岐阜県美術館のみどころ。ルドンと山本芳翠の名画と岐阜県美術館

岐阜県美術館

岐阜県美術館は、オディロン・ルドンの作品を多く収蔵していることで知られており、その数は250点以上に上ります。また、岐阜にゆかりのある画家の作品も多数収蔵しており、特に明治時代に洋画家である山本芳翠の「裸婦」や「浦島図」は美術館の目玉となっています。

今回は岐阜県美術館に所蔵されるルドンと山本芳翠の作品をメインに解説していきます。

目次

オディロン・ルドンの所蔵作品紹介

オディロン・ルドン
(Odilon Redon, 1840–1916)

ノワール、幻想的な「黒」

オディロン・ルドンは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランス象徴主義を代表する画家です。彼の初期の作品群である「ノワール(黒)」は、木炭画やリトグラフ(石版画)によって制作され、暗黒の中に浮かび上がる幻想的なイメージが特徴です。「ノワール」という名は、ルドン自身がその一連のモノクローム作品に付けた呼称です。

この時期の作品では、眼球を持つ植物人の顔をした花空を漂う神秘的な生物など、不気味で超現実的なモチーフが描かれています。これらの図像は、一見すると不安感を抱かせるものの、どこかコミカルで愛嬌すら感じさせるのがルドンの特徴です。また、詩集や小説の挿絵として制作された作品も多く、文学的・詩的な想像力が彼のアートに深く影響を与えていたことがうかがえます。

「『エドガー・ポーに』Ⅰ.眼は奇妙な気球のように無限に向かう」1882年 リトグラフ
「『起源』Ⅲ.不格好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」1883年 リトグラフ
「光の横顔」1886年 リトグラフ
「『夜』Ⅴ.巫女たちは待っていた」1886年 リトグラフ
「蜘蛛」1887年 リトグラフ
Odilon-redon-cul-de-lampe-1890
Day_(Le_Jour),_from_the_series,_Dreams_(Songes)
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黒は最も本質的な色だ。[……]黒を大切に扱わなければならない。媚びを売らせることはできない。眼に快感を与えるものでもなし、官能を楽しませるものでもない。パレットやプリズムの呈する美しい色とちがって、精神のための働き手なのだ

池辺一郎訳「ルドン 私自身に」 みすず書房 2024年5月16日発行新装版第1版 156~157頁より

彼自身が記した「ルドン 私自身に」では、黒に対する特別な思いが語られています。この文章からは、黒が彼にとって単なる「色」ではなく、精神性や深い内面的な探求を象徴する重要な要素であったことがわかります。また、同書では幼少期に影や暗がりに魅了され、カーテンの後ろや部屋の隅に隠れることを好んだエピソードも記されています。これらの体験が彼の「ノワール」の作品世界に通じる感性を育んだと考えられるでしょう。

さらに、「ノワール」の世界には、ルドンの観察眼と想像力が融合しています。彼は動植物の形態をただ写実的に描くのではなく、それらが内包する物語性やキャラクター性に焦点を当て、独自の象徴的世界を生み出しました。そこには、表面的な現実の描写を超えた存在の本質への洞察があり、これこそがルドンが「黒」を用いて追求した芸術の本質だったと言えるでしょう。

後期の作品、色彩の探求

1890年代に入り、ルドンはそれまで主に木炭画や版画のノワール作品を制作していたスタイルから大きく転換し、パステル画や油彩画にも取り組むようになりました。色彩を使い始めた明確な理由は不明ですが、長男の死去と次男の誕生という家族の出来事や、ゴーギャンとの出会い、さらにはその名声が広まり始めた時期であったことが、彼の制作スタイルの変化に影響を与えた可能性があります。

ルドンの色彩への転換は、当時流行していたフランス印象派との比較によってよく語られます。印象派が自然主義的なアプローチで光と色を描き出すことを追求していたのに対し、ルドンは色彩を単なる視覚的な再現の手段としてではなく、思想や感情、神秘的な内面を表現するための道具と捉えました。彼は自著『私自身に』の中でこう述べています。

彼ら(印象派)は古典作品の最後のきずなから、色あるいは光を採用しようとするのだ。彼らは古典的だ。なぜなら、彼らも具体的な絵画の外面的理念に従っているからだ。[……]私は、人がひとり考える時にはその額の下に鼓動するもの、それ自体としての思想にとっては、戸外で生じていることしか考慮に入れない態度は、不十分なものだと思う。人生の表現は、明暗の中でこそ種々相をあらわす。思想家は影を好む

池辺一郎訳「ルドン 私自身に」 みすず書房 2024年5月16日発行新装版第1版 204~205頁

この言葉からも分かるように、ルドンにとって色彩は単なる自然光の反映ではなく、内的世界の象徴でした。内的世界の神秘性をモノクロの影の中にみていたルドンでしたが、後期作品ではその神秘性を鮮やかな色彩の中で新たに探求していきます。ルドン特徴である色彩の表現は印象派とは違うアプローチとなり、自然光とは異なる幻想的な光を生み出しました。

岐阜県美術館に所蔵されているルドン作品は、その独特な色彩と質感を直接感じることができる貴重な機会を提供してくれます。写真や画像では伝わりきらない実物の迫力と繊細さを、ぜひ美術館で体験していただきたいです。

