今回は広島県立歴史博物館について紹介します。
福山城の三の丸西側は現在「文化ゾーン」として整備されており、その中には「ふくやま美術館」と「広島県立歴史博物館」があります。
広島県立歴史博物館では別名「ふくやま草戸千軒ミュージアム」とも呼ばれ、その名の通り「草戸千軒遺跡」の出土品を中心に瀬戸内地方の交通・交易・民衆生活に関する資料を展示しています。
(ふくやま美術館についてはこちらからどうぞ↓)
広島県立歴史博物館概要
所在地:広島県福山市西町2丁目4-1
アクセス | JR福山駅福山城口(北口)から徒歩約3分 |
料金 | 一般:290円 大学生:210円 高校生以下:無料 |
開館時間 | 9時~17時(入館は16時30分まで) |
休館日 | 月曜日(祝休日の場合は、その翌平日)、年末年始(12月28日~1月4日) |
草戸千軒とは
草戸千軒は鎌倉時代~室町時代(13~16世紀)にかけて現在の福山市芦田川河口付近に存在した集落です。
草戸千軒はどこにあった?
草戸千軒のかつての規模は不明ですが、現在では芦田川と国道2号線が交差する所(神島橋)から川下へ400~500mに遺跡跡があります。
当時は河口付近にあったとされ港町として栄えていたとされますが、草戸千軒遺跡は現在芦田川の河口から7㎞程度上流の中洲にあります。港町としてはあまり便が良い位置とは思えません。
実のところ、現在の福山市中心部から新涯の大部分は江戸時代に福山藩が干拓を行いできたもので、中世において草戸千軒町は河口付近に存在していました。
下図は中世の福山湾と芦田川河口付近の推定地図です。現在の新涯や福山駅北部まで海が広がっていたことが分かります。
草戸千軒町の移り変わり
13世紀中期。草戸千軒町の誕生
発掘調査や研究により草戸千軒町は13世紀中期(鎌倉時代後期)に成立したとされています。
町の西側、現在の福山市瀬戸町に当たる地域には長和荘という荘園が存在しました。鎌倉時代には承久の乱後に備後守護となった長井氏が長和荘の地頭となります。
その活動拠点となり「草戸千軒町」は発展していったと考えられています。
14世紀。町の発展と衰退
14世紀前半になるとごみ捨て穴から木簡がまとまって捨てられていたことがわかりました。
これらの木簡には商品や金融に関するメモと考えられるものが多く、利子について書かれた木簡や味噌の原材料取引に関する木簡等が確認されています。
さらにこれまで利用されていなかった遺跡南部も積極的に活用されるようになり、盛土が行われました。これにより、東西方向の柵や溝、塀などで区分けされた横長の短冊形の区画がいくつか整備されるようになります。東西の長さは長いもので100mにもおよび、鍛冶などの生産活動の他に倉庫として活用された区画も確認できます。この様な短冊形の区画は当時、宿場町や市場町等にみられるもので、草戸千軒町が町として発展したことが窺えます。
ここまで順調に発展してきた草戸千軒町でしたが14世紀後半になると突然停滞期を迎えることとなります。
14世紀後半の遺構がほとんど確認できないことに加え、ごみ捨て穴からは相互に関連する記載内容の木簡や何も記載されていない木簡が出土しており、商業者が何らかの理由により経済活動を止めたような状況が確認できます。
この停滞期は南北朝時代にあたり、全国的な内乱の中で草戸千軒町においても何らかの影響があったことが想像されますが、具体的なことはわかっていません。
15世紀。再興と2度目の衰退
15世紀前半になると居住区にあり一旦埋められていた溝や池が掘り返され、再び集落が活性していった様子が見られます。
金融活動や税徴収に関する木簡が多量に出土しており、木簡の中には、福山市駅家町「小井」と思われる場所から国衙領年貢(朝廷への年貢)に付けられたものが確認できます。このことから草戸千軒町内には国への年貢収納に関与する金融業者がいたことが想定され、福山周辺の経済拠点として再び発展したことが窺えます。
しかし、15世紀後半になると応仁の乱・文明の乱の影響からか草戸千軒町は再度衰退していきます。
