福山は広島県の東部に位置し「崖の上野ポニョ」の舞台がある「鞆の浦」や時代劇撮影に使われる「みろくの里」があることが有名です。
また、福山駅の新幹線ホームから福山城がみえることも特徴のひとつと言えます。
福山城は徳川家康の従兄弟である水野勝成によって築城されました。2022年には天守北側の鉄板張りが再現されたため見る角度によって雰囲気の違う福山城が楽しめます。内堀と外堀が存在していたようですが現在は埋め立てられ、三の丸の西側は「文化ゾーン」として整備されています。
その文化ゾーンには草戸千軒遺跡から出土した資料を中心に展示している「広島県立歴史博物館」と「ふくやま美術館」はがあります。
今回はふくやま美術館についてご紹介していきます。
広島県立歴史博物館についてはこちらをどうぞ↓
ふくやま美術館には瀬戸内圏関連作家の作品や岸田劉生や安井曾太郎等の日本近代美術作品、シャガール、クールベ、セガンティーニ等の近代西洋美術作品、福山市名誉市民である故・小松安弘が収集し福山市へ寄贈された刀剣等が所蔵されています。
所蔵品は定期的に内容を変えて展示されます。お目当ての作品の展示はホームページ等で確認して行くことをお勧めします。(ふくやま美術館ホームページ)
ふくやま美術館概要
ふくやま美術館の所在地:広島県福山市西町2丁目4−3
アクセス | JR福山駅福山城口(北口)から西へ約400ⅿ |
料金 | 所蔵品展(一般):\310 特別展:その都度定める料金 (その他、割引や免除あり。ホームページにて確認してください。) |
開館時間 | 9:30~17:00 |
休館日 | 月曜日(祝休日の場合翌日),年末年始 |
作品解説「麗子十六歳之像」
所蔵品の中に岸田劉生の晩年の作品「麗子十六歳之像」があります。今回はこの作品について解説していきます。
麗子像について
岸田劉生の「麗子像」といえば有名ですね。
東京国立博物館蔵の「麗子微笑」は美術の教科書で良く紹介されています。
「麗子像」とは岸田劉生の長女である麗子の一連の肖像画で水彩やデッサン画も含めれば70点以上も描かれたと言われています。
ふくやま美術館蔵の「麗子十六歳之像」もその内の一点で、岸田劉生が亡くなる年に描かれた最後の麗子像と言われています。
「麗子微笑」と比べてみると描き方に明らかな違いがみられます。
「麗子十六歳之像」が描かれた背景を劉生の生涯を追いながら考察していきます。
「麗子像」が描かれるまで
劉生が油彩を学び始めたのは1908年(17歳)からで、黒田清輝(フランスで印象派を学んで来た人物)に師事しました。その為、当時の劉生の絵は印象派〜後期印象派の影響を大きく受けています。
当時の自画像からはゴッホの影響が大きく見られます。当時は油絵=印象派という風潮が強かったようで、劉生も例外でなく流行に乗っかっていたことが窺えます。
当時より人物画を好んで描いていた劉生は、次第に写実主義(ありのままに描くこと)に傾倒していきます。画風もかなり変化し、筆跡の残らない古典的なものになっていきます。
麗子像の中でも初期に描かれた「麗子五歳之像」(1918)ではその様子が顕著にみられます。陰影が強く、暗闇に浮かび上がる感じやポーズ、文字が描かれている等から北方ルネサンスのデューラーの影響を大きく受けているとされる作品です。
1920年代になると劉生は日本画も描き始めます。また、宋元画や浮世絵の収集や研究を始め、自身の作品へ活かしていきます。その頃に描かれたのが「麗子微笑」です。
麗子微笑
頭部は横へ広がり、手は小さくデフォルメして描かれています。その描き方は「麗子五歳之像」で特徴的であった写実感を幾分排除していると言えるでしょう。
1920年8月の日記には「この頃細かい描写には飽きてゐる」「堕落時代にはいつも必ず写実に捕はれすぎる」(*1)と記述しており、西洋的な写実主義に限界を感じていた頃でもありました。
また東洋画について「本物らしいという形以下の類似において西洋画に及ばない」としながらも、「支那の美術には偉大な間抜けさがある。(中略)これの深い感じが〈仙〉である」(*2)とし、
浮世絵については「高雅、幽邃、神気等の第一義的美術の味覚を持たず、むしろその反対の、現実的、卑近味、猥雑、濃厚、しつこさ、皮肉、淫蕩、戯け等の味を持つ。(中略)浮世絵とは結局「写」といふ事、如実といふ事が、形美の域から独立して自立した境地であるから、結局「写す」という域に終始するものであり、実に或る意味で深いリアリズムである」(*3)と後年に記しています。
劉生は東洋画に見出したその神秘性を西洋の画法で表現し「麗子微笑」を作成しました。仏像のように遠くをみつめる様は幼女らしからぬ神秘性をおびています。「麗子微笑」の麗子像はモデルである麗子だけではなく、劉生の東洋画に対する芸術感を描いた作品とも言えます。
