大原美術館の見どころ。児島虎次郎とベルギー印象派。

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大原美術館

大原美術館(おおはらびじゅつかん)は、岡山県倉敷市にある、日本で最初の西洋美術を中心とした私立美術館です。1930年、実業家の大原孫三郎が、洋画家・児島虎次郎の功績をたたえて設立しました。

20世紀初頭、ヨーロッパに留学して西洋画を学んでいた児島虎次郎は、その一方で現地にて美術作品の収集活動に勤しんだことでも知られています。当時の日本では、本場の西洋画を鑑賞できる機会が非常に限られており、その現状を憂えた虎次郎は、大原孫三郎の協力を得て収集活動を開始したのです。こうして持ち帰られた作品が、現在の大原美術館のコレクションの礎となり、日本初の西洋美術館の誕生に結実しました。

児島虎次郎(1881~1929)

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目次

大原美術館の基本情報

所在地:岡山県倉敷市中央1丁目1−15

児島虎次郎について

大原美術館のコレクションには、児島虎次郎が収集した作品だけでなく、彼自身の作品も含まれています。今回は彼を代表する作品『和服を着たベルギーの少女』について解説していきます。

和服を着たベルギーの少女

和服を着たベルギーの少女
大原美術館蔵 
児島虎次郎作「和服を着たベルギーの少女」 1911年

本作『和服を着たベルギーの少女』は、児島虎次郎がベルギー留学中に描き、パリのサロンに初めて入選した作品です。華やかな和服をまとった少女の姿をはじめ、背景に描かれた調度品まで、すべてが色鮮やかに表現されています。そこには、当時ヨーロッパで流行していた印象派の明るい色調の影響が見て取れます。

留学前は、「里の水車」にみられるような写実的で落ち着いて色調の絵を描いていた虎次郎ですが、本作を描くまでにどのような経験を経ていったのでしょうか。

児島虎次郎 里の水車
『里の水車』(1906年)

エミール・クラウスとの出会い ベルギー印象派「ルミニスム」

当時、西洋画を学ぶために渡欧する多くの画家は、芸術の都であるパリに滞在していました。虎次郎も当初は、パリに留まっていましたが、現地の喧騒が肌に合わず(黒田清輝の紹介で出会ったラファエル・コランとの相性が良くなかったという説もある)、ベルギーに滞在するようになりました。

エミール・クラウス(1849~1924)
by JoJan

虎次郎はベルギー滞在中に、現地の画家たちと交流し、その中でエミール・クラウス(Emile Claus)という画家と知り合いました。クラウスは、ベルギー印象派「ルミニスム(Luminism)」を代表する画家として知られています。

ルミニスムは、フランス印象派の影響を強く受けた画派であり、そのためフランス印象派との明確な違いを見つけるのは難しいかもしれません。しかし、クラウスの作風に注目すると、印象派の特徴を持ちながらも、フランドル地方の伝統である写実主義(レアリスム)を強く保持している点が際立っています。

クラウスはもともと社会派の写実主義の画家でしたが、1889年から1892年にかけてフランス印象派の影響を受け、その画法に明らかな変化が現れました。彼の作品における光の表現や色彩の扱いが、これ以降、印象派の特徴を反映するものとなっています。

エミール・クラウス 年老いた庭師
エミール・クラウス「陽の当たる並木道」1889年
エミール・クラウス 刈草干し 1896年
エミール・クラウス作「豊かさと貧しさ」1880年
エミール・クラウス作「行き交う船は」1883年
エミール・クラウス 年老いた庭師 1885年
エミール・クラウス作 陽の当たる並木道 
エミール・クラウス 刈草干し 1896年
エミール・クラウス作「ウォルタール橋に沈む夕日」1916年
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虎次郎は、エミール・クラウスの自宅を訪れ、絵の批評を受けました。その際、クラウスは虎次郎に次のような助言を与えました。

すべての画家は各自の個性を発揮して描くべきである。自分はフランドルの血を受けている。自分はフランドルの画家として立つべきである。君らは大和民族としてそれだけの代表的作物を描かねばならない。むだに欧州に遊び、欧州の画風を真似してはいけない。固有たるものが発揮されない作品は真ではないと思う。固有とは、その人本然の意味である。深遠な画は作者の真心より出たものでなくてはならない。真似ごとはいけないことであろう。」

