我々の人生が複雑なように画家の人生も複雑です。
特に画家ゴッホは、弟テオに送った手紙の中で自身の人生を事細かに語っており、その人生は一言では言い表せません。
しかし、「今日ゴッホ展に行くから、ゴッホについてザッと知っておきたい」とかいう場合がありますよね。
今回はゴッホの生涯について短くまとめてみました。10分ほどで読めますよ!
画家になるまで
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年、オランダのズンデルトに生まれました。彼は牧師の父テオドール゠ファン・ゴッホと母アンナ・コルネリア・カルベントゥスの間に生まれ、6人兄弟の長男でした。
幼少期から内向的な性格で、自然や農村の風景に強い愛着を持って育ちました。気難しいことで有名なゴッホですが、その性格は幼少期からだったようで、当時の家政婦はゴッホのことを「へそ曲がり」 「最も可愛げがなかった」と評しています。
家族は信仰心の深いプロテスタントの家庭で、厳格な宗教教育を受けながらも、母アンナからは水彩画を水彩画を教えてもらうなど芸術への感受性を育まれました。
青年になるとゴッホは、伯父の紹介でハーグにあるグーピル商会に就職します。美術品の売買に携わる中で芸術への興味を深めますが、仕事に対する熱意が実績に結びつかず、数年後に解雇されました。
挫折を経験したゴッホは宗教に傾倒し、伝道師として活動を目指します。心の救済を求める一方で、貧しい人々に奉仕することが自身の使命だと感じていました。神学校に進むも試験に失敗し、ベルギーの炭鉱地帯ボリナージュで宣教師として働き始めます。極貧の鉱山労働者たちと同じような生活を送りながら、無償で支援を行う姿勢は周囲から敬意を集めました。しかし、過度な自己犠牲が宗教当局からは行き過ぎと見なされ、最終的には職を失います。この出来事は、彼に深い精神的な傷を残し、後の芸術的探求へと向かわせる契機となりました。
失意の中、家族の支援を受けながら絵を描き始め、画家としての道を歩み始めます。弟テオとの書簡で励まされつつ、美術の基本を独学で習得し、絵画への情熱を燃やしました。
ポイント!
・ゴッホは子供のころから気難し屋だった
・その偏屈な性格のため美術商の仕事は数年で解雇される
・偏屈でも心根は優しかったゴッホは聖職者を目指すが、これもすぐに廃業してしまう
オランダ時代のゴッホ
ゴッホは故郷オランダへ戻り、本格的な画家への道を模索します。ハーグでは画家アントン・モーヴに師事し、基礎技術を学びました。初期作品は農民の生活や労働を題材にした重厚な絵が多く、代表作『じゃがいもを食べる人々』に結実します。彼は農民の質素な生活を真摯に描き、後年の作品と比べ暗い色調が特徴でした。
しかし、厳格な制作態度や孤立しがちな性格から、師のモーヴや地元の美術商たちとしばしば衝突。さらに、モデルへの報酬や制作費がかさみ、経済的に苦しい状況が続きました。それでも、家族、とりわけ弟テオの支援を受けながら制作に没頭します。
ポイント!
・初めのころのゴッホの絵はとても暗かった
パリ時代のゴッホ
1886年、ゴッホはパリに移り住み、弟テオと共同生活を始めます。パリでは印象派や新印象派の画家たちと出会い、芸術的な刺激を受けました。彼はエミール・ベルナール、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ポール・シニャックら印象派の画家たちと交流し、前衛的な作品に触れながら自らのスタイルを進化させます。
この時期のゴッホの作品には、明るい色彩と大胆な筆致が見られ、パリの街並み、静物画、肖像画など多彩な題材に挑みました。また、ゴッホは日本の浮世絵にも大きく影響を受けました。その構図と色彩に魅了され、浮世絵の模写を何点か制作しています。
ゴッホはさらなる明るさと色彩を求めパリを離れ、南仏へ向かいます。
ポイント!
・パリで印象派と浮世絵に出会う
・パリでゴッホの絵は明るくなっていく
アルル時代のゴッホ
ゴッホは1888年、南仏アルルへ移住しました。輝く太陽と自然に魅了され、豊かな色彩表現を追求していきます。彼は『ひまわり』や『夜のカフェテラス』、『ローヌ川の星月夜』など、後世に名を残す多くの作品をここで制作しました。
アルルでは「黄色い家」を借り、芸術家たちの共同生活を夢見て画家ポール・ゴーギャンを招きます。しかし、二人の性格の違いから激しい衝突が続き、ついにはゴッホが精神的に不安定になっていきました。彼の耳切り事件はこの時期の最も劇的な出来事として知られています。
その後、ゴッホは地元の精神病院に入院し、アルルでの生活は終わりを迎えます。しかし、この時期の作品は彼の芸術的な絶頂期として高く評価されています。
ポイント!
・アルルでゴッホの絵は色鮮やかになっていく
・ゴーギャンと同居するが、すぐに破局する
・ゴッホは精神が不安定となり入院する
サン・レミ時代から亡くなるまで
1889年、ゴッホはサン・レミの精神病院に自らの意思で入院します。病気に苦しみながらも、創作意欲は衰えず、『アイリス』や『糸杉』といった名作を生み出しました。ゴッホ作品の中でも有名な『星月夜』もこの時期に描かれました。この時期から渦を巻くよう表現が増えていきます。
発作と創作を繰り返す中で、次第に病状は悪化。1890年、彼はパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住み、医師ガシェの治療を受けながら、自然豊かな風景や村人たちを描き続けました。
発作も起きずオーヴェルでの生活は一見穏やかに過ぎていきましたが、弟テオの経済状況の悪化が次第にゴッホの心に影を落とし始めました。テオは結婚し、家族が増えたことで経済的な負担が増加していました。ゴッホは自分の存在が弟の生活を圧迫していると感じ、精神的な重圧に苛まれていきます。
1890年7月、ゴッホは胸に傷を負って宿に戻ってきました。その傷は銃創であり、ゴッホは自ら自身の胸を拳銃で撃ったことを認めます。すぐさま弟テオがオーヴェルに駆け付けましたが、二日後にゴッホは息を引き取りました。
37歳という若さで世を去った彼の人生は、困難に満ちており、ゴッホの生前には彼の作品はあまり評価されませんでした。しかし、彼の死後、その遺した作品群に多くの画家が魅了され、フォービズムや表現主義の画家たちに多大な影響を与え、大衆からも大きく支持を得るようになりました。その作品たちは世界中の美術館に収蔵され、現在においても多くの人々から愛されています。
ポイント!
・サン・レミ時代から渦を巻くような描き方が現れるようになる
・オーヴェルにて自死したとされる
・ゴッホの作品は生前に評価されなかった
終わりに
ゴッホの生涯を短くまとめてみましたがいかがだったでしょうか?
ゴッホについて4編に分けて詳しく解説する記事もありますのでよろしければ覗いていってください。
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