1890年7月27日、画家のフィンセント・ファン・ゴッホは拳銃で自身の腹部を撃ち、翌々日の深夜にその傷が原因で亡くなったとされています。
今でこそ、その色彩あふれる作品が評価され、ポスト印象派の巨匠として評価されているゴッホですが、生前に彼の作品は1点しか売れず、とても肩身の狭い画家生活を強いられていました。そのためゴッホは不遇の画家として語られ、その最後が自ら命を絶つという象徴的な展開に多くの人々が彼の名前を記憶に焼き付けたことでしょう。
しかし、このゴッホの死については色々不可解な点があり、アメリカの伝記作家スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス両氏による共著「ゴッホの生涯」では、ゴッホはある人物によって撃たれたとの説が語られています。
いったいゴッホは何故亡くなったのか、それは本当に自殺だったのか、今回はその死の謎について解説していきます。

終焉の地・オーヴェル
ゴッホはパリの北西にあるオーヴェルでその生涯を終えました。
まずは、彼がどういった経緯でオーヴェルに来ることになったのか、その周囲の人物や事件当日の出来事について解説していきます。
精神病院を退院する
1890年5月、ゴッホはフランスのサン・レミにある精神病院を退院し、新たな療養先としてパリの北西に位置するオーヴェル=シュル=オワーズという田舎町を選びました。オーヴェルには印象派の画家たちと交流のあったガシェ医師が住んでおり、画家であるゴッホが住むには最適な環境のように思われました。
弟テオの存在

ゴッホは生計を立てることができず、弟のテオドルス(通称テオ)の経済的援助によって画家を続けていました。
テオはパリの画廊に勤め、家庭を持ち、この頃に子供が生まれたばかりでした。しかし、彼は兄の援助だけでなく、実家の家族にも仕送りをしており、その経済状況は逼迫していました。ゴッホはパリのテオを訪れた際に、その苦しい状況を目の当たりにし、弟に負担をかけていることを改めて実感します。
オーヴェルでは比較的穏やかに絵を描いていたゴッホですが、パリ訪問後にテオへ送った手紙では、弟の経済状況を心配する様子が綴られていました。一般的には、この経済的な不安が彼が自ら死を選んだ一因と考えられています。
1890年7月27日

この日の夜、ゴッホは下宿先であるラヴー邸に足を引きずるようにして戻ってきました。そこで、腹部に銃撃を受けていることが判明します。この日、彼はラヴー邸で昼食をとった後、絵を描くために外出していましたが、その間どこで何をしていたのかは不明です。
ゴッホの生涯が詳細に知られているのは、彼が弟や知人に多くの手紙を送っていたためですが、亡くなる直前の手紙は存在しません。そのため、7月27日のゴッホの行動については本人の証言ではなく、オーヴェルの住民たちの見聞が現在まで語り継がれています。特にゴッホが自らを撃ったとされる詳細については、ラヴー邸の娘アドリーヌ・ラヴーが1954年8月のインタビューで語った証言が中心となり、ゴッホの自殺説を補強するものとなっています。
彼女の証言によると、その日、
フィンセント(ゴッホのこと)は以前に絵を描いたことのある小麦畑へ向かいました。その畑はオーヴェル城の裏手にあり、当時はパリのメシーヌ通りに住むゴスラン氏の所有でした。城は私たちの家から500メートル以上離れており、そこへ行くには、大きな木々に覆われた急な坂を上る必要がありました。
彼が城からどれほど離れた場所まで行ったのかは分かっていません。午後のある時、城の壁の下を通る道の上で――父の話によると――フィンセントはリボルバーで自らを撃ち、気を失いました。しかし、夕方の涼しさで意識を取り戻します。彼は四つん這いになって再び銃を探し、自らを撃とうとしましたが、見つかりませんでした(翌日になっても銃は発見されませんでした)。やがて彼は銃を探すのを諦め、丘を下って家へ戻りました。
“Memoirs of Vincent van Gogh’s stay in Auvers-sur-Oise ,By Adeline Ravoux” ,THE VINCENT VAN GOGH GALLERY:http://www.vggallery.com/misc/archives/a_ravoux.htm
この証言は、当時ラヴー邸の主人であったギュスターヴ・ラヴーが、瀕死のゴッホの枕元で本人から聞いた話を娘アドリーヌに伝えたものであり、間接的な証言ではあるものの、事件の詳細を伝える重要な記録となっています。
ゴッホはオーヴェルにいた医師たちによって応急処置を施されましたが、容態は悪化し、回復することはありませんでした。そして、パリから駆け付けたテオに見守られながら、1890年7月29日の早朝に息を引き取りました。

