「大原美術館」は1930年に開館した日本初の西洋美術館です
20世紀初頭、油絵の技法や絵具自体は既に日本に伝わっていましたが、本場の洋画を観る方法は渡欧する以外にはありませんでした。
後の大原美術館の創設者大原孫三郎の支援によって当時ヨーロッパに留学していた児島虎次郎は当時の日本で西洋美術を勉強することが非常に困難であることを痛感しました。そこで、後の日本の美術界発展や日本の西洋画家の参考品のために孫三郎の支援を得ながら西洋絵画の収集を始めます。
収集された作品は日本で何度か一般公開され好評を得ます。大原孫三郎は児島虎次郎が収集した作品を基礎に美術館の創設を考えますがその中、児島虎次郎が逝去してしまいました。
1929年の当時、世界的な恐慌の中であったため経済的に苦しかったことが想像されますが、児島虎次郎の逝去に伴い、その功績を記念する形で「大原美術館」は開館します。
虎次郎が亡くなった後も孫三郎の後を継いだ大原総一郎氏によってフォービズム以降の現代絵画等の収集が行われ、現在、所蔵品の総数は約3,000点にのぼります。
美術館概要
大原美術館の所在地:岡山県倉敷市中央1丁目1−15
「倉敷美観地区」とは江戸時代の白壁の町並みが保存されている地域です。蔵や町屋を改装したショップが並ぶ観光スポットとなっています。
大原美術館はその美観地区の中にあり、倉敷を訪れた際には寄っていきたい観光スポットでもあります。
アクセス | JR倉敷駅より徒歩15分 車を利用の場合→美観地区周辺に有料駐車場あり(美術館用の駐車場はありません) |
料金 | 一般:\2,000 18歳未満:\500(小学生未満は無料) |
開館時間 | <12月~2月>9:00~15:00(最終入館14:30) <3月~11月>9:00~17:00(最終入館16:30) |
休館日 | 毎週月曜日、冬季休館あり (休館日が祝日、振替休日と重なった場合は開館 7月下旬~8月、10月は無休) |
児島虎次郎とベルギー
和服を着たベルギーの少女
大原美術館のコレクションには児島虎次郎が収集した作品のほかに児島虎次郎本人の作品もあります。
「和服を着たベルギーの少女」は虎次郎がベルギーに留学していた際に描いた作品で、パリのサロンに出品し初めて入選した作品でもあります。
着物の鮮やかな色彩と背景の色彩、肌の色彩が絶妙なバランスで調和した見事な作品です。明部の華やかさはもちろんですが暗部も青や紫等の原色に近い色を使っているのが分かります。肌も混色を避けるためかやや厚塗りで描かれており、肌の陰影は控えめで爽やかな印象を受けます。
エミール・クラウスとの出会い ベルギー印象派「ルミニスム」
「和服を着たベルギーの少女」から印象派の影響を強く受けているのが分かりますが、虎次郎は印象派発祥の地であるフランスに留学せず、ベルギーに留学しています。
当時、日本人画家の留学先として一般的なのはフランスのパリでした。実は虎次郎もパリに留学する予定だったのですが、パリの喧騒が肌に合いませんでした(黒田清輝から紹介されたラファエル・コランと気が合わなかったとの説もあります)。その中、ベルギーへの小旅行をきっかけに当時ベルギーのゲントに留学していた太田喜二郎の紹介によりゲント美術アカデミーに入学することになります。
虎次郎は現地の画家と交流する中でエミール・クラウス(Emile Claus)という画家と知り合います。
クラウスはベルギー印象派「ルミニスム(Luminism)」を代表する画家として知られています。
ルミニスムはフランス印象派の流れを汲む画派であるため、フランス印象派との明確な違いを言及することは困難です。しかしクラウスに限って述べると、印象派の特徴を持ちながらフランドル地方の伝統であるレアリスム(写実主義)を強く保っていることが特徴としてあげられます。
(下図から)クラウスは元々社会派な写実主義の画家でしたが、フランス印象派の影響を受けたとされる1889~1892年を境にその画法に明らかな違いが認められます。
虎次郎は太田喜二郎とともにクラウス宅へ絵を持っていき批評を受けています。
クラウスはその際に虎次郎へ以下の助言を与えました。
