近代の名画が集結!東京国立近代美術館のみどころ

東京国立近代美術館

東京国立近代美術館は日本初の国立美術館として1952年に開館しました。収蔵作品数は12,500点にのぼり、20世紀初頭から現在までの日本美術の流れをたどることができる美術館です。所蔵作品は岸田劉生、横山大観ら近代の日本作家の作品が中心となっていますが、セザンヌやピカソ、ベーコンなど外国人作家の作品も収蔵されており、当時の西洋美術と日本美術を見比べながら鑑賞することができるのが当美術館の大きな特徴といえます。

目次

所蔵作品紹介

和田三造
「南風」(1907年)

油彩、カンヴァス、151.5×182.4cm

和田三造(1883~1967)は、明治から昭和にかけて活躍した洋画家です。和田は画家としての活動だけでなく、色彩についての研究も行い、日本初の配色集である「配色総鑑」を刊行しました。この書籍は「配色辞典」として新装・改訂され、現在でもデザイン分野の参考資料として活用されています。また、映画『地獄門』(1953年)では色彩と衣装デザインを担当し、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞、さらに第27回アカデミー賞衣装デザイン賞も受賞するなど、日本の芸術文化に幅広く貢献した人物として知られています。

和田は洋画の分野においても優れた作品を多く残しています。本作『南風』は、東京美術学校在学中に体験した漂流事件をもとに描かれました。伊東から八丈島に渡航する際、暴風雨に見舞われ遭難した和田は、最終的に伊豆大島に漂着しました。その後、和田は伊豆大島に縁を感じ、何度も訪れるようになり、そこでの体験をもとにこの作品を描き上げたとされています。

本作品の特徴は、その色彩と構図にあります。背景の深い青と前景に落ちる帆の影と思われる濃い影、そして中央の男性が身にまとう鮮やかなオレンジ色の布や血色の良い肌が印象的なコントラストを生み出し、観る者の目を引きます。また、和田のその優れた素描力は、中央の男性のたくましい身体の表現に発揮されています。その体躯は日本人離れした神話的な存在感を持ち、和田の漁師や船員に対する憧れや敬意を表しているかのようです。また、男の視線は、その先に広がる海原への想像を掻き立て、和田の広大な海に対する畏敬の念を感じさせます。

アンリ・ルソー
「第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家たちを導く自由の女神」
(1905~1906年)

油彩、カンヴァス、175.0×118.0cm

アンリ・ルソー(1844~1910)は素朴派の画家として知られています。元々パリの税関職員を務めていたルソーは余暇に絵を描いていた素人画家でしたが、1886年よりアンデパンダン展(無審査の展覧会)に出品を始め、生涯にわたってこの展覧会に作品を発表し続けました。ルソーはほぼ独学で絵を描いていた為、批評家からは嘲笑を買うことがありましたが、その優れた色彩感覚や生み出される独特の世界観はピカソやロートレックなどから評価され、日本人画家では藤田嗣治や岡鹿之助などに影響を与えました。

本作品『第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家たちを導く自由の女神』はタイトルのとおり、アンデパンダン展に出品するために会場へ出向く画家たちを導く女神が描かれており、獅子の下のプレートには主要メンバーの名前が記されています。保守的なサロンに対抗する形で開催されるようになったアンデパンダン展でしたが、その展示内容や全ての芸術家を平等に扱う姿勢は次第に評価されるようになっていきました。尊敬する画家たちとともに作品を発表できるアンデパンダン展はルソーにとってこの上なく貴重な機会だったのでしょう。本作品からはアンデパンダン展に対するルソーの敬意が伝わってきます。

原田直次郎
「騎龍観音」(1890年)

油彩、カンヴァス、272.0×181.0cm

原田直次郎(1863~1899)は、日本の近代洋画の先駆者の一人であり、明治時代に活躍した洋画家です。小説家の森鴎外と親交があり、彼の小説「うたかたの記」の主人公は直次郎をモデルにしたものと言われています。二人は留学先のドイツ・ミュンヘンで知り合い、帰国した後もその交流は続きました。

