モネの《睡蓮》って
よく聞くけど、結局どんな作品?

教科書やポスターでおなじみのクロード・モネ《睡蓮》シリーズ。
でも正直、「なんであんなに何枚も?」「全部同じに見える…」と思ったこと、ありませんか?
実は《睡蓮》は、ただの“きれいな池の風景”ではありません。
モネは約30年にわたって、自宅の池を描き続けました。そこには創作への執念、年齢や病、そして人生の光と影が深く刻まれています。

そして最終形態、
――《大装飾画》へ
連作として育っていった《睡蓮》は、最後に“空間そのものを包み込む”《大装飾画》へと到達します。
モネはキャンバスの外側、展示室の形や光の入り方までを設計し、鑑賞体験そのものをデザインしました。
近年では「インスタレーション・アート」という現代美術の一つとしても注目されています。
この記事では、モネがなぜ池に執着し、どうやって《大装飾画》へ辿り着いたのか――その背景やドラマを、できるだけ丁寧にたどっていきます。
読み終えるころには、《睡蓮》がまったく違って見えるはず。
よろしければ、最後までお付き合いください。

画像:by Brady Brenot
【第1章】
モネと「水」──彼が描き続けた風景の本質
水辺を愛したモネ
モネは《睡蓮》シリーズ以外にも、いろんな連作を描いています。
中でも有名なのが《積みわら》や《ルーアン大聖堂》のシリーズ。時間や光の移ろいを、一枚ずつ丁寧にとらえた作品たちです。
そして、もうひとつ注目したいのが「水辺」の風景。
ジヴェルニーのエプト川沿いに立つポプラ並木を描いた《ポプラ並木》シリーズや、ノルマンディー地方の海岸を描いた《エトルタの断崖》。さらには、イギリスまで行ってロンドンの《チャリング・クロス橋》を描いたこともありました。
なかには、自分のアトリエ船を浮かべて、その上で絵を描いていたこともあるんです。
こうして見てみると、モネが風景の中でも「水辺」に特別な思い入れを持っていたことがよくわかります。
モネの思い出の場所「ル・アーブル」
モネは1840年にパリで生まれ、5歳の頃からセーヌ川の河口にある港町「ル・アーブル」で育ちました。
18歳まで暮らしたことを思えば、この町はモネにとっての“原風景”と言ってもいいかもしれません。
セーヌ川とイギリス海峡がぶつかり合うこの町には、水と空が混ざり合う絵画のような空気が流れていたはず。
そんな場所で育ったモネが「水辺」というテーマに惹かれたのは、ごく自然なことだったのでしょう。

ル・アーブルの「ルエル地区」の風景。モネが17歳の頃に描いた風景画です。
また、この地はモネが風景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会った場所。
ブーダンは若きモネに「屋外で絵を描くこと」を勧め、のちの印象派のスタイルにつながる大きなきっかけを与えました。
つまりル・アーブルは、モネの絵画人生の原点であり、水辺の記憶が染みついた“始まりの地”でもあったのです。
《睡蓮》シリーズにおける「水へのまなざし」も、ここ「ル・アーブル」で芽生えていたのかもしれません。

印象派という言葉の由来にもなったこの絵も、実はル・アーブルの港を描いた作品です。
水面の反射、光と色の変化
それ以前のアトリエの中で絵を描いていた頃とは違い、印象派の画家たちは、「外で描くこと(=戸外制作)」をとても大事にしていました。
自然光の中で、天気や時間によって刻々と変わっていく光のニュアンスを、そのまま絵の中にとらえようとしたんです。
たとえば、太陽の光が直接当たる明るい部分。そこから跳ね返って別の場所を照らす反射光。あるいは木陰に落ちるやわらかな色合い……。
彼らは、そういった自然の“光が作り出す魔法”を、それぞれの方法で追いかけていました。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(1876年)
そんな中で、モネが特に心を奪われたのが、「水面」でした。
彼の有名な言葉のひとつに、こんなものがあります。
「水に浮かぶ花は、風景のすべてではない。むしろ、それは“添えもの”にすぎない。本当のモチーフは、水面という“鏡”だ。その姿は、瞬間ごとに変わっていく。」
出典:“Waterlilies or The Water Lily Pond (Nymphéas)”, Denver Art Museum(筆者訳)
水面に映る空の色や、風に揺れてゆがむ影。周囲の木々や橋がふわりと映り込む一瞬のきらめき——
モネにとって、池の睡蓮や周りの景色は“構図の飾り”であって、本当に描きたかったのは「水面に映る光」そのものだったんです。
そんなモネの“水面へのまなざし”の集大成こそが、《睡蓮》シリーズでした。

