
「ジャガイモを食べる人々」1885年
この絵は、フィンセント・ファン・ゴッホによる「ジャガイモを食べる人々」という作品です。
ゴッホと言えば明るく色鮮やかな絵を思い浮かべますが、「ジャガイモを食べる人々」のような暗い絵を描いたというのはあまり知られていません。
ゴッホは「ひまわり」や「夜のカフェ・テラス」などの色鮮やかな作品を描いた一方、何故このような暗い絵を描いたのでしょうか?
今回は、ゴッホが「ジャガイモを食べる人々」の解説と制作に至った経緯を解説していきます。

「ジャガイモを食べる人々」を描くまで

「グーピル商会」に入社
そもそもゴッホは、幼いころから画家を目指していたわけではありません。青年になると一般的な人々と同様に、会社に入ってい働いていたのです。
1869年、16歳のゴッホは叔父の紹介で「グーピル商会」という画廊に入社します。まじめに働くゴッホでしたが、商業主義的な会社の方針に疑問を抱くようになり、それと同時に宗教に興味を示すようになりました。宗教に熱心になっていくゴッホは次第に働く意欲をなくしていき、最終的にはグーピル商会から解雇されてしまいます。

聖職者を目指す
宗教への熱意が燃え続けていたゴッホが次に目指したものは、聖職者でした。家族の反対を押し切り、炭鉱のある貧しい村で伝道師として活動を始めます。地元の伝道委員会より許可を得て活動を行っていましたが、給料を全て村人に渡したり、ボロ切れを着て(その姿は貧しい村人以下だったといわれています)伝道活動を行うゴッホの姿は、委員会の人間には異常にしか見えませんでした。
最終的に、伝道活動の許可は剥奪され、ゴッホの聖職者への夢は潰えてしまいました。

画家になる
ゴッホは挫折に打ちひしがれますが、絵を描くことに希望を見出すようになります。
そこでゴッホの意思に大きな影響を与えたのは、バルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーでした。ミレーは農民たちが働く姿をそのままに描いたことで知られています。聖職者にはなれなかったゴッホですが、ミレーのように労働者を描くことで人々の役に立つことができると考えました。

「ジャガイモを食べる人々」の制作
画商の弟テオの援助を受けながら農民や労働者の絵を描き続けました。画家になってから5年が経過した頃、ゴッホはその集大成として大掛かりな作品に挑戦します。
まず、ゴッホは近所の農家に入り込んで、農婦の肖像や習作、スケッチを制作していきました。

「『ジャガイモを食べる人々』の習作」1885年

「フォークを持つ二つの手の素描」1885年3月
こうして完成したのが「ジャガイモを食べる人々」です。
ゴッホはその出来栄えに非常に満足し、自信を持って画商の弟テオのもとに「ジャガイモを食べる人々」を送りました。その際、テオへの手紙に次のように記しています。
「僕は、ランプの光の下で馬鈴薯(ジャガイモのこと)を食べているこれらの人たちが、今皿に伸ばしているその手で土を掘ったのだということを強調しようと努めたのだ。だから、この絵は『手の労働』を語っているのであり、いかに彼らが正直に自分たちの糧を稼いだかを語っているのだ」
フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷、1161頁より
ゴッホは、農民たちの生活を美化することなく、ありのままに描きました。そこには華美な装飾や色彩は存在しませんが、実際の農家の生活の中で描かれたリアルさがあります。


周囲の反応
弟テオの評価
画廊で働いていたテオは、当時流行りつつあった印象派を推していました。印象派は明るく鮮やかな色を特徴としおり、テオはゴッホにも印象派のような明るい絵を描くよう以前から忠告していました。
しかし、「ジャガイモを食べる人々」を見たテオは落胆してしまいます。その画風は相変わらず、色鮮やかさや明るさからは程遠いものでした。
テオは、周囲の人間の数人に見せたのみで、「ジャガイモを食べる人々」を公に展示することはありませんでした。それはテオ自身が「ジャガイモを食べる人々」に良い印象を持っていなかったからに他なりません。

