
今から2000年以上前の弥生時代、日本全体の人口は100万人に満たず、人々は各地に集落を作りながら生活していました。特に稲作が伝わった後は、米作りに適した平野部に大規模な集落が形成されるようになります。その中でも、日本最大級の環濠集落跡として知られるのが「吉野ケ里遺跡」です。
吉野ケ里遺跡は、現在の佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる広大な遺跡です。多くの人が歴史の授業でその名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。現在は「吉野ケ里歴史公園」として整備され、一部が復元・公開されています。発掘調査は今も続いており、一部の区域では立ち入りが制限されているものの、復元された集落の様子を間近で見ることができます。

2000年前の人々は、スマホもテレビもない時代をどのように生きていたのでしょうか。現代とは異なる環境の中でも、私たちと同じように衣食住を営み、日々の暮らしを築いていました。その生活の一端を垣間見ることができる吉野ケ里遺跡は、まさに歴史ロマンを感じる場所です。
今回は、吉野ケ里の歴史をたどりながら、吉野ケ里歴史公園の見どころや魅力についてご紹介していきます。
吉野ケ里歴史公園の場所
吉野ケ里の歴史
弥生時代前期(紀元前5世紀~紀元前4世紀)

青:吉野ケ里歴史公園敷地 オレンジ:集落 黒色の太線:環濠
点在する集落 環濠集落の出現
弥生時代前期、吉野ケ里遺跡の南部には、小規模な集落が点在していました。その南端部には、約2.5ヘクタールの大きな集落が存在し、その周辺に環濠(ほり)が築かれていた痕跡が確認されています。この環濠からは、石器・貝殻・動物の骨に加え、青銅器の鋳造に使われた道具も出土しており、この時代から青銅器の鋳造が始まっていたと考えられています。
甕棺墓
また、弥生時代前期後半には甕棺墓※による埋葬が行われていたことが分かっています。これは北九州の佐賀県東部や福岡県西部で広く行われた埋葬方法で、弥生時代中期には最盛期を迎えました。吉野ケ里遺跡でも合計3100基以上の甕棺墓が発掘されています。

甕棺墓埋葬の模型
弥生時代中期(紀元前2世紀~紀元後1世紀)

青:吉野ケ里歴史公園敷地 オレンジ:集落
黒色の太線:環濠 紫:墓地
環濠集落の発展
弥生時代中期に入ると、吉野ケ里遺跡南部の環濠集落は大型化し、敷地面積は20ヘクタールを超えるまで拡大しました。集落内部では、竪穴式住居や貯蔵穴跡が多数発掘され、住居区域と食糧などを蓄える倉庫区域が明確に分離されていたことが判明しています。

甕棺墓列
弥生時代中期前半になると、これまで散発的に埋葬されていた甕棺墓が、次第に列を成して埋葬されるようになりました。南北に連なるこの墓地群では、合計1300基におよぶ甕棺墓が確認され、特に最北端では多数の甕棺墓がそのまま埋もれていることが、レーダー調査によって明らかになっています。
また、これらの甕棺墓からは、頭骨が欠損している人骨や、刀による傷、骨折などの痕跡が見られる遺骨が出土しており、当時、集落内または周辺地域で武力衝突や争いが発生していた可能性を示唆しています。


「頭骨のない人骨出土状況」
(おそらくレプリカ)
墳丘墓
同時期、一般の墓地とは別に、土を積み上げて丘のように形成された墳丘墓も築造されました。墳丘墓の甕棺からは、銅剣やガラス管玉などの副葬品が出土しており、これらの品々は埋葬された人物が高い社会的地位を有していたことを示唆しています。墳丘墓の出現は、弥生時代中期における社会の階層化や身分制度の発展を裏付ける重要な証拠となっています。

弥生時代後期(紀元後1世紀~3世紀)

青:吉野ケ里歴史公園敷地 オレンジ:集落 緑:内郭
大規模な環濠集落
弥生時代後期に入ると、吉野ケ里の集落はさらに北へ拡大し、規模は40ヘクタールを超え、国内最大級の環濠集落へと発展しました。集落の内部には、敵の侵入を警戒するための物見櫓(やぐら)や、祭祀が行われた北内郭、身分の高い人物が居住したと考えられる南内郭が築かれました。集落の西側には高床式の倉庫群が設けられており、大規模な市が開かれていた可能性が指摘されています。
現在の吉野ケ里歴史公園では、弥生時代後期後半(紀元後3世紀頃)の集落を想定し、当時の姿を忠実に復元・整備しています。特に、遺構の真上に建物を復元しているため、訪れた人々は吉野ケ里集落の実際の規模や生活の様子をリアルに体感することができます。この時期は、ちょうど魏志倭人伝に記された邪馬台国と卑弥呼の時代とも重なり、吉野ケ里が倭国の中でどのような役割を果たしていたのかについても興味が持たれています。

集落の終焉
紀元後3世紀後半(古墳時代初頭)になると、これまで集落全体を取り囲んでいた環濠は徐々に埋没し、住居の跡も次第に消えていきました。そして、かつて南内郭があった丘陵部には前方後方墳が築造され、集落の中心地は埋葬地へと変化しました。これは、吉野ケ里を拠点としていた勢力が衰退し、新たな首長層による支配が始まったことを示唆しています。
こうして吉野ケ里集落は、古墳時代に入った頃から衰退していき、最終的にその姿は消失してしまいました。
吉野ケ里歴史公園内の主な復元建物・遺構
南内郭

弥生時代後期、吉野ケ里の集落が最盛期を迎えた頃に、集落を統治する首長層が暮らしていたと考えられる中枢エリアが南内郭です。南内郭は、周囲を深い環濠と城柵で厳重に囲まれ、さらに敷地内には4棟の物見櫓が建てられていました。
また、これほど厳重な防御施設が整えられていたことから、南内郭にいた人物は集落全体を統率する首長層やその家族、重臣であった可能性が高く、吉野ケ里の権力構造を示す貴重な遺構の一つとなっています。