【1章まとめ】

【第2章】
ジヴェルニーの「水の庭」──ジヴェルニーと《睡蓮》の始まり
偶然たどり着いた場所「ジヴェルニー」

画像:by Spedona
1883年、モネはポワシーから新しい住まいを探していました。
その途中、たまたま乗っていた列車が停車した場所――それが、パリから北西に約80kmの小さな村「ジヴェルニー」でした。
緑あふれるその風景に、モネは一目で惚れ込みます。
あちこち転居を繰り返していたモネですが、ここでの暮らしは彼にとって特別だったようで、この地が生涯の拠点となりました。
モネが自分でつくった《睡蓮》の舞台
いま私たちが目にする《睡蓮》シリーズは、じつはモネ自身がつくった庭の池を描いたものです。
その池があったのが、ジヴェルニーの家の南側にある「水の庭」。
でも、この「水の庭」は、最初からあったわけではありません。
1883年に引っ越してきた当初、モネはまだその土地すら持っていませんでした。
それから約10年後の1893年、家の裏手の土地をようやく購入。そこには小さな池がありましたが、モネはそれをもっと大きくしたいと考えます。
そして、近くを流れる川から水を引き込んで、理想の池をつくろうとしました。

画像:by Pierre André Leclercq
ところが、当時のフランスでは水の使用に関するルールがとても厳しく、最初の申請はあっさり却下されてしまいます。
でもモネはあきらめません。周囲の農民や自治体と丁寧に交渉を重ね、ついに許可を得ることができました。
──こうして、モネが思い描いていた「水の庭」が、ようやく現実になったのです。
太鼓橋、ジャポニズムの影響

当時の妻カミーユの着物姿を描いた作品。
19世紀中頃、日本の浮世絵や工芸品はヨーロッパに広まり、フランスの芸術界でも一大ブームを巻き起こしていました。
この“ジャポニスム”の影響を強く受けていた画家のひとりが、他でもないモネです。

画像:by Globetrotteur17… Ici, là-bas ou ailleurs…
奥の壁には浮世絵がズラリ。
現在もジヴェルニーに残る「モネの家」では、ダイニングルームの壁一面に浮世絵がずらりと飾られています。
この光景からも、モネが日本美術にどれほど強い関心を持っていたかがよく伝わってきますね。
その影響は、「水の庭」のデザインにも表れました。
池の一角に掛けられたのは、日本風の“太鼓橋”。
この橋は、後に《睡蓮》シリーズ初期の作品にたびたび登場し、重要なモチーフのひとつになります。

【2章まとめ】

画像:by Michal Osmenda
【第3章】
《睡蓮》を描き始めたモネ——最初期から第1連作まで
《睡蓮》最初期の作品たち
モネが《睡蓮》を描き始めたのは、1895年ごろのこと。
この最初期の作品たちは、大きく2つのタイプに分けられます。
ひとつは、「太鼓橋」を主役にしたもの。
現存するのは3点で、色とりどりの花や緑に囲まれた“水の庭”の風景が鮮やかに描かれています。
完成したばかりの太鼓橋を、初めて見たときの印象そのままに描いているような、手探り感が印象的です。
もうひとつは、「睡蓮の花」そのものを主役にした作品。
こちらは8点が知られていて、そのうち2点が日本の美術館に所蔵されているのも嬉しいポイントです。
この頃の《睡蓮》は、のちの作品に比べてやや写実的なのが特徴。
また、後年のモネが“空気や光のゆらぎ”に焦点を移していくのに対し、この時期は「太鼓橋」や「睡蓮」といった具体的なモチーフが、はっきりと主役として描かれています。
「太鼓橋」を中心に描いた“第1連作”
その後モネが取り組んだのが、「太鼓橋」を中心に描いた一連の作品群。
“第1連作”と呼ばれるこのシリーズでは、最初期の《太鼓橋》よりも意識的に、光の移ろいをとらえようとしました。
そのため、同じ構図・同じ視点のまま、異なる時間や光のなかで繰り返し描かれており、作品数も一気に増えました。
1899年に描かれたものが12点、1900年のものが6点。あわせて18点が現存しています。
まず、1899年の作品群。
こちらは構図が左右対称に近く、画面を包む鮮やかな緑が印象的です。
太鼓橋、睡蓮、水面に映る光の色彩がバランスよく配置されていて、まさに「これぞ印象派」と言いたくなるような美しさがあります。
一方、1900年の作品では、視点が少し左に寄り、画面の左下に茶系の地面が入り込む構図になります。
この暖色が、周囲の緑とのコントラストを生み、画面全体の色調に深みを加えています。
ちなみに、これらの作品は庭の西側から東に向かって描かれたとされていて、画面に落ちる木陰は西日の光によるもの。
午後の、やや傾いたやわらかい光の中で、モネがゆっくり筆を動かしていた様子が目に浮かぶようです。
【3章まとめ】