松岡智子 時任英人 編著「児島虎次郎」山陽新聞社出版 1999年5月28日発行 51頁

フランス印象派の影響を受けていたクラウスですが、彼自身のスタイルである構図や正確な描写を崩すことはありませんでした。クラウスは、異国の地で新しい価値観を学ぼうと奮闘する虎次郎に、西洋画をただ模倣することの危険性を強調したのです。

そして「和服を着たベルギーの少女」が完成した際に、クラウスは次のように評価しました。

「これは君が絶えずそばにおいて新しい作品を描くたびに比べてみたらよい。画家にも、音楽家が必要とするように、音叉なるものが必要である。この絵は君の音叉として保存しておくべきものである」

松岡智子 時任英人 編著「児島虎次郎」山陽新聞社出版 1999年5月28日発行 53頁

この批評で自信を得た虎次郎は、「和服を着たベルギーの少女」をパリのサロン(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)に出品し、見事に入選を果たします。その後も入選を重ね、1920年に同サロンの正会員に任命されました。
「和服を着たベルギーの少女」は虎次郎のデビュー作でもあると同時に、ヨーロッパでの成功に自信をもたらした重要な作品でもありました。

下図は「和服を着たベルギーの少女」以降の作品です。色彩(あまり画質が良くありませんが…)や構図はより洗練されていますが、絵の雰囲気そのものは穏やかで優しいままです。クラウスが述べた「音叉として」という助言を大切にしながら、虎次郎は創作を続けていたことが窺えます。

国立近代美術館 (フランス)蔵 児島虎次郎作「秋」1920年
大原美術館蔵 児島虎次郎作「朝顔」1916年
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虎次郎が留学していた当時のベルギーは、フランドルの伝統であるレアリスムを保ちながら、フランス印象主義が徐々に浸透しつつある時期でした。フランスでは印象主義がすでに一般的になっていた一方、ベルギーでは異なる文化が混ざり合い、新しい美術運動が芽生えようとしていました。このような環境で学ぶことは、虎次郎にとって非常に刺激的であったに違いありません。

特に、エミール・クラウスをはじめとするベルギーの画家たちとの交流は、虎次郎を日本人画家として大きく成長させました。「和服を着たベルギーの少女」は、まさに日本とベルギーの文化が交錯する中で生まれた象徴的な作品です。

西洋画といえば、一般的にはイタリアやフランスが思い浮かびますが、大原美術館設立の礎を築いた児島虎次郎の活動は、ベルギー美術なしには語れません。大原美術館を訪れた際には、ぜひ「日本とベルギー」というキーワードを念頭に置きながら作品を鑑賞してみてください。新たな視点で作品の魅力を感じられることでしょう。

他の所蔵品

エル・グレコ「受胎告知」

大原美術館蔵  エル・グレコ「受胎告知」1590年

大原美術館を代表する作品といえば、まず最初に思い浮かぶのがこの「受胎告知」です。

「受胎告知」とは、新約聖書の一場面で、天使ガブリエルが聖マリアのもとを訪れ、キリストを身ごもることを告げるエピソードです。このテーマは中世ヨーロッパの宗教画においてよく見られ、代表的な例としてシモーネ・マルティーニの祭壇画「聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知」があります。

ウフィツィ美術館蔵 シモーネ・マルティーニ作
「聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知」1333年

マルティーニの作品と比較すると、エル・グレコの「受胎告知」は登場人物の動きが劇的で、よりドラマチックに描かれています。この特徴は、人体が引き伸ばされ、歪曲されることが多い「マニエリスムと呼ばれる様式に見られます。

エル・グレコは16世紀にイタリアとスペインで活躍しましたが、マニエリスムの衰退とともにその作品も忘れ去られていました。しかし、20世紀前半になるとマニエリスムが再評価され、エル・グレコも再び注目を浴びるようになります。児島虎次郎がエル・グレコの「受胎告知」を購入したのも、この再評価の時期でした。

「受胎告知」の購入経緯

1922年、虎次郎は3度目のヨーロッパ滞在中にフランスでエル・グレコの「受胎告知」が売りに出されているのを目にします。この滞在は、彼が大原孫三郎の全面的な支援を受けて美術館設立のために行っていたもので、虎次郎は即座に孫三郎に作品の写真とともに、購入のための送金依頼の手紙を送りました。

当時の価格で15万フラン(現在の価値で約2~3億円程でしょうか?)という高額でしたが、孫三郎はこれを快諾し、購入が実現しました。第一次大戦後の経済的に厳しい時期でしたが、エル・グレコが再評価され始めたこと、虎次郎の審美眼、そして孫三郎との強い信頼関係が重なり、この貴重な作品が大原美術館に収蔵されることになりました。