死の謎
ゴッホの死をアドリーヌの証言どおりの自殺とした場合、いくつかの不可解な点が浮かび上がります。
1.消えた拳銃、消えた画材

アドリーヌの証言によれば、ゴッホは自殺を試みた後、気を失いました。意識を取り戻した後、再び拳銃を使おうと辺りを探しましたが、拳銃は見つからなかったとされています。夕闇で見えにくくなっていたとはいえ、失神する前に持っていた拳銃が手元からなくなることがあり得るでしょうか?結局、ゴッホが使ったとされる拳銃は事件の後も発見されていません。
また、その拳銃の入手経路も不明のままです。事件後、地元オーヴェルでは、ゴッホが宿の主人ギュスターヴ・ラヴーから拳銃を借りていたという噂が広まりましたが、これを裏付ける証拠はなく、単なる憶測に過ぎません。精神病院を退院したばかりの画家に拳銃を貸すこと自体、不自然で非現実的であるといえるでしょう。
さらに、ゴッホが外出時に持っていたとされる画材(画架、絵具、キャンバスなど)も一切見つかっておらず、銃撃現場が特定できない要因となっています。
2.奇妙な銃創

ゴッホの左胸の銃創は乳首の下、3~4cmのところにあり、心臓を狙ったにしては低すぎる位置であることがわかります。そもそも、確実に遂げるのであれば頭を狙うのではないでしょうか。また、至近距離で発砲したにもかかわらず、接射創(銃口を突き付けて発砲した際にのこる挫滅輪)はみられず、弾丸は胴体を貫通せず腹腔の奥に留まりました。さらに、弾丸が胸腔でなく腹腔内にあったということは銃口は人体に対して下を向いていたということになり、これも自殺にしては不自然な点であるといえます。
3.発作による精神不安定が原因?

ゴッホは1888年12月にアルルで精神的な発作を起こして以降、定期的に発作を繰り返していました。発作中には、絵具やテレピン油を飲み込もうとするなどの異常行動が見られました。発作の間隔は約3か月ほどであり、1890年4月下旬にサン・レミの病院で発作が治まってから丁度3か月が経とうとしていた時期に、ゴッホが自殺を図ったことになります。そのため、発作による精神異常が自殺の引き金になったという説も多く取り扱われています。
しかし、サン・レミの精神病院院長ペロン医師によれば、「発作は少なくとも1週間以上継続し、その間ゴッホは『何を訊かれても支離滅裂な答えしかできない状況』が続いた」とされています。
すなわち、事件直前に発作を起こしていたとすれば、ゴッホはギュスターヴやテオとまともに会話できなかっただけでなく、自力でラヴー邸に帰ることすら難しかったはずです。しかし、ゴッホは死の床で苦痛に悶えながらも意識ははっきりしており、ギュスターヴやテオと会話を交わしていました。これらの事実から、ゴッホが発作による衝動的な自殺を図ったとは考えにくいことがわかります。
4.自殺の動機

精神状態の悪化が自殺の原因でないとすると、ゴッホはあらかじめ自殺を計画していたのでしょうか。
一般的に、ゴッホの自殺の理由として、テオに過剰な負担をかけていることへの罪悪感が挙げられます。ゴッホは1880年に画家を志して以来、テオの援助を受けながら制作を続けていました。テオは若くしてグーピル商会のパリ支店長を務め、安定した収入を得ていましたが、ゴッホへの援助に加えて実家への送金も行っていたため、経済的に余裕があったわけではありません。結婚し子供が生まれた後は、さらに厳しい状況にあったと考えられます。ゴッホがテオの苦しい経済状況を知り、大きな衝撃を受けたことが自殺の引き金になったのではないかと推測されています。
この推測は一見、自殺の動機として充分に思えますが、ゴッホが敬虔なプロテスタントの家系に生まれたことを考慮すると、疑問が生じます。ゴッホの父親はプロテスタントの牧師であり、ゴッホ自身も画家になる前に宣教師として活動していました。キリスト教では自殺が禁じられていることは広く知られており、ゴッホ自身も自殺を否定する以下のような手紙を残しています。
「そっと出ていくとか姿を消すとかいうこと、こいつだけは君も僕も決してやってはならぬ。自殺をしてはならぬのと同じだ。」
フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第三巻」みすず書房 1984年9月20日発行改版第一刷、957頁