【第4章】
変化する視点——《睡蓮》第2連作
「睡蓮」で確かな名声をつかんだモネ
1901年、モネは池の拡張に取りかかります。
池はついに舟を浮かべられるほど広くなり、広がる水面とそこに映る光の揺らぎが、ますます彼の心をとらえていきました。
そして、1903年から1908年にかけて描かれたのが、“第2連作”と呼ばれるシリーズ。
現時点で80点もの作品が確認されていて、そのうち48点が、1909年にパリのデュラン=リュエル画廊で開催された「睡蓮:水の風景連作」展に出品されました。
この展覧会は、モネにとってキャリアの中でも大きな成功となります。
評判も上々で、「現存する最高の画家」とまで称賛されたほど。
“第2連作”は、名実ともにモネの評価を決定づけたシリーズだったんですね。
消えた風景、視線は水面へ

《睡蓮、水の情景、雲》(1903年)
“第2連作”の初期にあたる《睡蓮、水の情景、雲》では、画面の奥にまだ対岸の草木が描かれています。
しかし、このあとモネの視線は、どんどん水面そのもの──とくに「光の反射」へと向かっていきます。
もともと印象派の画家たちは、自然の中にある複雑な光の表情──木漏れ日や照り返し、空気ににじむ色彩──をどうにか絵にしようとしてきました。
ただ、モネがたどり着いたのは、静かな波ひとつない水面。
シンプルすぎて普通なら「絵にならない」とされるようなモチーフを、モネはあえてクローズアップし、何枚も何枚も描いていきます。
上下さかさま?
“第2連作”の中でも、とくにユニークなのが1907年に描かれた縦構図のグループ。
それまでの横長構図とはガラッと雰囲気が変わり、縦長の画面に木々の揺れが水面に映り込んでいます。
このグループでは、映り込みがすごくはっきりしていて、水面をただの背景ではなく、もうひとつの「主役」として描いているようにも見えます。
実際、一部の作品ではあまりに反射が鮮明なため、絵を上下逆さにしても成立してしまうほど。
風景が主役なのか、水面が主役なのか──
どこが上でどこが下なのかすら曖昧な、不思議な世界に私たちは引き込まれていきます。
モネの苦悩
本当は、この“第2連作”をまとめた《睡蓮:水の風景連作》展は、1907年に開かれる予定でした。
しかし、モネは開催の1か月前になって、なんと展示をキャンセルしてしまいます。
理由は、ただひとつ。
自分の作品にどうしても納得できなかったから。
気に入らないキャンバスには、ナイフを突き刺したり、足で蹴りつけたり──
モネの創作へのこだわりと苛立ちは、相当なものだったのでしょう。
そんなモネには、こんな言葉も残されています。
多くの人は、私が簡単に絵を描いていると思っている。けれど、芸術家であるというのは、そんなに簡単なことじゃない。私は絵を描くとき、しばしば苦しみに耐えている。それは、大きな喜びであると同時に、大きな苦しみでもあるのだ。
出典::『モダン・アート』1897年冬号(第5巻第1号、p.33)※JSTORデジタルアーカイブより閲覧(筆者訳)
《大装飾画》へ向かう大きな分岐点でもあったこの時期。
今までにない革新的な作品を生み出していく裏には、我々には想像できない程の苦悩があったのかもしれません。

