
洋画好きにはたまらない!茨城県・「笠間日動美術館」の魅力
笠間日動美術館は、日動画廊の創業者・長谷川仁氏が、自身の故郷である茨城県笠間市に設立した美術館です。日動画廊といえば西洋画に強いギャラリー。その流れを受けて、この美術館もモネやルノワール、セザンヌ、ドガ、ゴッホなど、名だたる西洋画家の作品がずらり。もちろん日本人作家も充実していて、藤田嗣治や高橋由一、岸田劉生といったビッグネームの絵も楽しめます。印象派からエコール・ド・パリまで、美術史の流れを一気にたどれるラインナップです。
その他にも注目したいのが、画家・鴨井玲の常設展示「鴨井玲の部屋」。
彼が使っていた家具と一緒に作品が展示されていて、まるでアトリエに入り込んだような気分に。
そしてもう一つの見どころが、ちょっとユニークな「パレットコレクション」。ピカソやダリ、安井曾太郎、鴨井玲など、国内外のアーティストが実際に使っていた絵の具パレットが展示されています。ただの道具じゃないんです。中には自画像や風景が描かれた“作品化”されたパレットもあって、見応えたっぷり。

建物と庭園を歩いて楽しめる
笠間日動美術館の敷地はちょっとユニーク。展示館は3つあって、企画展示がメインの「企画展示館」、常設展示の「日本館」と「フランス館」が点在しています。これらの建物を移動するには、ただの通路じゃなくて、竹林や彫刻がある庭園の中を歩くんです。
つまり「ついでに庭も楽しめる」ではなく、「庭園も鑑賞ルートの一部」という作り。美術館の敷地そのものが、ひとつのアート空間みたいになっています。季節や時間帯によって雰囲気が変わるので、訪れるたびに違う表情が楽しめるのも魅力です。
所蔵作品紹介
※他館への貸し出し等で展示されない場合があるのでご注意ください。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
《泉のそばの少女》(1887年)

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紆余曲折を経て培ったスタイル
ルノワールといえば、やわらかな光と色彩で人物を包み込むように描くスタイルが魅力。その魅力がよく表れているのが、この《泉のそばの少女》(1887年)です。光の中に浮かび上がる少女の肌、背景の緑との絶妙なコントラスト。絵の前に立つと、空気まで澄んで感じられるような一枚です。
この頃のルノワールは、ちょっとした“実験期”にありました。代表作《大水浴図》(1884〜87年)では輪郭をくっきり描く古典的な手法を取り入れ、それまでの印象派的なやわらかさとは一線を画す作風に挑戦。ただ、仲間のピサロからは「色彩の一体感が失われている」と辛口なコメントも。

《大水浴図》
そんなチャレンジを経て描かれたのが、この《泉のそばの少女》。輪郭線は再びやさしくなり、人物と背景が自然に溶け合う“らしい”表現が戻ってきています。しかし注目すべきは、その中に残る古典的な質感描写。肌や布、壺の重みや存在感は確実に増していて、ルノワールの表現が一段深まっているのがわかります。
印象派と古典主義、そのどちらにも偏らないこの作品には、ルノワールが試行錯誤を重ねながら、自分の理想の表現を探していた姿がにじんでいます。
エドガー・ドガ
《舞台の袖の踊り子》(1900~1905年頃)

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目が見えづらくなる中でも…
エドガー・ドガは、「踊り子の画家」として有名で、バレエをテーマにした作品をたくさん残しています。
でも、舞台で踊ってるシーンじゃなくて、練習中とか舞台袖ような、日常のちょっとした瞬間を切り取ったものが多い。
この《舞台の袖の踊り子》も、まさにそんなドガらしい視点が光る作品です。
この作品が描かれた頃、ドガは60代半ば。
目が見えづらくなっていく中で、それでも彼は絵を描き続けました。
さらに、当時フランスを騒がせた「ドレフュス事件」で反ユダヤ的な立場を取ったため、仲間たちとも距離ができてしまい、だんだん孤独になっていったんです。
そんな中で生まれたのが、この《舞台の袖の踊り子》。
実は、東京富士美術館にも同じ構図の作品があって、ドガが何度も同じ構図を試してたってことが分かります。
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《舞台の袖の踊り子》
つらい時でも貫いた芸術へのこだわり
なぜ何度も同じ構図を描き続けたのでしょう——
ドガはこんな言葉を残しています。
「10回でも100回でもやり直しなさい。芸術において、偶然に見えるものがあってはならない。動きでさえも、すべて計算されていなければならないのです。」
彼にとって芸術って、「ふとした閃き」ではなくて、じっくり観察して、繰り返し訓練して、全部計算し尽くしたものだったんです。
目が見えなくなっても、孤独になっても、ドガは自分のスタイルを変えませんでした。
この《舞台の袖の踊り子》を見ると、ドガの頑固なまでのこだわりと、静かな情熱が感じられます。
クロード・モネ
《ヴィトゥイユ、水びたしの草原》(1881年)