また、仮に自殺を計画していたのならば、長年支えてくれたテオに遺書を残すのが自然でしょう。二人は互いに信頼し合い、恋愛や愛人、娼婦に関する話題まで手紙で交わしていました。それにもかかわらず、遺書も自殺をほのめかす言葉も一切残されていません。最後の数通の手紙には、自身の不安定な立場を嘆く記述がある一方で、新たな絵具を注文したり、完成した作品について報告する内容も含まれています。
果たして、自殺を考えている人物が、新たな絵具を注文するものでしょうか。
他殺説
これらの不可解な点が残る自殺説に対して、アメリカの伝記作家スティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは共著『ゴッホの生涯』において、ゴッホが不良少年によって銃撃されたという説を提唱しました。
不良少年「ルネ・スクレタン」

ゴッホが亡くなって半世紀以上後の1956年、映画『炎の人ゴッホ』が公開された際、当時82歳だったルネ・スクレタン(René Secrétan, 1874~1957)という老人が名乗り出て、ゴッホと面識があったことを告白しました。フランスの作家ヴィクター・ドワトーの取材に応じた彼は、カーク・ダグラスが演じる映画のゴッホは「友人」であった本物のゴッホとはかけ離れたイメージだと語り、1890年にオーヴェルで実際に会ったオランダ人画家について詳細に語り始めました。
パリの裕福な薬剤師の息子であったルネ・スクレタンは、1890年当時16歳で、パリの名門校リセ・コンドルセ(プルーストやコクトーを輩出)に通っていました。そして、夏の間は兄のガストン・スクレタンとともに、田舎町オーヴェルの別荘で過ごすことになっていました。
そこで出会ったのが、その春に移住してきたばかりのゴッホでした。パリの上流家庭で育った少年たちは、このエキセントリックな画家に強い興味を持ちました。特に兄のガストンは芸術や音楽に関心があり、ゴッホと親しく話をするようになりました。しかし、ルネは美術に全く興味がなく、奇矯な言動の多いゴッホを悪戯の対象とみなすようになります。ルネは不良仲間たちと共にゴッホをからかい、彼のコーヒーに塩を入れたり、絵具箱に蛇を入れたり、筆に唐辛子を塗ったり(ゴッホは乾いた筆を舐める癖があった)、さらにはガールフレンドを使ってゴッホをからかうなどの悪戯を繰り返しました。そのたびにゴッホは怒り、ルネたちは「発狂」するゴッホの姿を笑いものにしていたといいます。これらの悪戯は度を越しており、インタビュー時のルネ自身も当時の自分を「俗物」と卑下するほどでした。

ルネ・スクレタンと思われる人物の素描(1890年6~7月)
また、ルネは1889年のパリ万博で開催された「ワイルド・ウェスト・ショー」に影響を受け、そこで購入した西部劇の衣装をオーヴェルに持ち込んでおり、そして、その衣装に合わせるように拳銃を所持していました。
ルネが持っていたのは38口径の古い拳銃で、時々弾が出ないことがあったものの発砲は可能でした。彼は不良仲間とともに、鳥や川の魚を狙い撃ちして遊んでいたといいます。インタビューにおいてルネは、この銃をラヴー邸の主人ギュスターヴから譲り受けたと証言しました。
拳銃の行方

インタビューの中で、ルネ・スクレタンはゴッホが負傷した7月27日の事件について自身の関与は否定しています。しかしルネはその一方で、自身が所持していた拳銃は「ゴッホに盗まれた」と述べ、ゴッホの死はオーヴェルの後に訪れたノルマンディーにて新聞を読んで初めて知った(このような記事の存在は確認されていない)と話しています。また、銃の紛失については彼がノルマンディーを去るまで気付かなかったとも話しました。
一方、ゴッホの死に際をみとったギュスターヴ・ラヴーの娘として1950年代から取材を何度も受けていたアドリーヌは、1960年代の取材にて、新たにゴッホを撃った拳銃は父ギュスターヴのものであったと認めました。この証言とルネ・スクレタンの話から、ゴッホを撃った拳銃が少なくともギュスターヴ・ラヴーの所有物であったことが判明しましたが、アドリーヌはその事実に、ゴッホがカラスを撃退するためにギュスターヴから借り受けたという話を付け加えました。