直次郎は日本国内で高橋由一の画塾にて基礎を学び、その後ミュンヘン美術アカデミーに進学しました。そこで写実主義で知られる画家ガブリエル・マックスに師事し、アカデミックかつ写実的な絵画技法を習得します。しかし、帰国当時の日本では国粋主義の台頭による洋画排斥運動が高まっており、直次郎が期待していたような活動の場は充分に得られませんでした。

そのような状況の中で直次郎は、1890年に上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会に本作品『騎龍観音』を出品します。縦272cm、横181cmという日本洋画史上でも最大級の大画面は、来場者の視線を釘付けにしました。特に観衆を驚かせたのは、油彩によって写実的に描かれた観音像の迫力です。当時、観音像をはじめとする仏画は、日本画の伝統に則り平面的で装飾的な描写が一般的でした。そのため、本場西洋で学んだ直次郎が油絵の技法を駆使して実物さながらの観音像を描き上げたことは、多くの日本人にとって新鮮で衝撃的だったに違いありません。

しかし一方で、斬新さゆえの批判も少なくありませんでした。批評家の中には「観音が綱渡りをしているようだ」などと揶揄する者もいたのです。親友である森鴎外はこうした批判に反論し、『騎龍観音』を擁護しましたが、本作品が賞を受けることはありませんでした。

その後、直次郎は次第に健康を損ない、1899年に36歳の若さでこの世を去ります。彼の死後、日本の洋画界ではフランス印象派の影響を受けた黒田清輝ら「新派」の画家たちが台頭し、印象主義や外光派が主流となっていきました。もし直次郎が長く生き、日本の洋画界を牽引する立場にあったならば、その発展の道筋は異なるものとなっていたかもしれません。

岸田劉生
「麗子肖像(麗子五歳之像)」(1918年)

油彩、カンヴァス、45.3×38.0cm

岸田劉生は、その画家人生を通じて画風を大きく変化させたことで知られています。1910年代前半には、ファン・ゴッホの影響を受けた鮮やかな色彩と粗い筆触が特徴的でしたが、やがて西洋古典絵画の影響を受け、緻密で写実的な画風へと移行していきました。

本作品『麗子肖像(麗子五歳之像)』は、劉生が細密描写にこだわった時期に描かれた代表作の一つであり、デューラーの影響が顕著に見られます。この作品は麗子をモデルにした連作の第一作目で、当時麗子は4歳半(数え年で5歳)でした。幼い子どもをモデルにすることから長時間のポーズは難しかったと考えられますが、それでも服のしわや髪の毛一本一本に至るまで、劉生の緻密な描写が光ります。また、画面上部のアーチはだまし絵のように立体的に描かれ、劉生の写実的表現への徹底した探求心が感じられます。

1920年以降、劉生は宋元画に影響を受け、画風は次第にデフォルメされたものへと変化していきました。その典型的な例として国立博物館蔵の「麗子微笑」があげられます。本作品と見比べてみることで、劉生の画風の変遷をより深く楽しむことができるかもしれません。


東京国立近代美術館の基本情報

所在地:東京都千代田区北の丸公園3−1

美術館周辺

皇居東御苑

江戸城跡1
江戸城跡2
江戸城跡3
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美術館の南には皇居東御苑があります。無料で入れますので(入口で手荷物検査がありますが)散歩してみると気持ちがいいですよ!

参考文献・サイト

・芳賀徹「絵画の領分 近代日本比較文化史研究」朝日新聞社 1990年10月20日発行
・伊豆大島文学・紀行集情報「画家と画家を迎えた大島の足跡(私論)」https://torafujii.sakura.ne.jp/gakakanosiron.pdf(2024年11月10日閲覧)

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