一度エッテンに帰省するよう提案し、和解の意志を示します。
ハーグに到着したばかりの頃は父からの援助を断固として拒んでいたゴッホでしたが、モーヴやテルステーフとの関係が崩れていたこの時、父の提案を少し受け入れる気持ちもありました。しかし、彼には帰省できない理由(シーンとの関係)があったため、その提案を拒否してしまいます。
ゴッホはドルスに対してシーンのことは一切話しませんでしたが、ドルスはゴッホが忙しなく扉の方を「まるで私に会わせたくない訪問者を待っているかのように」23気にしていることに気付いていました。それでも、ドルスはゴッホを問い詰めることはありませんでした。
シーンとの同棲。テルステーフとの決別
1882年7月初旬、ゴッホは無事に退院します。一方、シーンはゴッホの退院前にライデンの病院で男児を出産し、ハーグのアパートに戻っていました。そんな中、テルステーフが訪問します。
子供が生まれ幸福感に浸っていたゴッホは、テルステーフから優しい言葉を期待しましたが、彼の反応は冷淡でした。
「あの女とあの子供、これはいったいどうしたわけなんだ?」
ゴッホが返答に困ると、テルステーフは怒りをあらわにして詰め寄りました。
「俺の方が気が違っていたとでも言うのかい?こんなことは明らかに、不健全な精神と性癖のなせるわざだったんだ」24
ゴッホがグーピルを退職してからも面倒を見ていたテルステーフでしたが、この出来事で完全に失望し、以降ゴッホと関わろうとしなくなります。彼は最後にこう言い残しました。
「お前(ゴッホ)はあの女を不幸にするするだろう」
このテルステーフの訪問により、彼の介入を恐れたゴッホは結婚について訴えることをやめました。テルステーフに加えて、両親までもが干渉してきた場合、すべてが台無しになると恐れたためです。
この出来事を通じて、ゴッホは金銭的に自立する必要性をこれまで以上に痛感します。弟テオの勧めもあり、売れる見込みのある風景画や水彩画の制作に取り組むようになりました。
また、作品を大量生産できることから石版画(リトグラフ)に目を付け制作しましたが、技術が未成熟なため上手くいきませんした。その為、石版画の作品数は少なく、数点しか現存していません。
シーンとの別れ
ゴッホとシーンとの同棲は1年余り続きましたが、1883年5月頃からゴッホはテオへの手紙にてシーンに対する不満を口にするようになります。
「時として彼女(シーン)の癇癪は僕にとってもほとんど耐え難いくらいのもの——荒々しく、禍々しく、悪いものとなる」26
一方でゴッホは依然として多くのモデルを雇い、素描を続けていました。彼はスープ配給所の光景に触発され、アトリエで同じような場面を再現する計画を立てます。複数のモデルを雇い、それぞれに衣装を買い与え、さらには、アトリエを実際のスープ配給所のようにし、貧しい人々が避難できる場所にしたいとテオへ語りました。
「もっともっとたくさんのモデルたち、貧しい人々のそっくり一群ぐらいを使って勉強をすることが僕の理想だ。その連中のためにはアトリエが、冬の日かそれとも仕事にあぶれたり酷く食いつめたりした時の避難場所みたいなぐあいになるだろうよ。連中がそこへ来れば、そこでは自分たちのために火も食事も飲み物もあるし、少しばかりのカネを稼ぐこともできることが判るだろう。〔……〕ちょうど今のところ、僕は数人のモデルで我慢をして、もっぱらその数人にかかりっきりさ——これ以上は独りも倹約できず、もう少し多くの人間が要り様になるだろう。」27
兄ばかりでなくシーンとその家族の世話まで強要され、挙句の果てには私立の炊き出し場までつくろうという意味不明な提案をする兄にテオはあきれ果ててしまいます。
ゴッホの無分別な要求をできるだけ吞んできたテオでしたが、彼の財政状況はかなり厳しい(グーピルの事業はかなり落ち込んでいた)状況でした。さすがのテオも我慢の限界を迎えます。
1883年8月、テオはハーグにいるゴッホを訪ね、最後通告をします。彼は今後もこの生活が続くならば、送金の保証はできないときっぱり伝え、ゴッホが生活を改めるためにはシーンとの関係を清算する必要があると強く訴えました。
テオはすぐにパリへ戻ります。ゴッホは手紙であれこれ言い訳を並べてテオの同情を引こうとしますが、テオは一歩も譲りませんでした。そして、ゴッホは最終的にシーンとの別れを決断したのです。
ドレンテへ
1883年9月(30歳)、ゴッホはハーグから北東に150㎞以上離れたドレンテ州ホーヘフェーンに移住しました。ヌエネンの実家(父ドルスの転勤でエッテンから移住していた)に戻ることも考えていましたが、テオからはブラバント(南オランダ全域)への立ち入りを禁止されていました(おそらくケーやシーンの件が理由でしょう)。そのため、以前ラッパルトから勧められていたドレンテへの移住を決めました。
自然豊かなドレンテにてゴッホは創作に励んでいきます。
ドレンテ滞在中の作品には風景画が多く、人物画はほとんど確認できません。彼の手紙には次のように書かれています。
「ここのヒース(泥炭地)ではぼくはモデルに困らされた。彼らは僕を嘲笑したり、からかったりした。少なくともこの土地の標準からすれば割のいいカネを払ってやったにもかかわらず、モデルたちの意地悪のためにせっかく始めた人物の習作を完成できずに終わった」28