その後の麗子像
画家として円熟期を迎えた劉生は同様に東洋画風を取り入れた麗子像を制作していきます。
「野童女」は顔輝(昔の中国の画家)の「寒山拾得図」を模しながら描いたとされています。不気味すぎて嫌でも記憶に残る作品です。
「寒山風麗子像」は若干のやりすぎ感があります。
1923年に京都へ移住してからは麗子像の制作は少なくなります。その理由は、麗子の体調が悪くなってモデルがつとめられなくなった為、劉生の茶屋遊びが増えた為、等いろいろ考えられますが、1番の理由は麗子が思春期を迎えた為だと思われます。年頃の女の子が絵のモデルを敬遠することは想像に難くないですし、頑張ってモデルをした挙句、「寒山風麗子」みたいな無気味な絵を描かれたら嫌がるのは当然と言えるでしょう。
「麗子十六歳之像」
「麗子十六歳之像」は1929年の劉生が亡くなる年に描かれた最後の麗子像です。
実はこの「麗子十六歳之像」は2作品あり、ふくやま美術館版が描かれる一月前に笠間日動美術館所蔵の「麗子十六歳之像」(1929年5月)が描かれています。
笠間版の方は「麗子微笑」に近い雰囲気で以前と同じような描かれ方です。
それに比べて、ふくやま版は平面的で日本画的です。また、ふっくらとした顔立ちや色白な肌からは大人の雰囲気を感じます。幾分理想化された肖像画であると言えるでしょう。
「麗子五歳之像」や「麗子微笑」、「野童女」等、「麗子十六歳之像」以前の麗子像は当時の劉生の芸術感「リアリズム」「東洋美」等を強く反映していました。愛娘をモデルに自身の芸術感を表現していたと言えます。
しかし、ふくやま版「麗子十六歳之像」にはそうした強い主張はありません。ただ成長した愛娘を想う優しさが垣間見えます。久しぶりに描く肖像画を麗子に喜んでもらいたくて描いたのではないでしょうか。
麗子本人もこの絵は気に入っていたようで、
「描き方もこの絵だけの独特な描き方で、はじめ藍ですっかり描き上げ、その上から薄く絵の具を重ねていった。(中略)藍で描き上げた時あまり美しいので、上から色をかけるのが惜しいと私がいうと、父は満足げに、「美しいだろう、こういう描き方ははじめてだが、この上に絵具をぬるともっと美しくなるよ」といった」(*4)
と当時を振り返っています。
ふくやま美術館の「麗子十六歳之像」は、それまでこだわっていた主義・主張を取り払い、素直に対象と向き合おうとする、画家として新たな境地に立った作品と言えます。
残念ながら、この作品完成後間も無くして劉生は亡くなります。もし存命したならどのような肖像画を描き、麗子像をどのように発展させたのか、「麗子十六歳之像」を観ながら想像してみるのも面白いかもしれません。
(※所蔵品は常設されているわけではありません。訪館される際はホームページ等でご確認ください。)
引用文献
*1)「劉生日記一」岩波書店、1984年、401、409頁
*2)「改造」第6巻1号、1924年1月、所収「岸田劉生全集 第三巻」341ー383頁、所収:「岸田劉生 実在の神秘、その謎を追う」同書、118頁
*3)岸田劉生「初期肉筆浮世絵」、35ー36頁
*4)岸田麗子 文「世界名画全集続巻 小出楢重・岸田劉生」、平凡社、所収:岸田夏子「肖像画の不思議 麗子と麗子像」求龍堂、140ー141頁
参考文献
・「岸田劉生 実在の神秘、その謎を追う」図録、2018年7月31日発行
・岸田夏子「肖像画の不思議 麗子と麗子像」、求龍堂、2009年4月30日発行
・梶岡秀一、岸田夏子「京都国立近代美術館のコレクションでたどる 岸田劉生のあゆみ」、新潮社、2022年1月30日発行
・蔵屋美香「アート・ビキナーズ・コレクション もっと知りたい 岸田劉生 生涯と作品」、東京美術、2019年9月20日発行
その他の所蔵品
絵画
刀剣
福山市名誉市民・小松安弘氏の刀剣コレクションが同氏没後にふくやま美術館に寄贈されました。
これにより、ふくやま美術館が所蔵する国宝の日本刀は7口となり、東京国立博物館に次ぎ徳川美術館と同数の全国2位の所蔵数となっています。
太刀 銘備州長船兼光 延文三年二月日(重要文化財)
長船派は14世紀南北朝時代に活躍した備前の刀工です。
本作は上杉家伝来で、備前物を愛用した上杉謙信・景勝ゆかりの太刀の可能性もあるとされています。
太刀 銘国宗(国宝)
国宗は鎌倉時代中期・備前国の刀工。
国宝とされる国宗の太刀はふくやま美術館の1口を含め合計4口のみです。
※所蔵品は常設しているとは限りません。ホームページにて確認してから訪館することをお勧めします。
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