しかし、生前のゴッホは動物や虫を無暗に傷つけるのを嫌い1、また、カラスを「嘉納と恩寵のしるし」2として神聖なものと考えていました。そのため、彼が拳銃を借りてまでカラスを追い払おうとしたという話に疑問が残ります。そもそも50年代から何度も取材を受けておきながら、なぜ彼女はこのような重要な話を伏せていたのでしょうか。
加えて、ルネ・スクレタンとアドリーヌ・ラヴーの証言を比較すると、ルネが、「拳銃はゴッホに盗まれた」と述べているのに対し、アドリーヌはゴッホは「ギュスターヴから直接借りた」と証言しており、ここに明確な矛盾が生じます。どちらかが虚偽を述べているのか、それとも単なる記憶違いなのか、あるいは両者とも何らかの事実を隠そうとしていたのか——これらの疑問は、ゴッホの死の真相を巡る謎を一層深め、他殺説の可能性をより現実味のあるものにしました。。
事件の考察

これらの事実から、ルネ・スクレタンがゴッホを銃撃したということが容易に想像できるでしょう。それが意図的なものであったのか、誤射であったのかは今となっては確かめようがありませんが、この他殺説を前提とすることで、ゴッホの死にまつわる数々の謎が解決することになります。以下は、ルネ・スクレタンがゴッホを銃撃したという他殺説をもとに事件の真相を推察したものです。
1890年7月27日、ラヴー邸で昼食を終えたゴッホは、いつもどおり画題を探しにオーヴェルの町を彷徨っていました。その最中にルネ・スクレタンと遭遇したのかもしれません。あるいは、ルネたちと酒場で飲酒した後に(経済的に困窮していたゴッホはスクレタン兄弟に酒を奢ってもらっていた。また、ゴッホは兄のガストン・スクレタンを気に入っていたため、意地悪なルネとも付き合わざるを得なかった。)、その周辺をうろついていた可能性も考えられます。いずれにせよ、この日の夕暮れ時に、ゴッホとルネの間で何かしらの出来事が発生しました。
それは単なる古い拳銃の暴発による誤射だったのか、あるいは酩酊状態のゴッホと意地悪なルネの間で口論や揉み合いが発生したのかは不明です。しかし、何らかの理由でルネが所持していた拳銃から弾丸が発射され、ゴッホの胸部に命中してしまいました。左胸の銃創が自殺にしては不自然だったという点は、ルネによる銃撃だったとすると合理的に説明がつきます。
意図的であったにせよ、事故であったにせよ、人間を撃ってしまったことでルネは恐怖に震えたに違いありません。負傷したゴッホが脚を引きずりながらラヴー邸へ戻ろうとする中、ルネたちは慌てて証拠を隠そうとしました。拳銃をオワーズ川に投げ捨てるか、近くの林に埋めることで処分し、また現場が特定されないようにゴッホの画材も持ち去りました(ネイフとスミスによれば、銃撃現場はルネたちがたむろする場所として知られていた)。これにより、拳銃や画材が発見されなかった理由が説明できます。

ルネに拳銃を渡していたギュスターヴは、ゴッホが銃撃されたと知った瞬間には、その犯人の見当がついていたはずです。しかし、彼自身、未成年のルネに拳銃を渡していたという責任があり、犯人の名前を明かすことができずにいました(ギュスターヴがなぜルネに拳銃を与えたのかは明確ではありませんが、ルネが裕福な家庭の御曹司であったことを考えれば、その背景は容易に想像がつきます)。
実際、翌朝の7月28日、警察がゴッホの元へ事情聴取に訪れた際、ギュスターヴはこれ以上の追及をしないように警察を遮りました。この行動は、アドリーヌ・ラヴーの証言により、負傷したゴッホを気遣ったエピソードとして語られましたが、実際にはゴッホの口から真犯人の名前が出るのを防ぐためだったとも考えられます。
いずれにせよ、ゴッホの口から犯人の名前が語られることはありませんでした。これを好機と考えたギュスターヴは真実を隠蔽するために「ゴッホがカラスを撃退するために拳銃を借りた」という偽りの話を作り上げ、その罪を秘匿しようとしたのです。ギュスターヴは真実を伏せてその話をアドリーヌに聞かせた可能性が高いですが、彼女はおそらくその真実について知っていたと思われます。彼女が取材を通して、その話を伏せ続けていたのが何よりの証拠です。
何故ゴッホはルネ・スクレタンを庇ったのか