ドレンテではモデルを確保するのに苦労し、人付き合いも以前のハーグ時代とは違って孤独でした。ハーグではシーンとその家族との同棲や、テルステーフやモーヴの訪問がありましたが、ドレンテには知り合いもおらず、モデルもほとんど雇えなかったため、一層孤独感が増していきます。
孤独に耐えきれなくなったゴッホは、弟テオに「グーピルを辞めてドレンテへ来て、一緒に絵を描こう」「画家になれ」と強く訴えるようになります。その訴えは徐々に真剣味を増し、次第に妄想に近い内容も手紙に綴るようになります。
「昔の巨匠たちの中にも、現代の画家たちにも、兄弟二人して画家になっている例はよくある。〔……〕僕らは少なくとも月に最低150フランは必要だろう。200フランあればなおいい。その為には信用貸しを見つけねばなるまい。その担保がないわけではない。僕らの作品がその担保となるだろう。」29
グーピル商会の稼ぎなしに200フランを得ることは困難であり、また、素人画家の絵を担保にカネを貸してくれる人間が存在するはずがありません。
テオがこの無謀な計画に同意することは当然なく、ゴッホの生活は次第に限界に達しました。ゴッホは結局ドレンテを去ることになり、その滞在はわずか3カ月間で終わりました。
ヌエネンへ
帰還
1883年12月(30歳)、ゴッホはヌエネンの家族のもとへ戻りました。
家族はゴッホを温かく迎えましたが、ゴッホと父ドルスは2年前の出来事について口論になってしまいます。
ゴッホはドルスにこう訴えました。
「お父さんがやはり僕を家から追い出すようなことはすべきではなかった〔……〕お父さんの心の中には自分の行為が正しかったということへの疑念の影が全然見受けられない」30
「お父さん、僕は今あなたの独善にぶつかっているのですよ、そいつがあなたにとっても、僕にとっても致命的だったし、現にそうなのですよ」31
これに対してドルスは反論します。
「私はあの時自分のやったことを決して後悔はしていない。いつだって私はお前のためによかれかしとおもってやっているのだ」「お前はこの私を手をついて謝らせたいのか」32
この険悪な状態は約2週間続きましたが、最初に折れたのはドルスでした。
ゴッホは父への訴えの中でラッパルト家を引き合いに出し、「自分にはアトリエすらない」と不満を述べていました。それを受け、ドルスは洗濯場として使っていた部屋をゴッホのアトリエとして使うことを許可し、歩み寄りを見せたのです。
1884年1月、母アンナが転倒し、大腿骨を骨折してしまいます。ゴッホはすぐに弟テオに手紙を書き、知らせました。
「お母さんが事故にあわれたのだ。ヘルモントで汽車から降りようとして脚を怪我されたのだ」
「僕が君の送ったカネで借金を返済してしまうつもりだったことは知っているね。しかし、いろいろ不慮の支出があると思うのだ。それで、僕はお父さんにこのカネを自由に使っていいと話したのだ。他のことは我慢して後回しにしてもいいわけだ」
「こんなときに僕が家に来ていたのは良かったと思っている。今度の事故のために(僕が両親と意見の相違を来していた)いくつかの問題がすっかり後ろの方へ追いやられてしまったので、我々はとても調子よく行っている」33
ゴッホはテオからの仕送りを父に差し出し、アンナの看護に尽力しました。また、緊急時のために自作の担架も用意しています。
この事件をきっかけに、家族との関係は次第に好転していくように思われました。
テオとの契約
ヌエネンでの父ドルスとの口論を知った弟テオは憤慨し、ゴッホを「情けない奴」となじりました。これに対してゴッホは長文で自分の正当性を訴え、非があるのは父だと反論します。
さらに、ドレンテでの出来事(テオがグーピルを辞めなかったこと)についても根に持っていたゴッホは、シーンの件についてテオを責め始めました。
「僕は彼女(シーン)の過ちに対して過去も現在も決して目を閉じているわけではない、それにもかかわらず彼女を救おうと努力した、今も努力している、だからこそ君は僕の感情をもっと尊重し、もっと理解してくれても良かったではないか〔……〕僕の方も、彼女を見捨てざるを得ないような土壇場まで追い詰められなかったはずなのだ」34
また、自分の作品がテオによって全く売れないことに対しても、ゴッホはこう訴えます。
「君は今まで僕のために一枚だって売ってくれたためしがない、いや、実際君は一度も売ってみようとさえしなかったのだ」35
こうして、ゴッホは自立できない原因をテオに押し付けだしたのです。
手紙の中でのゴッホの苛立ちはさらに続きます。
「君からいつも受け取っているカネが第一に何かお情け次第のものとして、第二にいわば哀れな愚か者への施しとして見られている」
「僕は全然見も知らぬ人たちから一週間に少なくとも三度は『どうしたわけであなたは絵を売らないのですか』などと尋ねられた。こんな事情の中で日々どれだけ楽しい生活が送れよう」
「君には大変はおかげを被っている」
ゴッホは、周囲からの視線に自尊心が傷つけられ、その原因はテオにあると訴えました。
そして、この援助の問題について勝手な「将来の提案」をし始めます。
「僕の作品を君の所へ送らせてくれ、それを君は好きなようにしたらいい。ただし、三月以降君から受け取るカネは僕が稼いだカネであるということにしたいのだ」36