《睡蓮》(1908年)
【4章まとめ】

【第5章】
最後の挑戦——《大装飾画》とは?
現在、フランス・パリのオランジュリー美術館に展示されているモネの《睡蓮》シリーズ。
縦2メートル×横91メートルという圧巻のスケールで、巨大な“睡蓮の空間”が二つの部屋に広がっています。
これこそが、モネが晩年に命をかけて取り組んだ《大装飾画》。
彼が亡くなる直前まで描き続けた《睡蓮》の、最終形態とも言える作品です。
さて、これがどんなふうに始まったのか。少しずつ見ていきましょう。

画像:by Brady Brenot
「大装飾画」の構想はすでに1897年に
“空間を絵で満たす”というこの大胆なアイデア。じつはけっこう早い段階からモネの頭にあったようです。
1897年、まだ《睡蓮》を描き始めて間もないころ、美術評論家モーリス・ギユモがジヴェルニーを訪れ、モネのアトリエを取材しました。
そのときギユモが目にしたのが、壁に立てかけられた大きなパネル画。モネはこれを「装飾画の習作」と語り、「いずれ丸い部屋に飾ってみたい」と話したそうです。
このときの構想はいったんお蔵入りとなってしまいますが、まさに現在のオランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」に通じる発想。
モネは《睡蓮》を描き始めた最初期から、すでに“空間芸術”を意識していたことが分かります。

130×152㎝と、最初期にしては大きな「睡蓮」。1897年にギユモが目にしたのは作品だといわれています。
目の不調、相次ぐ悲報
1909年、《睡蓮:水の風景連作》展で大きな成功を収めたモネ。
その年の絵の売り上げは、なんと27万2000フラン。当時のパリの平均年収が約1000フランだったことを考えると、モネがどれほど高く評価されていたかがわかります。
名声も地位も、すでに揺るぎないものとなっていました。
ところがその後、モネは表立った制作活動をほとんどやめてしまいます。
その要因のひとつが、1910年のセーヌ川の大洪水。
ジヴェルニーの「水の庭」は壊滅的な被害を受け、しばらくの間、物理的に《睡蓮》を描くことができなくなってしまいました。
さらに追い打ちをかけたのが、視力の問題です。
1908年ごろから見えづらさを訴えるようになり、1912年には白内障と診断されます。
光と色の微細な変化をとらえることに人生をかけてきたモネにとって、視力の衰えは想像を超える苦しみだったはずです。
そして、さらなる不幸が重なります。
1911年、長年連れ添った妻アリスが死去。
1914年には、息子ジャンが46歳の若さで急逝します。

絵画の世界でかつてない成功を手にしながらも、モネを襲ったのはあまりに大きな喪失でした。
70歳を過ぎた彼が、制作から遠ざかっていったのも無理はありません。
何年も続く沈黙の中で、世間は“モネはもう引退した”と見なすようになっていきました。
親友クレマンソーの存在、再び向き合う「睡蓮」
そんなモネを支えたのが、友人であり政治家でもあったジョルジュ・クレマンソーでした。
クレマンソーは、深い悲しみに沈んだモネを何度も励まし、ジヴェルニーを訪ねては「もう一度、描いてくれ」と根気強く背中を押し続けたのです。

そして1914年4月。ジヴェルニーを訪れたクレマンソーは、モネとともに降りた地下室で、ある一枚の作品を再発見します。
それは、かつて美術評論家モーリス・ギユモに見せた「装飾画の習作」でした。
その絵を見たクレマンソーは、ふと思い出します。
モネがかつて語っていた「大きな《睡蓮》で、丸い部屋を飾りたい」という夢のことを。
(※ギユモは1897年の取材を、1898年に出版された芸術誌『Revue illustrée』に寄稿していました。クレマンソーも、その内容をすでに耳にしていたと考えられます。)
そうか、これがあのときの構想だったのか──
クレマンソーは、かつての夢にもう一度挑んでみないかと、強くモネの背中を押します。
そしてモネは、再び筆を取りました。
《大装飾画》という、新たな《睡蓮》の挑戦が、静かに、けれど力強く動き出したのです。
【5章まとめ】