16世紀。草戸千軒町の終焉
「備陽六郡志」(江戸時代中期に記された備後福山藩に関する郷土史)では草戸千軒町は「寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」と記されていますが、遺跡の調査・研究から16世紀初頭には町内の多くの施設が廃絶され、井戸や溝、土坑などが埋められていることがわかりました。
これらの廃絶はほぼ同時期に行われており、かつ人為的であることから自然災害で滅んだという可能性は低いように思われますが、草戸千軒が滅んだ理由として「備陽六郡志」の洪水の記述以外に具体的な記録がないことも事実です。
広島県立博物館の常設展示「よみがえる草戸千軒」
広島県立歴史博物館内の常設展示では草戸千軒の発掘調査の成果をもとに、草戸千軒の町並みを実物大で再現しています。
草戸千軒が発展した14世紀の初夏の夕暮れを設定しており、照明は赤みを帯びてやや薄暗くなっています。
船着場
当時、町内には掘割(地面を掘って作った水路)が作られており小舟を乗り入れることができてました。
掘割は河川や海につながっていたと考えられ、芦田川や瀬戸内海からの運河として機能していました。
市場
塗師屋
遺跡からは漆の容器やヘラ・刷毛などが数多く出土したことから草戸千軒町には漆塗り職人がいたとされています。
中世では土師質土器(素焼きの器)が日常的な食器として考えられてきましたが、各地の遺跡から漆器が広く出土したことから現在では漆の器が食器としての役割を担っていたと考えられるようになりました。
草戸千軒町においても椀・皿などの漆器が多数出土しており日常的な食膳具として使用されていたことが想像できます。
足駄屋
木製品は土器や陶磁器などと比べて土の中で朽ちやすいため、埋もれた木製遺物が発見されることは珍しいとされています。草戸千軒町は芦田川の三角州に位置しており地下水の豊富な環境にあったため多くの木製品が朽ちずに出土されました。
下駄はそのひとつで、草戸千軒町には足駄(あしだ)屋があったとされています。
鍛冶屋
遺跡からは鞴(炉の温度を上げるための道具)の羽口や鉄滓(鉄を鍛える際に出る不純物)、砥石等が出土したことから草戸千軒町には鍛冶職人がいたと考えられています。
鉄製品では鉈や鎌、鍬などの農工具や大工道具が出土しており、鍛冶屋では生活道具を中心に制作していたようです。しかし、古刀に「備後草戸住法華一乗」と銘を持つものがあり、草戸千軒とその周辺に「法華派」という刀鍛冶一派が存在したとされています。
草戸千軒町の中にも刀匠がいたのかもしれません。
まとめ
草戸千軒は中世の町が広範囲で遺跡として発見されました。全国的にみて珍しく、中世考古学の代表的遺跡であるとされています。広島県立歴史博物館の「よみがえる草戸千軒」ではその発掘調査・研究により学術的な見地から再現した当時の草戸千軒町の様子を体感できることができます。また、その他にも瀬戸内海の歴史を紹介する通史展示室(撮影不可なため紹介できず)もあり、瀬戸内海の歴史を原始時代から近現代までたどることができます。
草戸千軒町を切り口に瀬戸内海の歴史や民衆の生活、福山湾・芦田川の成り立ち等を学ぶことができるため、歴史・地理学・考古学・民俗学に興味のある方にはとてもおすすめの博物館です。
広島県立歴史博物館から南西に2㎞弱行ったところに草戸千軒町跡があります。遺跡跡は現在芦田川の中洲に確認できますが、そのほとんどは掘り起こされた為、遺構や町の跡はみることはできません。
また、福山市は江戸時代の干拓により海岸線は大きく変化した為、現地の中世の様子と現在の様子は大きく異なっており草戸千軒町の面影はほぼゼロと言っていいでしょう。
それでも現地に行って当時の草戸千軒を想像するのも一興かもしれません。
参考文献
鈴木康之『シリーズ「遺跡を学ぶ」040 中世瀬戸内の港町・草戸千軒町遺跡』 新泉社2007年10月15日発行
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