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苦しみの中で描かれた、静かな風景
クロード・モネといえば、「睡蓮」や「積みわら」など、光と色彩にあふれた風景画を思い浮かべる人が多いと思います。でも、その華やかな印象の裏には、苦しい時期も確かにありました。
この《ヴィトゥイユ、水びたしの草原》(1881年)は、まさにそんな時期に描かれた作品です。
モネはこの頃、セーヌ川沿いの小さな町ヴィトゥイユに身を寄せていました。頼りにしていたパトロンは破産し、その妻までモネの家に転がり込むなど、家計は火の車。さらに、最愛の妻カミーユが病に倒れ、やがて亡くなってしまいます。
経済的にも精神的にも追い込まれた中で、モネはそれでも筆を取り続けます。そして生まれたのがこの一枚。

《死の床のカミーユ》
色を抑えた静けさの中に、感情がにじむ
《ヴィトゥイユ、水びたしの草原》は、いつものモネの鮮やかな色づかいとは少し違います。
広がる草原はどこか冷たく、木々は裸で、空も鈍色。遠くに小さく町が見える構図は、静かというより寂しさを感じさせます。この寂しさはただの景色ではなく、モネ自身の内面が投影されているようにも見えますね。
“瞑想的”という言葉がふさわしいこの絵は、モネの苦悩の記録であり、それでも描くことで前に進もうとする意志の表れだったのかもしれません。
とはいえ、暗い時期はずっと続いたわけではありません。この作品を描いた翌年、モネはデュラン=リュエル画廊と契約を結び、ようやく経済的な安定を手にします。さらに1883年には、後に「睡蓮」を描くことになるジヴェルニーへと移住。
まるでこの一枚が、人生の冬を越え、春へ向かう途中に立っていたことを静かに伝えているようです。
フィンセント・ファン・ゴッホ
《サン・レミの道》(1889~1890年)

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静けさと熱、ゴッホの内面がにじむ一枚
この《サン・レミの道》(1889〜1890年)は、ゴッホがサン・レミの精神病院に入院していた時期に描かれた作品です。心身ともに不安定な状態の中でも、彼は筆を止めませんでした。むしろ、絵を描くことこそが、混乱した心をつなぎとめる手段だったのかもしれません。
この時期、ゴッホは名作《星月夜》や《糸杉》などを次々と描いています。《サン・レミの道》にも、そんな「サン・レミ期」の特徴がよく表れています。とにかく筆遣いが力強い。渦巻くようなタッチで、風景にエネルギーが宿っているように感じられます。
さらに注目したいのは、その鮮烈な色彩。サン・レミ滞在中の作品には、不透明色を混色した柔らかな色調の作品が多いのですが、この一枚では、まるで絵の具をチューブからそのまま絞って塗ったような、生の色がキャンバスにのっています。混ぜすぎず、塗り重ねすぎず、直感でぶつけたような色と筆が、生々しいまでの生命力を放っています。
不安と静寂、そして爆発しそうな感情。そのすべてが混ざり合って、この道はどこか現実離れした風景になっています。ゴッホの心の中をそのまま風景にしたら、きっとこんな感じだったんじゃないか、と思わせる作品です。
ゴッホの「サン・レミ」時代がもっと知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
▶ゴッホを解説!第4部「サン・レミ。オーヴェル時代」

高橋由一
《鮭図》(1879~1880年)

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日本洋画の原点、ここにあり
リアルすぎる鮭の絵で知られるこの《鮭図》(1879〜1880年)は、日本の洋画史において超重要な一枚。描いたのは、油彩画を本格的に日本に根づかせた先駆者・高橋由一です。
由一は1873年に「天絵社」という私塾を開き、毎月のように展覧会を開いては、自らも作品を出品していました。その活動は1891年まで続き、彼はこの間に150点以上の作品を残したとされています。《鮭図》は、そんな脂の乗った時期の一作。同じモチーフの作品は3点確認されていますが、笠間日動美術館に収蔵されているこの1枚が一番最後に描かれたとされています。
当時の日本の絵といえば、浮世絵のように平面的なスタイルが主流でした。そんな中で、由一が目指したのは「本物みたいな絵」。油絵具の透明感や重ね塗りの技法を駆使して、魚のぬめりや重みまで描き切っています。よく見ると、皮のテカリやヒレの質感まで、めちゃくちゃ細かい。
写実といえば写実だけど、それだけじゃない。日本人の目線で、油彩の可能性を追い詰めたようなストイックさがあります。近くで見ると「ただの魚の絵」じゃ済ませられない説得力。日本の洋画がここから始まったんだな、と思わせる一枚です。
五姓田義松(ごせいだ よしまつ)
《人形の着物》(1883年)