【第6章】
世界大戦と白内障|大型化する「睡蓮」
大きくなる「睡蓮」とブランシュの支え

印象派の画家たちは、外の光をキャンバスに捉えるため、屋外で絵を描くのが当たり前でした。
絵具チューブの登場で、画材は持ち運びやすくなりましたが、それでもキャンバスは移動できる範囲の大きさに限られていたのです。
1909年までのモネの作品も、その多くが一辺100cm以下。
しかし1914年、「大装飾画」へと踏み出したモネは、一辺150cm、大きなものでは200cmを超える巨大な「睡蓮」に挑み始めます。
彼が思い描いたのは、展示室の壁をぐるりと取り囲む「睡蓮」。サイズが大きくなるのは必然でした。
とはいえ、アトリエから「水の庭」までは100m以上。
高齢のモネが巨大なキャンバスを運ぶのは至難の業です。
そこで欠かせない存在となったのが義娘のブランシュ。
彼女はモネの再婚相手アリスの連れ子で、モネの長男ジャンと結婚していました。ジャンの死後、ジヴェルニーに戻り、モネの制作を支えることになります。
絵を描くことでも知られたブランシュは、気難しいモネにとって最高の助手。
家事を担い、アリスとジャンを失って沈みがちだった義父を、身近で支え続けました。

戦争と「大装飾画」

(アキーレ・ベルトラーメ作、1914年7月12日)
1914年、第一次世界大戦が勃発。
ドイツ軍はベルギーを経由してフランスに侵攻し、「国境の戦い」でフランス軍は大敗。首都パリ陥落の危機が迫ります。政府は南西部ボルドーに疎開し、パリは混乱に包まれました。
ジヴェルニーでも住民が疎開を始めますが、モネは動きません。
彼はこう言い放ちます。
「私はここを離れない。たとえあの野蛮人たちが私を殺そうとも、私はキャンバスに囲まれ、人生をかけて描き続けた作品の前で死ぬだろう。」
出典:Christie’s, “Hidden Treasures: Monet’s Saule pleureur et bassin aux nymphéas”より(筆者訳)

9月、第一次マルヌ会戦でフランス・イギリス連合軍は反攻に転じます。
有名な「マルヌのタクシー作戦」では、パリ市内のタクシーで約6,000人の兵士を前線へ送り込み、ドイツ軍を押し戻すことに成功しました。
とはいえ戦争は終わらず、多くの若い芸術家たちが戦地へ。フォーヴィズムのアンドレ・ドランやモーリス・ド・ヴラマンクもその一人です。
モネは「この国難の中で絵を描く意味」に悩みますが、やがて制作を再開。
友人レイモン・ケクランへの手紙でこう記しています。
「塞ぎ込んでいても何も変わらない。私は『大装飾画』を目指している」
出典:ロス・キング 著 長井那智子 訳『クロード・モネ 狂気の眼と「睡蓮」の秘密』初版 p.106 より
この手紙が、「大装飾画(Grande Décoration)」という言葉を初めて用いた記録といわれています。
戦争で疲弊した人々の心を癒す──それがモネの描く意味となっていきました。
やがて、その想いを託した作品が「しだれ柳」の連作です。
西洋では「しだれ柳」は墓地に多く植えられ、「哀悼」や「回復」の象徴とされています。
そして、モネは「大装飾画」の中にも、この「しだれ柳」を描き込みました。
それは空間を彩る芸術であると同時に、戦争で傷ついた祖国への悲しみ、そして再生への祈りが込められた作品でもあったのです。
白内障|手術への恐怖
モネは1912年に白内障と診断され、1915年にはこう漏らします。
「以前のような制度で色を感じることができなくなった[……]特に赤が泥色に見える。」
出典:安井裕雄 著『図説 モネ「睡蓮」の世界』第1版 p.70 より
実際にこの頃の作品は、ゴッホを彷彿とさせる燃え上がるような色彩で描かれたものが多く、かつての柔らかな筆致とは一変していました。