「すべての画家は各自の個性を発揮して描くべきである。自分はフランドルの血を受けている。自分はフランドルの画家として立つべきである。君らは大和民族としてそれだけの代表的作物を描かねばならない。むだに欧州に遊び、欧州の画風を真似してはいけない。固有たるものが発揮されない作品は真ではないと思う。固有とは、その人本然の意味である。深遠な画は作者の真心より出たものでなくてはならない。真似ごとはいけないことであろう。」
松岡智子 時任英人 編著「児島虎次郎」山陽新聞社出版 1999年5月28日発行 51頁
フランス印象派に影響されたクラウスでしたが、構図や正確な描写等の独自のスタイルは崩しませんでした。
異国の地で新しい価値観を学ぼうと奮闘する虎次郎にクラウスは西洋画の物マネで満足しないように釘を刺したのです。
そして虎次郎は「和服を着たベルギーの少女」が完成した際に、クラウスは以下のように評価しました。
「これは君が絶えずそばにおいて新しい作品を描くたびに比べてみたらよい。画家にも、音楽家が必要とするように、音叉なるものが必要である。この絵は君の音叉として保存しておくべきものである」
松岡智子 時任英人 編著「児島虎次郎」山陽新聞社出版 1999年5月28日発行 53頁
この批評で自信を持った虎次郎はこの後、「和服を着たベルギーの少女」をパリのサロン(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)に出品し入選を勝ち取ります。その後も入選を重ね、1920年に同サロンの正会員に任命されました。
「和服を着たベルギーの少女」は虎次郎のデビュー作でもあったと同時に、ヨーロッパでもやっていけるという自信を得た作品でもありました。
下図は「和服を着たベルギーの少女」以降の作品です。色の見せ方(あまり画質が良くありませんが…)や構図が洗練されていますが、絵の雰囲気そのものは「和服を着たベルギーの少女」の穏やかで優しいものと変わらないように見えます。クラウスの「音叉として」という助言を大事にしながら創作を続けていたことが窺えます。
虎次郎が留学した当時のベルギーはフランドルの伝統ともいえるレアリスムを強く保ちながらもフランス印象主義が浸透しつつあった時期でした。印象主義が一般的になりつつあったフランスとは異なり、文化が混ざり合う最中のベルギーで学べたことは虎次郎にとっては非常に興味深かったに違いありません。
そして、クラウスをはじめベルギーの画家との交流が虎次郎を日本人画家として大きく成長させました。
「和服を着たベルギーの少女」はその渦中に生まれた日本×ベルギーを象徴する作品であったと言えます。
西洋画と言えばイタリア、フランス等を思い浮かべますが、大原美術館設立の礎となった児島虎次郎の活動はベルギー美術なしには語れません。大原美術館を訪れた際には「日本とベルギー」をキーワードに作品を観てみるのも面白いかもしれません。
他の所蔵品
エル・グレコ「受胎告知」
「大原美術館といえば」というと最初に思いつく作品が本作品です。
「受胎告知」とは新約聖書のエピソードの一つで「聖マリアのもとに天使ガブリエルが降り立ち、キリストの妊娠を告げる」というもの。中世ヨーロッパ絵画において良くみられるテーマです。
「受胎告知」をテーマとした他の作品に、シモーネ・マルティーニの祭壇画があげられます。
マルティーニの「聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知」と比べてグレコの「受胎告知」は登場人物の動きが激しくドラマチックなことが特徴的です。
この傾向は「マニエリスム」と呼ばれ、登場人物の人体が引き伸ばされたり歪曲していることが特徴とされています。
エル・グレコは16世紀のイタリアやスペインで活躍しましたが、マニエリスムが17世紀以降衰退すると共にグレコの存在も忘れ去られていきました。しかし、20世紀前半からマニエリスムが再評価されるようになりエル・グレコにも光が当たります。児島虎次郎がグレコの「受胎告知」を購入したのもこの時期です。
「受胎告知」の購入経緯
児島虎次郎は1922年に3度目のヨーロッパでフランスに滞在しており(この留学は大原孫三郎の全面的な支援の下、美術館創設のためのものだった)、この時運よくエル・グレコの「受胎告知」が売りに出されているのをみた虎次郎は孫三郎に作品の写真と作品購入のための送金依頼を手紙で送ります。当時の価格で15万フラン(現在にして1~2億円程でしょうか?)でしたが、孫三郎はこれを承諾、送金を行い「受胎告知」購入に至りました。