この提案には、世間の目を気にせず自由に活動したいという意思と、誰からの干渉も受けずに自由になりたいという願望が込められていました。
実家の老いた両親ではゴッホを制御できないのは明白で、実際にゴッホを制御できるのはテオだけでした。テオは両親の代わりに援助を行い、度々暴挙に走る兄を叱り、時には送金を停止して兄を制御してきました。しかし、今度の要求はその手綱を放棄せよというもので、許容できるものではありません。しかし、要求を拒否すればヌエネンの両親をさらに困らせるのは明らかでした。
テオはしばらく手紙もお金も送らないという抗議をしましたが、最終的には折れ、ゴッホの要求を受け入れることになったのです。
孤立
1884年夏、ゴッホは母アンナの看病に通っていたマルホット・ベーヘマンと恋仲になり結婚まで話は発展します。しかし、シーンの一件がトラウマとなっているゴッホ家からはトラブルを恐れて反対されました。また、ベーヘマン家も、奇矯で迷惑な「絵描き小僧」ゴッホとの結婚は許しませんでした。ベーヘマン家は亜麻布工場を所有する裕福な家だったため、ゴッホが資産目当てでマルホットに言い寄ったのではないかと疑っていたようです。
9月、結婚に反対されたマルホットは絶望し、ストリキニーネを服用して自殺未遂を図ります。命に別状はなかったマルホットですが、スキャンダルを恐れた家族から事件後ユトレヒトへ移されてしまいました。
10月にはラッパルトがヌエネンに訪れゴッホと一緒に制作しますが、前回のような穏やかな滞在にはなりませんでした。
ラッパルトは順調に経歴を重ねており、彼の作品はロンドンの万国博覧会で銀賞を受賞しユトレヒトの国内展にも展示さていました。ライバル心を燃やすゴッホは制作中、ラッパルトの作品を執拗に批判します。その執拗さにラッパルトは激怒し、二人の関係は悪化してしまいました。
マルホット・ベーヘマンの自殺未遂事件の噂は周囲に広がり、ゴッホ自身だけでなくゴッホ家・牧師館をも危うい立場に追いやります。テオへの手紙にて両親は嘆きました。
「フィンセント(ゴッホ)とマルホットのために、人々と我々の関係は変わってしまった」
「彼と出くわすのが嫌で、人々は我々に会いに来なくなった。少なくとも隣人たちは。そして彼らの判断は正しいと言わざるを得ない」37
ゴッホは近隣住民からだけでなく家庭内においても孤立していきました。夕食時にゴッホが突然ドルスに激怒した時の様子を、ラッパルトは後に記録しています。
「怒りの余り、彼(ゴッホ)は肉切りナイフをボンから摑むや、席を蹴って立ち上がり、当惑する老人を威嚇したのだ」38
両親はゴッホを心配すると同時に、彼に対して恐怖しました。その旨をテオに伝え、助けを求めます。
「フィンセント(ゴッホ)は非常に激しやすい…その行動は、ますます不可解になる一方だ…悲憤に囚われ、安らぎはどこにもない…神よお助けください」39
ドルスは「我々は彼を宥めるために最善を尽くしている」としながらも「我々は見守る、敢えて道を示すことは望まぬ」「ある種の事柄はただ起るに任せるしかないのだ」40とテオへ嘆き、もはや自身ではゴッホを制御できないことを訴えました。
そんな哀れな父にゴッホは容赦しません。ゴッホを批判したテオにあてて、憤慨しながら反抗の手紙を書きました。手紙の中でゴッホはドルスを敵視しています。
「お父さんは僕に対して全く幾度となく、実にひどい疑惑をさしはさんだ。〔……〕ところが、それにもかかわらず、いつもお父さんは『ねえ、きみ』(ここの呼びかけの言葉は直訳すれば『わが友』ということになる)と呼ぶのだ。あんなことをしておきながらだよ。実際、自分に道理があると思い込んでいる人なのだよ。ほかの考え方がどうしてもできないのだ。結局のところ、まあ、言うなれば善意だったわけだ。だが、ある日、僕は率直に言ったのだ、『僕をそんなふうに思っている限りはねえきみなどと呼ばないで下さい』と。僕をそんな風に考えるものは僕の友達ではなくて、敵なのだ。彼らが最悪の敵であることは2×2=4と同じくらい確かなのだ。君が疑惑を抱いているということへの返答として、君に対しても全く同じことが言えるわけだ。〔……〕はっきり言っておくが、お父さんや君と妥協するような約束は絶対にしない。この点はしっかり肝に銘じてほしい」41
ゴッホがヌエネンに住み始めて1年以上経過していましたが父子の抗争は依然として継続しており、それは治まるどころか激しさを増していきました。
しかし、その抗争は父ドルスの突然の死により終わりを迎えます。
父の死
1885年3月26日、父ドルスは近郊の町ゲルドロップの町まで出かけ塀の修繕を行い、その後友人との会食、ピアノの独奏会に参加していました。ゲルドロップはヌエネンから8㎞程度離れており、その日は4月前にもかかわらず雪が降り凍てつく夜でしたが、ドルスは徒歩で帰路につきます。午後7時30分頃、女中が牧師館の入り口がガタガタ鳴るのを聞き不審に思い戸を開くと、ドルスが彼女にもたれ掛かってきました。ドルスの意識はありません。居間に運ばれ救命措置が取られましたが、彼は既に事切れていました。死因は広範囲に及ぶ血栓症と告げられます。
翌日、ゴッホはパリのテオへ電報を打ちました。