(1914~1917年、個人コレクション)
友人のジョルジュ・クレマンソーらは手術を勧めますが、モネは拒否。
1922年には右目がほぼ失明、左目の視力も10%にまで低下していました。
ついに1923年1月、モネは手術を決意。直後は改善が見られませんでしたが、時間とともに視力は回復し、特注の眼鏡をかけることで再び絵筆を握ることができたのです。

(マルモッタン・モネ美術館蔵)
【6章まとめ】

画像:by Michael Scaduto
【第7章】
オランジュリー美術館と「大装飾画」
休戦とモネの決意

1918年11月11日、第一次世界大戦が終結。翌日、国民が歓喜に沸くなか、モネは一通の手紙をクレマンソーに送りました。
「私はもうすぐ二枚の装飾画を書き終えるが、署名の日付は勝利の日にするので、君が私の代わりに国へ提供してほしいのだ。たいしたことではないが、それが私にとって勝利にかかわる唯一の方法だ。その二枚を装飾芸術美術館に展示してほしい。」
出典:ロス・キング 著 長井那智子 訳『クロード・モネ 狂気の眼と「睡蓮」の秘密』初版 pp.203~204 より
11月18日、ジヴェルニーを訪れたクレマンソーは、モネのアトリエに並ぶ巨大なキャンバス群を目の当たりにします。それは、モネが長年夢見てきた「大装飾画」の姿でした。
クレマンソーはただの2点の寄贈にとどめるのではなく、より壮大な構想──「モネの《睡蓮》で丸い部屋を飾る」という夢を実現しようと動き出します。戦勝記念の象徴として、これ以上ふさわしいものはありませんでした。
幻の「藤の装飾画」

画像:by Jean-Pierre Dalbéra
最初に候補にあがったのは、現在「ロダン美術館」として知られるオテル・ビロン。
モネは作品を寄贈するにあたり、いくつかの条件を出しました。
まずは「展示室は楕円形であること」。
そして「天窓から自然光を取り入れること」。
これらは、鑑賞者に“果てしなく広がる世界へ没入する感覚”を味わわせるための工夫でした。
さらにモネは、「大装飾画」の上部に《藤》の装飾画をぐるりと配置することにも強いこだわりを見せます。
そのためには、展示室の天井を高く、空間を広く取る必要がありました。
しかし、これらの特殊な建築には、莫大な費用がかかってしまいます。
結局、この案は国から却下されてしまいました。

オランジュリー美術館へ
次の候補にあがったのは「オランジュリー美術館」。
けれどここでも問題がありました。建物の構造上、《藤の装飾画》は展示できず、しかも展示室を二つに分けなければならなかったのです。
思い通りにならないことに苛立ったモネは、担当していた設計士を解雇などしクレマンソーを困らせましたが、最終的にはオランジュリー美術館で展示することに決まります。
2年後の1924年4月までに、「大装飾画」をオランジュリー美術館に納める——
この契約が美術局長のポール・レオンと正式に結ばれたのです。

画像:by Traktorminze
モネの死
とはいえ、モネはいつものごとく期限を守りません。1924年の期限になっても完成せず、ついには「寄贈を取り消す」とポール・レオンに書き送りました。
これまで奔走してきたクレマンソーは激怒。
ですがモネが寄贈を拒否した背景には、大装飾画を「完成させたくない」という複雑な気持ちがありました。
実際、多くのパネルは1922年の春には完成に近い状態にあったといわれています。
《二本の柳》も、1917年に撮影されたアトリエ写真には、ほぼ完成形で写っています。
そして、最後に手をかけたとされる《日没》。
右下の一部分は、下地すら塗られていません。視力を回復したあとに加筆する時間があったなら、少なくとも下地くらいは描いたはず。
それでもあえて“空白”を残した――つまりモネ自身が「完成させない」という選択をしたのではないか、とも考えられるのです。
なぜか。
それは「大装飾画」が完成し、オランジュリーに収められることは、そのまま彼の画家人生の終わりを意味してしまうから。
モネはそれを本能的に恐れ、筆を止めたのかもしれません。
そして1926年12月5日。
モネはついに、「大装飾画」が展示される光景を見ることなく、86年の生涯を閉じました。
「未完のままの完成」——
そこには完成を望みながらも、「ずっと描き続けたい」という、ひとりの画家の切実な願いが刻まれているのかもしれません。