北内郭

北内郭は、吉野ケ里の指導者層だけでなく、周辺集落の首長たちも集まり、政治や祭祀を執り行った場所であり、弥生時代後期の集落の中で重要な中枢施設と考えられています。ここでは集落の運営に関する重要な決定が下され、祖先への祈りや儀式も行われていました。
その中心的な役割を担うのが、北内郭内で最も大きな建物である「主祭殿」です。また、その周囲には、最高司祭者の住居や祭祀道具の倉庫、物見櫓、祭殿などが配置され、神聖な雰囲気が漂っています。
主祭殿
北内郭の中心施設であり、政治と祭祀の両面で最も重要な建物です。ここでは、指導者たちが集落の運営について話し合い、重要な決定を下していたと考えられています。また、祖先の霊に祈りをささげる儀式も行われていたとされ、政治と宗教が密接に結びついていたことが考えられています。
復元された主祭殿は、内部を見学することができます。建物内では、2階で指導者たちの会議、3階で儀式が行われていた様子が再現されています。
高床住居(最高司祭者の家)
北内郭という神聖な場所にあり、かつ建物が正方形に近い形をしていることから、最高司祭者の住居であったと考えられています。司祭者は一般の人々の前には姿を現さなかったとされているため、昼間でもそのほとんどをこの中で過ごしていました。

入口と環濠
北内郭の出入口は、クランク型に折れ曲がった構造になっており、侵入者がまっすぐに突入できないよう工夫されています。さらに、周囲は2重の環濠と、隙間のない板壁で囲まれており、外部からの視線を遮る効果もありました。このような造りから、北内郭が一般の人々とは隔絶された神聖な空間であったことが分かります。
北墳丘墓

北内郭の北に位置する北墳丘墓は、弥生時代中期(約2200~2100年前)に造られた集団墓地で、土を何層にも重ねて築かれた墳丘墓です。形状は南北40m、東西27mの長方形に近いものでした。墳丘墓からは計14基の甕棺が出土し、その中から銅剣やガラス製の管玉などの副葬品が見つかっています。また、甕棺の内側には漆(または炭化物)や水銀朱が塗られており、被葬者が手厚く埋葬されていたことが分かります。このことから、墳丘墓には吉野ケ里の支配者層が埋葬されていたと考えられています。
この墳丘墓は発掘調査終了後、一度埋め戻されましたが、2008年に再度発掘されました。現在は展示施設として保存され、発掘当時の状態で公開されています。展示室内では、北墳丘墓の成り立ちや構造、保存方法について詳しく解説されています。
邪馬台国との関係性
中国の歴史書『魏志倭人伝』には、邪馬台国の女王・卑弥呼について「宮室、楼観(物見櫓)、城柵を設け、常に従者を従えていた」との記述があります。これは吉野ケ里遺跡の北内郭に見られる建築様式と一致し、また時代的にも『魏志倭人伝』に記された3世紀頃と重なります。
さらに、『魏志倭人伝』には「倭国では紛争が頻発し、その中で諸国が卑弥呼を共立し、王として擁立した」との記述があります。実際に、九州北部では弥生時代前期から争いの痕跡が見られ、中期以降には戦闘が激化したと考えられています。吉野ケ里遺跡では、頭部のない人骨や刀傷のある遺体が出土しており、こうした争乱の存在を裏付けるものといえます。
以上の点から、吉野ケ里遺跡こそが邪馬台国であったとする説がありますが、決定的な証拠はありません。しかし、北内郭の最高司祭者こそ卑弥呼であったと想像しながら見学すれば、より一層歴史のロマンを感じられるかもしれません。
【北内郭の最高司祭者の家の中】
おわりに
今回は、国内最大級の弥生時代の遺跡である吉野ケ里遺跡を紹介しました。遺跡の中心となる環濠集落や墳丘墓などの遺構を中心に解説しましたが、これ以外にも一般の人々が暮らしていた「南のムラ」や、勾玉づくりや火起こしが体験できる「弥生くらし館」、広大な芝生広場でレクリエーションを楽しめる「弥生の大野」など、家族で楽しめる施設も充実しています。
吉野ケ里歴史公園は非常に広く、園内を巡回するバスも運行されています。筆者はせっかちなので歩いて回りましたが、2万歩以上歩いてもすべてを回り切れず、脚が悲鳴を上げました。効率よく見学したい方は、ぜひ巡回バスを活用することをおすすめします。
広大な園内を巡りながら、遠い昔の人々の暮らしに思いを馳せる——そんな体験ができるのも吉野ケ里遺跡ならではの魅力です。ぜひ実際に訪れ、弥生時代の空気に触れてみてください。
吉野ケ里歴史公園の基本情報
所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
アクセス | JR吉野ヶ里公園駅北口より徒歩15分 その他のアクセス方法→吉野ヶ里歴史公園HP参照 |
料金 | 大人(15歳以上):\460(280) シルバー(65歳以上):\200 中学生以下:無料 括弧内は団体料金(20名以上から) その他、入園無料対象や年間パスポート等のサービスあり→吉野ケ里歴史公園HP参照 |
開園時間 | 4月1日~5月31日:9:00~17:00 6月1日~8月31日:9:00~18:00 9月1日~3月31日:9:00~17:00 |
休園日 | 12月31日、1月の第3月曜日とその翌日 |
参考文献
・七田忠昭著「シリーズ『歴史を学ぶ』115 邪馬台国時代のクニの都 吉野ケ里遺跡」 新泉社 2017年3月10日第1版第1刷発行
コメント