他殺説をもとに考察した場合、先に挙げた「死の謎」はすべて解決します。しかし、新たに「なぜゴッホはルネ・スクレタンを庇ったのか」という疑問が生まれます。
ゴッホは、警察の事情聴取の際、警官の「自殺したかったのか?」という問いに対し「はい、そう思います」と曖昧に答えたうえ、「誰も責めないでください」と犯人を庇うような発言をしました。
ルネの度を越した悪戯に、ゴッホの心中は決して穏やかではなかったはずです。負傷後の耐えがたい痛みの中、通常であれば憎らしい加害者の名前を警察に伝えるのが自然な行動でしょう。しかし、ゴッホは死を目前にしても彼の名を口にすることはありませんでした。その理由は一体何だったのでしょうか。
スティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスの両氏は『ファン・ゴッホの生涯』の中で、この謎について「ゴッホが死を歓迎した」という考察を展開しています。
ゴッホは前述のように、プロテスタント的な道徳観のもと、自殺を否定していました。しかし、精神疾患を患い、いつ襲ってくるかわからない発作に怯えていた彼は、「こんなことならもう何もなくなって一切が終わってくれればいい」3と嘆いたことがありました。また、サン・レミで「刈り人のいる麦畑」を描いた際には、麦を刈る人物を死神に、刈られる麦を人間に喩え、「死の中には何ら陰鬱なものはなく、純金の光にあふれた太陽と共に、明るい光りの中でことがおこなわれるのだ。」4と、まるで死を受け入れるかのような考えを述べています。
さらに、それ以前、グーピル商会を解雇され、伝道師として修行していた時期には、自らの背中をこん棒で打つなどの自己懲罰的な自傷行為を行っていたことも知られています。これらの行動からも、彼は独自の死生観が持っていたことが分かります。
こうした背景を考えると、ゴッホは自ら命を絶つことはしなかったものの、死を避けるべきものとは考えず、むしろ自然なものとして受け入れていたと考えられます。

「刈り人のいる麦畑」1889年9月
また、亡くなる直前、ゴッホは枕元にいたテオに対して「このまま死んでいけたらいいのだが」と語りました。この言葉は、一見すると最愛の弟に対する謝罪や、人生に対する諦めや後悔の表れと捉えられますが、死を前にして漏れた本心であると考えることもできます。
ゴッホは自殺を拒絶する一方で、死を歓迎するという、一見すると矛盾した感情を抱えていました。そこにテオへの負担を痛感する出来事も重なり、ルネ・スクレタンによる銃撃はまさに「運命的な出来事」であったと感じたのではないでしょうか。ゴッホはルネを恨むどころか、むしろ感謝し、彼の罪を喜んで庇ったのかもしれません。
まとめ「先行していた自殺のイメージ」
以上、ゴッホの死の謎について他殺説の観点から考察してきましたが、いかがだったでしょうか?
今回のポイントを以下にまとめます。
1.従来のゴッホの自殺説は、曖昧な情報をもとに語られるようになった。
2.ゴッホが自殺を図ったとする従来の説には、多くの謎や矛盾点が発生する。
3.その謎や矛盾点は、他殺説を前提とした場合、ほとんどが解決する。
4.その場合、最有力な容疑者はルネ・スクレタンである。
他殺説はゴッホの死の謎をほぼ解明できると個人的に感じましたが、決定的な証拠が乏しいため、現在においては依然として自殺説が通説とされています。事件から1世紀以上が経過している現在、その状況は避けられないことかもしれません。
先行していた自殺のイメージ
ゴッホの波乱に満ちた生涯や、情熱的でエキセントリックな人物像が影響し、彼の死は「自殺」というドラマチックな結末として広く受け入れられてきました。このため、ゴッホの最晩年の作品は多くの場合、自殺との関連で語られることが多かったのです。しかし、もし他殺説が真実であるならば、これまでのイメージは大きく覆ることになります。
その最たる例が『カラスのいる麦畑』です。この作品は長らくゴッホの絶筆とされ、自殺と関連づけられてきました(1956年の映画『炎の人ゴッホ』では、この絵を描き上げた後に拳銃自殺を遂げる描写がある)が、現在では絶筆作品は他に確認されています。そもそも、『カラスのいる麦畑』というタイトルは後年になって付けられたものであり、描かれている黒い鳥が本当にカラスであるという確証もありません。さらに、前述のとおり、ゴッホはカラスを神聖な鳥と考えていたため、仮にカラスが描かれていたとしても、不吉なイメージを込めたとは考えにくいのです。この作品は、「自殺」と「カラス」というネガティブな先入観が強く影響を与えた代表例といえるでしょう。本来であれば、青い空と黄色い麦畑の補色効果を活かした、ゴッホらしい色彩表現の作品として評価されるべきです。