【7章まとめ】

画像:by Amadalvarez
【第8章】
「睡蓮」の不遇時代|現代美術と「睡蓮」
念願の「大装飾画」展示へ
モネの死後、ジヴェルニーのアトリエから22枚の「大装飾画」が慎重に運び出され、オランジュリー美術館に収蔵されました。
そして1927年5月、ついに一般公開。
展示室は2つに分かれ、それぞれの壁をぐるりと取り囲むように「睡蓮」が飾られ、まるで水面に包み込まれるような空間が誕生しました。
第一展示室
第二展示室
——まさに満を持しての開館。
「最後の印象派巨匠の絶筆」に、国民が殺到する……はずでした。
ところが現実は、少し違っていたのです。
死後の逆風|「秩序への回帰」
第一次世界大戦は、ヨーロッパに深い傷を残しました。
戦後、人々は混乱や無秩序に疲れ果て、「もう一度、安定と調和を」と願うようになります。芸術の世界でも、戦前のキュビズムやダダのような過激な前衛よりも、クラシックで落ち着いた表現が求められるようになりました。これが「秩序への回帰」と呼ばれる潮流です。

フォーヴィスムの旗手だったドランですら、1920年代にはこんな「古典的」な絵を描いていたほど。
そんな時代に発表されたモネの「大装飾画」。
しかし、その評価は決して温かいものではありませんでした。
光が溶け合い、輪郭がにじむ画面は、多くの人々に「抽象的すぎる」「実験的すぎる」と映ってしまったのです。
もし「積みわら」のように労働の象徴を描いていたら?
あるいは「セーヌ川」の風景のように、郷土への愛を感じさせていたら?
それなら、人々の愛国心を刺激し、もっと歓迎されたかもしれません。
けれど「大装飾画」の主役は、フランスの伝統や土地柄とは無縁の“異国の花”——睡蓮。
しかもその表現は、形をあいまいにし、光と空気にすべてを溶け込ませるもの…
それは戦後のフランス人が求めていた「秩序」や「わかりやすさ」とは真逆の世界観でした。
結果として、「大装飾画」はモネの遺作でありながら、当時の人々にとってはあまりにも時代の空気から外れたものとして受け止められてしまったのです。
忘れ去られたモネと「睡蓮」
こうした時代背景のなかで、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」にはほとんど人が訪れませんでした。クレマンソーの言葉を借りれば、「人気のない場所を求めるカップルがいるだけ」。
さらに「秩序への回帰」以降の時代になっても、モネの「大装飾画」が評価されることはありませんでした。
現代美術に移り変わっていく美術界において、印象派が求めた外光などのテーマは既に時代遅れのものとなっていたのです。
やがて「睡蓮の間」では他の企画展が開かれたり、しまいには倉庫として使われるようになっていきました。第二次世界大戦では美術館が砲撃を受け、第2室の《樹木の反映》が損傷。それすらも20年間も放置されたといいます。
あの「睡蓮の間」が、そんな扱いをされていたなんて…。
巨匠のかつての名声は影をひそめ、モネという画家は忘れられた存在となっていきました。
アメリカ人芸術家たちによる再評価
しかし、時代は流れて1950年代。
モネは思いもよらぬ形で“復活”を果たします。そのきっかけを与えたのはフランス人ではなく、なんとアメリカ人の芸術家たちでした。
彼らはフランスに訪れると、こぞってオランジュリー美術館へ。
そこで「大装飾画」を目にし、圧倒されるほど感動しました。
なぜ彼らがそこまで衝撃を受けたのか。
ポイントは、彼ら自身が「抽象画家」であったことにあります。
彼らはモネの描いた曖昧な輪郭、光をとらえようとする繊細で大胆な筆致に、抽象表現の原点を見出したのです。
その中の一人アンドレ・マッソンはその感銘をこう表現しました。
「オランジュリーは印象派のシスティーナ礼拝堂だ」
ただし、ここで一つ皮肉な事実があります。
モネ自身はあくまで具象画家。「見たままを描く」ことに徹した画家であり、抽象や前衛絵画を心から嫌っていました。
新印象派の点描技法にも否定的で、ピサロらが影響を受けてもモネは一切なびかず。キュビズムに至っては「それは私を不愉快にさせる」とまで語ったほどです。
それでも——そんなモネを、再び世に押し上げたのは皮肉にも抽象主義の芸術家たちでした。
こうして「睡蓮の間」は再び注目を浴び、モネは20世紀美術の文脈の中で新しい光をあてられることになるのです。
「睡蓮の間」のリフォーム
こうしてモネは再び評価され、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」も、展示の在り方を見直されるようになりました。2000年にいったん閉館して大規模な改装工事が行われ、2006年にリニューアルオープン。現在の姿へと生まれ変わります。