「父が脳卒中で倒れた。至急戻れ。だがもう手遅れの様だ」
ゴッホの32回目の誕生日3月30日にドルスの葬式が開かれます。ゴッホはドルスの死を前に呆然としました。かつてエッテンのアールセン家でみせた恍惚的な感情は沸き上がってこなかったのです。ゴッホは父の死についてテオの手紙の中で数行綴ったのみで、それ以降話題にあげることはありませんでした。
「最初のいく日かはいつもと違ってまるで仕事が手につかなかったと君は書いているが、僕も君と同じ気持ちだった。僕の方も全くその通りだった。実際、あの何日間は、僕らにとって容易に忘れられぬ日々にとなるだろう」42
しかしその一方、ゴッホは父の煙草入れとパイプの静物画を描き、テオへの手紙に同封しています。
「前景にあるのはお父さんの煙草入れとパイプだ。もし、君が欲しいと言うなら、もちろん、喜んで君に上げる」
かつて、ボリナージュで負傷した炭鉱夫を看病したように、あるいは先日転倒した母を懸命に看病したように、ゴッホは弱者や病人に対しては同情し非常に献身的な行いで応えました。ゴッホにとって大きな存在だったドルスも、息子の奇行の始末や妻アンナの看病で疲れ切っていました。しかし、ゴッホはそのことに気付くどころか父を「敵」としてなじり、ドルスが亡くなるまでその頑なな態度を改めなかったのです。
今更、後悔の念を表明し口先だけの慰めで赦しを乞うことはできませんでした。絵で表現することがゴッホにできる精一杯の追悼だったのかもしれません。
ジャガイモを食べる人々
時は遡り、ラッパルトのロンドンの万国博覧会で銀賞受賞を意識し焦っていた1884年11月初旬、ハーグのモーヴとテルステーフに復縁を請う手紙を出しました。当時の美術界のトップで活躍していた2人との繋がりを保つことは、これから成り上がる為に必要であると考えたからです。しかし、両名から返ってきたのは共に拒絶の返事でした。それでもゴッホはモチベーションを保ち続け、作品に対する情熱を失いませんでした。
その後、父ドルスの死を迎える3週間ほど前、テオはゴッホにパリのサロンに作品を出すよう提案しました。しかし、ゴッホはサロンの締切が迫っていることを理由に断りますが、次のように述べました。
「僕と言えば、いまだに一枚の油絵も、下手をすると一枚の素描すら世にしめすことができない。だが、習作を僕はやっている。〔……〕どこまでが習作で、どこからがタブローだなどと簡単に言えるものではない。僕は今色々ともっと手の込んだ作品を描く構想をねっている」43
ゴッホはサロンには出せなかったものの、周囲を納得させる大作を制作する意欲を見せました。ゴッホは、ヌエネンの農家に出入りしながら、大作の為のスケッチや習作を描き出します。
そして1885年5月初旬に出来上がったのが「ジャガイモを食べる人々」です。
「ジャガイモを食べる人々」は、中間色を主に用いて描かれており、画面は暗いままです。ゴッホは、テオから色を明るくするように促されたにもかかわらず、自らの信念に従い作品を仕上げました。ゴッホは次のように語っています。
「君が『あまりに黒すぎる』という言葉で何を言いたいのかは僕にももう充分に分かっている。しかし、他面、例えば灰色の空が常に固有色で描かれなければならぬというのはまだどうしても僕には納得できないのだ」44
また、「ジャガイモを食べる人々」の制作意図について以下の様に言及しています。
「もし、百姓の絵にベーコンの煙や馬鈴薯の湯気の匂いがしたら、しめたものだ。そいつは不健全じゃない。厩(うまや)に肥しのにおいがしたら、しめたものだ。まさしく、それは本物の厩だ。畠が熟れ麦とか馬鈴薯とか鳥糞や肥しのにおいを発散していたら、そいつは健全だ、ことに都会人にとってはね。こうした絵は彼らに何事かを教えることが出来よう。だが、香水の香りをさせることなんか百姓の絵には用のないことだ」
「僕は、ランプの光の下で馬鈴薯を食べているこれらの人たちが、今皿に伸ばしているその手で土を掘ったのだということを強調しようと努めたのだ。だから、この絵は『手の労働』を語っているのであり、いかに彼らが正直に自分たちの糧を稼いだかを語っているのだ」45
ゴッホが「ジャガイモを食べる人々」にて描きたかったことは偽りのない農民の生活そのものでした。労働後の夕食時に心もとないランプで身を寄せ合いながら食事をとる姿こそ真実であるとゴッホは考えたのです。
またゴッホは、シャルル・ブラン著書「デッサン芸術の文法(Grammaire des arts du dessin)」を引用しながら、破調色(灰色掛かった色。例えば灰赤色や灰青色)同士を組み合わせることで中間色同士でも色彩豊かに描くことができたと主張しました。「ジャガイモを食べる人々」からは豊かな色彩を感じにくいかもしれませんが、ゴッホが初めて色彩を意識した作品といえます。
「ジャガイモを食べる人々」はパリのテオの元へ送られます。作品をみたテオは「何人かの人が彼の絵を見ました。中でも画家たちは、それがとても見込みがあると考えています。とても美しいと感じた人もいます。特に人物が真に迫っていると」46と母アンナへあたりさわりのない手紙を送りましたが、実際には周囲の数名に作品を見せたのみで、大々的に「ジャガイモを食べる人々」を展示することはありませんでした。それはテオ自身が当作品に良い印象を持っていなかったからに他なりません。