なお、日本にあるエル・グレコの作品はこの「受胎告知」と、国立西洋美術館にある「十字架のキリスト」の2点のみです。

ベルネーム=ジュヌ画廊、1910年撮影されたもの
児島虎次郎がエル・グレコの「受胎告知」を購入した画廊です。2019年に閉店しました。

その購入意図

「受胎告知」が購入された当時の日本では、印象派や後期印象派の作品が主に紹介され、それを模倣する若い画家が多くいました。虎次郎は、生前に「ゴッホが流行れば誰も彼もゴッホと騒ぎ、タゴールが流行ればタゴールと騒ぐ」と、日本の若い画家たちに独自の主義がないことを懸念していました。彼は、かつて師であったエミール・クラウスからの教えを思い出し、「ただ模倣するだけでは、そこに日本の何物もない」と感じていたのです。

近代美術作品が中心のコレクションにエル・グレコの「受胎告知」を加えることで、虎次郎は西洋美術の歴史と深みを示しました。彼は若い日本の画家たちが自らの道を切り開いてほしいと願ったのではないでしょうか。

京都国立近代美術館蔵「外套着たる自画像」(1912年)
京都国立近代美術館蔵 岸田劉生作「外套着たる自画像」(1912年)
あの岸田劉生もゴッホ風の絵を描いていました。流行おそるべし。

ジョヴァンニ・セガンティーニ「アルプスの真昼」

大原美術館蔵 セガンティーニ作「アルプスの真昼」1892年

ジョヴァンニ・セガンティーニは、アルプスの風景を描いた作品で知られる画家です。「アルプスの真昼」もその代表作の一つで、エル・グレコの「受胎告知」と同じく、児島虎次郎が3度目のヨーロッパ留学時に購入した作品です。虎次郎はこの作品を購入した際、「セガンティーニは良い絵であった。苦労しただけの甲斐はあった」と記録しています。

セガンティーニについて

セガンティーニは、イタリアのトレンティーノ地方(当時はオーストリア領)で生まれましたが、幼い頃に国籍を失い、一生無国籍のまま過ごしました。彼は20代半ばに画家としての成功を収め、アムステルダム万国博覧会で金賞を受賞し、1890年のブリュッセルで開催された展覧会ではセザンヌやゴーギャン、ファン・ゴッホといった巨匠たちと並んで作品が展示されました。

しかし、成功とは裏腹に生活は安定せず、金銭的な困難から1886年にスイスの山岳地帯であるグラウビュンデン州に移住し、1894年まで家族と共にそこで暮らしました。「アルプスの真昼」はこの時期に描かれたものです。

作品の特徴と技法

「アルプスの真昼」は、セガンティーニが印象派と同様に「筆触分割」という技法を使って描いた作品です。しかし、フランスの印象派と異なり、セガンティーニの作品は輪郭がよりシャープで、遠景の山々まで明瞭に描かれています。この違いは、彼が暮らしていた高地特有の薄い空気によって、物の色や形がはっきり見えることを反映しているのです。

セガンティーニの筆触分割の方法は、フランスの点描(ジョルジュ・スーラに代表される技法)とは異なり、「線状」の筆触を使っています。古典的なテンペラ技法に見られるようなハッチング様の線を重ねることで、色を混ぜずに鮮やかさを保ち、さらに事物を明瞭に描くことが可能になりました。このような技法を用いるイタリアの画家たちは「ディヴィジョニズム」と呼ばれ、フランス印象派とは異なる方向で発展していきました。

ディヴィジョニズムは日本ではあまり知られていませんが、フランス印象派とは異なる視点から発展したイタリアの画家たちに注目してみるのも興味深いです。特にセガンティーニの作品は、その精緻な筆触が特徴で、実物を見ればその技法の美しさをより深く理解できるでしょう。大原美術館を訪れる際は、ぜひこの「アルプスの真昼」を実際に鑑賞し、その細かな描写を目にしていただきたいです。

美術館周辺

新渓園

大原美術館本館と分館の間にある庭園です。無料で入ることができます。

新渓園は大原孫三郎の父・大原孝四郎氏が還暦記念に別荘として建設したものです。
大正11年、孫三郎から当時の倉敷町へ寄贈され、現在は公益社団法⼈ 倉敷観光コンベンションビューローさんにより管理されています。

新渓園1
新渓園2
新渓園3
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新渓園4
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