Odilon_Redon_-_Mystical_Conversation
Redon_-_Les_yeux_clos
「ポール・ゴビヤールの肖像」1900年 パステル
「青い花瓶の花々」1904年頃 パステル
「窓」1906年頃 油彩
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山本芳翠の所蔵作品紹介

「裸婦」(1880年頃)

油彩、画布、83.0×134.0cm

山本芳翠(やまもと ほうすい)は、明治時代の日本を代表する洋画家で、日本洋画界の先駆者として知られています。1878年にはフランスへ留学し、アカデミックな作風で知られるジャン=レオン・ジェロームに師事しました。

本作「裸婦」は芳翠がフランス滞在中に描いたもので、モデルのきめ細やかな肌の表現には師ジェロームの影響が見て取れます。芳翠の滞在中にはフランスの外光派(印象派)が活躍していった時期と重なりますが、芳翠の作風にその影響は見られません。油彩画がまだ日本において黎明期にあったこの時代、日本人洋画家たちは油絵具の特性を活かした「写実性」を重視する傾向がありました。芳翠もまた、古典絵画の伝統的な技法を深く習得することが、自己の画風を確立し、表現力を高めるための確固たる基盤になると考えていたのでしょう。

芳翠は10年近くフランスに滞在し、多くの作品を制作しましたが、帰国の際にこれらの作品を積み込んだ巡洋艦「畝傍」が南シナ海で消息を絶ち、積載した作品は失われてしまいました。本作「裸婦」は、新潟県の豪農・白勢和一郎が1880~1882年の渡欧中に芳翠から直接購入したもので、奇跡的に日本へ持ち帰られた数少ない作品の一つです。そのため、本作は芳翠が西洋で得た成果を伝える貴重な資料であり、彼の画業を語る上で極めて重要な位置を占めています。

山本芳翠
(1850~1906)

「浦島図」(1893~1895年頃)

油彩、画布、122.0×168.0cm

1887年、芳翠は約9年にわたるフランス留学を終え日本に帰国しました。しかしその頃、日本では急激な欧化に対する反発から国粋主義が高まり、洋画が排斥される動きが盛んになっていました。そのため、1889年に創設された東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)には西洋画科が設置されないという状況も生じました。こうした中、芳翠をはじめとする明治初期の洋画家たちは、美術集団「明治美術会」を立ち上げるなど、洋画の普及に尽力しました。

この時期に制作されたのが、本作「浦島図」です。玉手箱を手に竜宮城から戻る浦島太郎が、従者たちによってまるでパレードのように導かれる場面が描かれています。モデルの肌の質感、水面の揺らぎ、水面下の布地の表現など、芳翠の緻密で写実的な技法が際立っています。現代ではおとぎ話のキャラクターがデフォルメされ、その特徴が簡略化されることが多いですが、芳翠の筆致はこれらを細部に至るまで描き込み、リアリティと物語性を同時に成立させています。このような親しみ深い題材を扱いつつも、西洋画技法を取り入れた芳翠のアプローチは、鑑賞者を強く物語の世界観へ引き込む力を持っています。

芳翠の活動と同時期には、1890年に原田直次郎が「騎龍観音」で観音像を写実的に描くなど、西洋油彩技法を日本の伝統的な題材に融合させる試みが行われていました。西洋の本格的な油彩画を学んで帰ってきた彼らは、西洋で生まれた油彩画と日本の文化を融合しようと模索していたと考えられます。しかしその後、フランス印象派の影響を受けた黒田清輝らが登場すると、そのスタイルが日本洋画界の主流となり、芳翠らアカデミックな技法を重視した画家たちは次第に埋没していきました。

「浦島図」は、激動の明治美術界において、芳翠が西洋技法と日本の伝統を結び付けようとした努力を象徴する作品です。もし芳翠のようなアカデミックな写実主義と日本文化の融合が当時の美術界で主流となっていたならば、日本洋画界は異なる進化を遂げていたのかもしれません。


まとめ

岐阜県美術館は、国内有数のルドン作品の収蔵数を誇り、その充実したコレクションで知られています。また、山本芳翠の「裸婦」に関しては2014年に重要文化財に指定され、「浦島図」と共に岐阜県美術館の目玉となっています。

ルドンと山本芳翠は異なるジャンルの画家に思えますが、実は二人には共通点があります。どちらもフランスのアカデミズムを象徴する画家ジャン=レオン・ジェロームに学びました。もっとも、ルドンはジェロームの古典的な教えに違和感を抱き、短期間で離れて独自の芸術性を追求しました。一方、芳翠はジェロームの技法を積極的に吸収し、それを基盤に写実的な作品を生み出しました。このような対照的なアプローチを取った二人の画家の作品を通して、西洋絵画の多様な受容の形を感じ取ることができるでしょう。また、二人の画家がそれぞれの国でどのように受け入れられたかを知ることで作品の見方が変わってくるところも美術の面白いところです。

是非、美術館を訪れ、両者の世界観を実際に体感してみてください。

(※紹介した所蔵品は必ずしも展示されているわけではありません。美術館を訪れる際には岐阜県美術館HPを一度確認することをお勧めします)

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岐阜県美術館の基本情報

所在地:岐阜県岐阜市宇佐4丁目1−22

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