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サロンに挑んだ、もう一人の洋画パイオニア
日本洋画の草分けといえば、真っ先に名前があがるのは高橋由一かもしれません。でも実は、もう一人忘れてはいけない存在がいます。それが五姓田義松です。
幕末の武士の家に生まれた義松は、日本画家だった父・五姓田芳柳から絵を学び、早くから才能を開花させました。その後、横浜にいたイギリス人画家チャールズ・ワーグマンに師事。ワーグマンといえば、あの高橋由一も学んだ人物です。
やがて義松は、本場フランス・パリへと渡り、洋画を徹底的に学びます。
そして留学中に描かれたのが《人形の着物》(1883年)。この作品で、彼は日本人として初めてフランスのサロンに入選するという快挙を成し遂げました。
日本人の繊細さが息づく、気迫の一枚
義松は1889年に帰国しますが、その頃の日本では急激な西洋化に対する“国粋主義”が高まりつつあり、彼のように西洋の本場で学んだ画家が活躍できる場は、残念ながら多くありませんでした。
でも、この《人形の着物》を前にすると、そんな時代の逆風もどこかに吹き飛ばされるような感覚があります。
布の質感、光のやわらかさ、空気感まで描き出すような細やかな筆致。
まるでそこに本物の人形が立っているかのようなリアルさと同時に、どこか日本的な静けさ、芯の強さも感じさせます。
義松の目指したのは、ただの「真似」ではありませんでした。
写実の中に、日本人らしい感性をしっかりと込めながら、洋画という異文化に真正面から向き合ったその姿勢が、この作品には確かに刻まれています。
高橋由一だけじゃない。日本の洋画は、こうした知られざる挑戦者たちの努力と誇りによって、静かに根を張っていったのだと、改めて感じさせられる一枚です。
岸田 劉生(きしだ りゅうせい)
《自画像》(1913年10月)

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“肖像”を描き続けた画家
岸田劉生といえば「麗子像」の連作が思い浮かぶかもしれませんが、麗子が生まれる前には、自画像を多く描いていた時期がありました。
1912年、まだ20歳そこそこの若き劉生は、ポスト印象派、特にゴッホの影響を強く受け、色彩と筆触を強調した自画像を制作していました。当時、劉生は自画像に限らず、友人や知人をモデルに肖像画を描くことにも情熱を注ぎ、その姿勢は「岸田の首狩り」として知人の間で恐れられたという逸話もあります。
劉生はひたすら肖像画を描き続ける中で、次第にゴッホの影響から脱却し、写実的な画風へと変わっていきました。その頃の作品のひとつが本作《自画像》です。
若干の粗いタッチは残りますが、細かな明暗が自然に表現されています。この後、写実性を追求していく劉生の画風は細かくタッチを残さない古典的なものへ、その画風を変化させていきました。その過程で描かれた本作からは、写実性を追求する劉生の探求心と絵に対する情熱を垣間見ることができます。
ちなみに、笠間日動美術館にはこの作品のほかにも、劉生の肖像画や麗子像がいくつか収蔵されています。彼の画風の変化をたどってみるのも、きっと面白いはずです。
まとめ「静けさの中に、確かな熱を感じる場所」

笠間日動美術館は、ただ有名画家の作品を“並べているだけ”の場所ではありません。
印象派の華やかな光に隠れたモネの苦悩や、見えなくなっても描き続けたドガの執念。
そして、五姓田義松や高橋由一のように、西洋画をまだ誰も知らなかった時代に体当たりで挑んだ日本人たちの息遣い。
ここには、一枚一枚の背後に「描いた人の物語」が確かに存在しています。
そして、その物語を受け止める空間としての美術館のつくりもまた、静かで美しい。
館を結ぶ道すがら、竹林や彫刻庭園を歩く時間さえも、作品と向き合う余白になってくれるような、そんな場所です。
「見る」だけではなく、「感じる」ために訪れる価値がある。
笠間日動美術館は、そんな美術館です。
ぜひ訪れてみてくださいね!
笠間日動美術館の基本情報
所在: 茨城県笠間市笠間978−4
アクセス | JR笠間駅から徒歩25分、または市内循環バス「日動美術館入口」下車で徒歩3分。 その他のアクセス方法→笠間日動美術館HP |
料金 | 大人:1,300円(1,200円) 大学生:900円(700円) 中学生:300円(100円) 小学生:無料 ※団体割引(括弧内参照):20名以上から |
開館時間 | 9:30~17:00(入館は16:30まで) |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は開館し、その翌日が休館) 年末年始 |
美術館周辺のみどころ
大石邸跡

笠間日動美術館の企画展示館を出てすぐのところに、ちょっとした史跡があります。
それが「大石邸跡(おおいしていあと)」。あの『忠臣蔵』で有名な大石内蔵助良雄の曽祖父と祖父が、この地に住んでいたとされています。
実はこの場所、かつては笠間藩主の家老屋敷だったところで、東側には笠間城跡も残っています。当時の藩主・浅野長直が幕府の命令で赤穂藩に国替えになるまで、大石家は代々ここに住んでいたという歴史があるんです。
建物は現存していませんが、案内板とともにひっそりとした空間が残っていて、美術鑑賞のあとに少しだけ“江戸時代の気配”を感じられる、静かなスポットです。
作品の余韻を胸に、少し足を止めてみてはいかがでしょうか。
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