画像:by Jason7825
改装で大きく変わったのは、「睡蓮の間」の真上にあった展示室が取り払われたこと。
この展示室は1960年代に新しいコレクションを収めるために作られたものですが、モネがこだわった自然光を遮ってしまっていたのです。
新しい「睡蓮の間」ではその構造を一新。
再び天窓から自然光が降り注ぐようになり、さらにガラスは二重構造でUVカットを導入。
天蓋部分にはシェードが張られ、光をやわらかく拡散させることで、空間全体がふんわりとした光に包まれる設計となりました。

画像:by Timothy Brown
これらの工夫は、鑑賞者をモネの世界に没入させるための演出であると同時に、作品を守るための仕掛けでもあります。
本来、油彩画は完成後に表面を保護するためのニスを塗りますが、このニスは年月とともに黄ばんでしまうのが悩みどころ。モネはそれを嫌い、「大装飾画」にはニスを塗ることを禁じました。
そのため作品の繊細な表面が空気に暴露されることとなり、光によって劣化するリスクが高い状態でした。改装による光の調整は、作品を長く守るためにも不可欠なものだったのです。
こうして「大装飾画」は、ようやく正当な評価のもとで、ほぼモネの理想に近い形で再公開されました。
──モネがこの世を去ってから、実に80年もの歳月を経てのことでした。
「大装飾画」は現代美術を先取りしていた

画像:by Sailko
建物内部に装飾として壁画を描くことは、古代から続く伝統です。
モネの同時代でも、シャヴァンヌやナビ派のモーリス・ドニが図書館や劇場の壁画を手掛けていました。
しかし、モネの「大装飾画」はそれらと決定的に違う点があります。
彼は単に作品を描いただけでなく、「楕円形の展示室」や「天窓からの自然光」といった展示空間そのものを構想したのです。
つまり、「鑑賞者が睡蓮の世界に没入できる環境」までデザインしたということ。
これは結果的に、1970年代以降に広がる「インスタレーション・アート」に通じる試みでした。
インスタレーションとは、ある特定の空間にオブジェや装置を配置し、全体を一つの作品として体験させる表現方法。もちろんモネ自身はそんな言葉を知りませんでしたが、意図せずその先駆けを実現していたのです。
【8章まとめ】

画像:by Ibex73
おわりに

ここまでモネの《睡蓮》、そして最終形態ともいえる《大装飾画》についてご紹介してきました。いかがだったでしょうか?
モネと「水」との深い関わりや、30年にわたる《睡蓮》の変化。そして《大装飾画》に込められた彼の想いを、少しでも感じ取っていただけたなら嬉しいです。
意外だったのは、あの壮大な《大装飾画》が発表当時は不評だったということ。今やオランジュリー美術館の「睡蓮の間」は年間100万人以上が訪れる大人気スポットですが、時代によって評価がこうも変わるのは本当に驚きですよね。
それでも今なお、《睡蓮》は100年以上前の作品とは思えないほど斬新で、見るたびに新しい発見を与えてくれる名作です。フランスに行く機会があれば、ぜひオランジュリー美術館に足を運んでみてください。
さらに、日本国内にもモネの《睡蓮》は収蔵されています。実は意外と身近に出会える名作なんです。気になる方は関連記事もぜひチェックしてみてくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
それでは、また次の記事で。
参考文献
- ロス・キング 著 長井那智子 訳『クロード・モネ 狂気の眼と「睡蓮」の秘密』 亜紀書房 2018年8月15日 第1版第1刷発行
- 安井裕雄 著『図説 モネ「睡蓮」の世界』創元社 2024年9月20日 第1版第5刷発行
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