『カラスのいる麦畑』1890年7月
また、ひろしま美術館所蔵の『ドービニーの庭』には、もともと画面左下に黒猫が描かれていました。しかし、その部分が塗りつぶされた跡があることから、「自殺を暗示するものではないか」という解釈が広まりました。しかし、現在の調査によって、この塗りつぶしは後年の修復家によるものであることが判明しています。このように、作品の背景を正確に理解しないまま「自殺」というイメージを重ねることで、作品の本来の魅力が見えにくくなってしまうことがあります。仮に他殺説が間違っていたとしても、安易に「自殺」のイメージを押し付けることは、ゴッホの真意とは反することでしょう。

『ドービニーの庭』(1890年7月)
「ルネ・スクレタンについて」

ルネ・スクレタンは、やんちゃな少年時代を過ごした後、銀行家、南アフリカ・ヨハネスブルグの金鉱の管理者を経て、最終的にはスイスの再保険会社の取締役にまで上り詰めました。引退後はフランスの地方の小さな町で余生を過ごしたとされています。
1956年、彼が82歳の時、インタビューの中でゴッホと面識があったことを告白しました。しかし、なぜルネ・スクレタンはこのタイミングでその事実を公にする気になったのでしょうか。もし単に注目を集めたかったのであれば、1920~1930年代にゴッホの名声が確立された時期に告白したほうが、より世間の関心を引いたはずです。
さらに、ルネはインタビューの中で、ゴッホに対して行った数々の非道な悪戯について詳細に語っていますが、これらの供述は彼にとって何のメリットもなく、むしろ自身を告発するような内容でした。この行動には、彼がゴッホに対して抱いていた複雑な感情が影響していると考えられます。
(他殺説を前提とした場合)若気の至りとはいえ、自身の過失によってゴッホを死なせてしまったという罪の意識は、彼の心の中に大きなしこりとして残り続けていたのではないでしょうか。非道な仕打ちを受けながらも、ゴッホが最後まで自身を庇ったことを知ったルネは、どのような思いを抱いたのでしょう。それは、一言では言い表せないほどの複雑な感情だったに違いありません。ルネが贖罪を求め、過去の行いを公にして懺悔すると同時に、映画の中で歪められたゴッホのイメージを正そうとしたのかもしれません。
しかし、彼はゴッホを銃撃したことだけは認めることができませんでした。保身のためであるというのは確かですが、認めた時に生じるであろう家族への影響を懸念したとも考えられます。ゴッホの正確なイメージを世間に伝えること、そして自身が行った悪戯を公言することが、ルネにとってできる限りの罪滅ぼしだったのかもしれません。
そして、彼は沈黙を貫いたまま、インタビューの翌年1957年にこの世を去りました。
注釈
- ゴッホは昔ボリナージュで伝道師の活動をしていた時期がありました。その半世紀ほど後、彼の下宿先の主であったジャン=バティスト・ドニは記者ルイ・ピエラールの取材を受け、当時、ドニがあやうく毛虫を踏みつぶしそうになった際、「なぜその小さな生き物を殺そうとするんです。それは神が造られたのです…」(二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行、319頁)と彼を押しとどめたと話しました。伝道師であったゴッホが人間以外の生命をも大切にしていたことが分かるエピソードです。 ↩︎
- 「僕は上から嘉納と恩寵のしるしと証しとして、いかにしてわたりがらすや鷲がある種の人物の頭の上に止まったかを読んだ。こうした歴史を知るのはいいことだ。これは喜びの種だと思う。」(二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行、230頁) ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1708頁より ↩︎
- 二見、1984年11月20日発行改版第一刷、1660頁 ↩︎
参考文献
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行
・二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行
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