エル・グレコが再評価されだした時期であった事や第一次大戦直後でヨーロッパが不況だったこと、児島虎次郎の審美眼と虎次郎と大原孫三郎の強い信頼関係etc…色々な条件が満たされた末、奇跡的にも大原美術館にエル・グレコの「受胎告知」は収蔵されることになりました。
ちなみに日本におけるエル・グレコの作品は大原美術館の「受胎告知」の他に国立西洋美術館の「十字架のキリスト」の2作品のみとなっています。
その購入意図
「受胎告知」購入された当時の日本には印象派や後期印象派の作品が主に紹介されており、それを真似て絵を描く若い画家が多くいました。
虎次郎は生前に「ゴッホが流行れば誰も彼もゴッホ、ゴッホと騒ぐ。タゴールが流行ればタゴール、タゴールと騒ぐ」と日本の若い画家に主義が無さ過ぎる事を懸念していました。虎次郎はかつて師のエミール・クラウスが指摘したように、模倣して行きつく先に「そこに日本の何物もない」と述べています。
近代作家のものが中心となっているコレクションにエル・グレコの「受胎告知」を加えることで西洋美術の歴史や奥深さを示し、日本人の画家に自らの途を開拓してもらいたいという意図があったと考えられます。
ジョヴァンニ・セガンティーニ「アルプスの真昼」
ジョヴァンニ・セガンティーニはアルプスの風景画で有名です。
当作品「アルプスの真昼」はグレコの「受胎告知」と同じ3度目の留学時に虎次郎によって購入されました。
虎次郎は「アルプスの真昼」を購入した際に、「セガンティーニは良い絵であった。苦労しただけの甲斐はあった。」と記録しています。
セガンティーニはイタリアのトレンティーノ地方(出生当時はオーストリア領)に生まれますが、幼少期に手違いから国籍を失ってしまい、終生無国籍の画家でした。
20代の中頃にはアムステルダム万国博覧会で金賞を獲るなど画家として成功し、1890年にブリュッセルで開かれた20人展ではセザンヌやゴーギャン、ファン・ゴッホといった巨匠の作品とともに展示されました。
しかし、成功とは裏腹に金銭面では苦労したようで、1886年には安価な住居を求めて山岳部グラウビュンデン州(スイス)に移住し1894年まで家族とともにそこで暮らしました。
「アルプスの真昼」はその時分に描かれたものです。
セガンティーニは印象派と同様に筆触分割の技法を用いて描きました。しかし、フランス印象派に比べて当作品内の事物の輪郭はシャープで遠景の山々も比較的にはっきりと描かれています。それはグラウビュンデンが高地であり空気が薄いため物の色や形が明瞭にみえることに起因しますが、セガンティーニが用いた筆触分割の方法もその要素の一つとなっています。
フランス印象派の筆触分割の方法はジョルジュ・スーラに代表する「点描」ですが、セガンティーニが用いた筆触分割の方法は「線状」の筆触によるものでした。古典技法のテンペラで用いられるようなハッチング様の線を引き、あるいは重ねていくことで、色を混色することなく鮮やかに、そしてフランス印象派に比べて事物を明瞭に描くことが出来ました。
こうした描き方の違いからセガンティーニなどイタリアの筆触分割で描く画家を「ディヴィジョニズム」と称したりしますが、日本ではあまり注目されていないようです。フランス印象派とは別方向に発展していったイタリアの画家をこれを機に調べてみるのも面白いかもしれません。
セガンティーニの洗練された筆触は画像ではその筆触をなかなか確認できないので、是非美術館で実物をみてみてください。
美術館周辺
新渓園
大原美術館本館と分館の間にある庭園です。無料で入ることができますが、有料で貸切ることもできるようなので、その場合は入館に制限が掛かるようです。
新渓園は大原孫三郎の父・大原孝四郎氏が還暦記念に別荘として建設したものです。
大正11年、孫三郎から当時の倉敷町へ寄贈され、現在は公益社団法⼈ 倉敷観光コンベンションビューローさんにより管理されています。
参考文献
・松岡智子著「児島虎次郎研究」中央公論美術出版 2004年11月25日発行
・松岡智子 時任英人 編著「児島虎次郎」山陽新聞社出版 1999年5月28日発行
・ベアト・シュトゥッツァー、ローランド・ヴェスペ監修 末吉雄二訳「セガンティーニ<アート・ライブラリー Bis> 西村書店 2011年3月20日発行
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