しかし、ゴッホ自身は、「ジャガイモを食べる人々」を渾身の出来であると信じ続けました。後年の1887年10月下旬には、末妹のウィレミーン・ファン・ゴッホへの手紙で次のように述べています。
「僕自身の仕事については『ヌエネンで描いた馬鈴薯を食べる人たちの絵は結局最上のものだ』と思っている。」47
さらに1890年4月下旬には、テオに対して、
「僕の昔のデッサンで人物を描いたものを送ってください。ランプの光りの下で「夕食をしている百姓」のあの油絵(ジャガイモを食べる人々)を描き直してみようと思っているのだ。〔……〕君がまだあの絵を持っているようなら、今なら記憶であれよりも良いものが作れると思う。」48
と作品の再制作を希望しています。それほどまでに「ジャガイモを食べる人々」はゴッホにとって思い入れのある作品だったのです。
残念ながら、その3か月後にゴッホはその3か月後に亡くなった為、新たな「ジャガイモを食べる人々」の完成をみることはありませんでしたが、構想を示すスケッチが残されています。
ラッパルトとの絶交
1885年5月、ゴッホは「ジャガイモを食べる人々」のリトグラフ版を作成し、友人ラッパルトへ送りました。しかし、同月に返ってきたラッパルトの返事は、ゴッホが期待していたものとは程遠いものでした。
ラッパルトは次のように酷評しています。
「あんな作品は本気で描いたものじゃないという僕の意見には君も賛成だろう。〔……〕どうして、動きというものを研究しなかったんだい?あの人物たちは、単にポーズをとっているだけじゃないか。〔……〕右側にいる男はどうして、膝や腹や肺を持つことを許されないのか?そんなものは背中についているのか?〔……〕また、左手の女は、鼻の代わりに、端に小さな立方体の付いたパイプの軸をつけていなけらばならないのか?こんなやり方で仕事をしながら、君は、ミレーやブルトンの名前を呼び出そうというのかい?勝手にするがいい!僕の考えでは、芸術というものは、このように無神経に扱われるには、余りにも崇高なものなんだよ」49
飽くまでリトグラフ作品をみた上での評価ですが、ラッパルトは「ジャガイモを食べる人々」に対してこの上ない酷評を下します。
この返事に案の定激怒したゴッホは、ラッパルトからの手紙を送り返します。それでも気が済まないゴッホはラッパルトへ改めて長文で苦情と軽蔑の手紙を書きました。
「君は、僕が人物の形態に注意を払わないと繰り返し書いていたね、そんなものに注意を払うのは、僕にとってはつまらぬことなんだ。それにそういう根拠もないことを口走るのは、君らしくない振る舞いだ。〔……〕実に悲しいことだが君は僕にはほとんど何の役にも立たなかった。それに、こんなことを言うのは最初で最後だから僕の率直な言葉に腹を立てないでほしいが、僕は、君の友情ほど干からびた友情を見たことがないよ。〔……〕君が僕と絶交したいのなら僕としては別に構わない。〔……〕君は、君の仕事についてなにも書いてくれなかったね、僕も何も書かないよ。」50
そして、何度か手紙でやり取りをした後、最終通告をします。
「誠心誠意か、御破算にするかどちらかだ。これが僕の最後の言葉だよ。僕は、君が最近何通貨の手紙で書いたことを、率直かつ無条件に、取り消してほしいのだ。先ず最初に、僕が送り返したあの手紙だ。〔……〕あの手紙で言ったことを無条件で取り消せば、僕たちはまた友達になれるだろう」51
ゴッホはテオに対してこのような「最終通告」を良く用い、テオを大いに困惑させました。その結果ゴッホはあらゆる要求を通してきましたが、肉親ではないラッパルトにその手は通用しません。
ゴッホとのやり取りにうんざりしていたラッパルトは容赦なく関係を断つことを選択します。もちろん意見の撤回をすることなく。
故郷との別れ
1885年7月(32歳)の終わり、「ジャガイモを食べる人々」のモデルであったホルディナ・デ・フロートの妊娠が発覚します。真っ先に疑われたのは、彼女の家に頻繁に出入りしていたゴッホでした。「絵描き小僧」としての素行の悪さは無論のこと、マルホット・ベーヘマンとのスキャンダルもあり、村人たちの間でゴッホの印象は最悪でした。その為、ホルディナとの疑惑は容易に晴らせるものではありません。ついには地元のカトリック教会は村人に対して、ゴッホのモデルになることを禁止する指導が行われました。ゴッホは人物画を描く手段を失ってしまったのです。
さらに、父ドルスの死後、ヌエネンの実家との関係も悪化し、母や妹らとは別居状態となっていました。母と同じ名前の妹アンナは後年、この時期のゴッホと家族関係について回想します。
「(ゴッホは)やりたい放題で、皆を不快にさせていました。父さんだって、そういうことに悩まされたに違いありません」52
ゴッホの行動に対して恐怖を感じたアンナは、母が危険にさらされることを心配し、ゴッホに家を出るよう迫りました。そして、ついにゴッホはヌエネンを離れることを余儀なくされます。
出発前、ゴッホは知人のアントン・ケルセマーケルスの元を訪れ、記念として秋の風景の習作を残していきました。ケルセマーケルスがサインの無いことを指摘すると、ゴッホはこう答えました。
「多分、またいつか戻って来ますよ。しかし、今はサインの必要はないでしょう。のちになれば誰もが、僕の作品だときっと見て取ってくれるでしょうし、死ねば僕のことを書くでしょう。僕が生きながらえている間は、それを心掛けるようにしましょう。」53
1885年11月末、ゴッホはヌエネンを発ちます。知人との会話の中で「いずれは関係も修復されヌエネンで家族と一緒に暮らせる日が来るだろう」と期待を抱いたゴッホでしたが、彼が再び祖国オランダの地を踏むことは二度とありませんでした。
第2部「オランダ時代」のまとめ
聖職者の道を断念したゴッホは、画家として再び立ち上がります。色彩豊かな画風で知られるゴッホですが、画家として歩み始めた当初からヌエネンの時期までの約5年間、彼の絵は非常に暗い色調が特徴でした。これは、彼がバルビゾン派、特にジャン=フランソワ・ミレーに強い憧れを抱いていたことが大きな要因です。同時に、貧しい人々や労働者に寄り添い、彼らのために何かを成したいというゴッホ自身の信念から生まれたものでした。
しかし、写実性の面ではミレーやジュール・ブルトンといった巨匠に劣り、斬新さにおいては当時の印象派の画家たちに及びませんでした。弟テオは、印象派の明るく色鮮やかな絵を推し、ゴッホにもそのような作風を取り入れるよう助言しますが、ゴッホは頑なに暗い色調を貫きます。彼が農民の生活を描き、5年間の集大成として完成させた「ジャガイモを食べる人々」でさえ、テオの心を大きく動かすことはありませんでした。
とはいえ、この時期にゴッホはシャルル・ブランの色彩論に興味を持ち、「ジャガイモを食べる人々」では中間色の中にも色彩の微妙な組み合わせを見出すことを学んでいます。
ゴッホの絵がどのように変化していくか、第3部アルル時代へ続きます。
「ゴッホを解説!」シリーズ
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参考文献・サイト
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第二巻」みすず書房 1984年8月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第三巻」みすず書房 1984年9月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行
・二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年11月1日発行
・Van Gogh Museum・Huygens ING運営「VIncent van Gogh The Letters」2021年10月更新、https://vangoghletters.org/vg/、2024年4月25日アクセス
引用・出典
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行、274頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、292頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、282頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、283頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、301頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、304~305頁 ↩︎
- ・杉浦恭(2005)「オランダにおける労働環境の変化:19世紀後半から20世紀前半にかけて」、愛知教育大学研究報告,54(人文・社会科学編),pp.169~177、171頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、308頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、346頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、348頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第二巻」みすず書房 1984年8月20日発行改版第一刷、401頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、397頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、398頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、408頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、401頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷、1250頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、452頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、461頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、460頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、462~463頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、473頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、489~490頁 ↩︎
- スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行、315頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、537頁 ↩︎
- 二見、1984年8月20日、569頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第三巻」みすず書房 1984年9月20日発行改版第一刷、764頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、749頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、906頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、965頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1001頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1005頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1005頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1034~1036頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1027頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1043頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1054頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、436頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、428頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、428頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、437頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1123~1124頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1143頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1141~1142頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1077頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1161頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、462頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷、1914頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1727頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1896頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1897~1899頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1902頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、457頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1250頁 ↩︎
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