親友ラッパルトの評価
ゴッホは親友の画家アントン・ラッパルトにも、リトグラフの「ジャガイモを食べる人々」を送りました。しかし、ラッパルトはこれに対して、「こんなのをマジで描いたの?男の人の膝はどうなってんのさ。珈琲を注ぐ女性の鼻はどうしちゃったんだ、パイプが引っ付いてるじゃないか。」などと辛辣な評価を下しました。
これに対して激怒したゴッホは、ラッパルトとの縁を切ってしまいます。

結局「ジャガイモを食べる人々」は売れるどころか展覧会に出展されることなく、テオのアパートの部屋に飾られたままとなります。
幻の「ジャガイモを食べる人々」新バージョン
それから時は過ぎ、ゴッホの画風は次第に明るく色鮮やかになっていきます。
アルルでは「夜のカフェ・テラス」や「ひまわり」を、サン・レミでは「糸杉」「星月夜」を描きました。現在、これらの作品はゴッホ作品を代表する名作とされ人々に愛されています。

しかしその一方で、ゴッホの心には「ジャガイモを食べる人々」が残り続けていました。画風は変わってもゴッホの中で「ジャガイモを食べる人々は」名作として輝いていたのです。
ゴッホは妹のウィルに次のような手紙を送っています。
「僕自身の仕事については『ヌエネンで描いた馬鈴薯を食べる人たちの絵は結局最上のものだ』と思っている。」
フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷、1914頁
そして、ゴッホは「ジャガイモを食べる人々」をもう一度描くことを決意します。ゴッホの中で、今の自分ならもっと良く描くことができるという確信がありました。
ゴッホはテオの手紙の中で次のように述べています。
「僕の昔のデッサンで人物を描いたものを送ってください。ランプの光りの下で「夕食をしている百姓」のあの油絵(※ジャガイモを食べる人々のこと)を描き直してみようと思っているのだ。〔……〕君がまだあの絵を持っているようなら、今なら記憶であれよりも良いものが作れると思う。」
フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1727頁
しかし、「ジャガイモを食べる人々」の新バージョンは完成することはなく、その前にゴッホは亡くなってしまいました。それでも、その制作を示すスケッチが数点残っており、ゴッホの意気込みをうかがい知ることができます。
もし作品が完成していたらどのような絵になっていたのでしょうか?想像することしかできませんが、きっと「ひまわり」に並ぶ名作になっていたことでしょう。


まとめ
ゴッホの初期作品が暗くなった経緯
ゴッホは貧しい人たちを助けるために伝道師になろうとしたが挫折した。
↓
画家になってその使命を果たそうとする。
↓
ミレーのように、労働者の姿をありのままに描きたい。
↓
質素な生活を描くことに華やかさや優美さは不要。
↓
画面は必然的に暗く色のくすんだものになっていった。
暗い色調はミレーの影響が強いことがポイントです。また、絵を始めた際にアントン・モーヴというハーグ派の画家に師事したことも影響していると考えられます。

「ジャガイモを食べる人々」の解説

「ジャガイモを食べる人々」1885年
「ジャガイモを食べる人々」では、夕暮れの家で一つの明かりを頼りに、農家の家族が食事の席に着く様子が描かれています。部屋の中は質素で狭く、この家族は身を寄せ合いながら食事をする必要があったことがわかります。また、家族の着物は使い古した作業着や、その日に焼けた肌、ゴツゴツとした手の造形は過酷な農作業を物語っています。
しかし、この家族は不幸なようには見えません。質素ながら温かな食事を楽しむ穏やかなひとときが描かれており、そこには農民に対するゴッホの尊敬と愛情の眼差しが見て取れます。
この作品を描いた後、ゴッホはパリへ移り、印象派や浮世絵の影響を受けて、その画風は明るく色鮮やかになっていきます。しかしその中においてもゴッホは「ジャガイモを食べる人々」の出来栄えについて、傑作であるという自身の評価を覆すことはありませんでした。彼は最晩年に「ジャガイモを食べる人々」の再現を計画し、テオに作品をオーヴェルに送るよう伝えています。しかし、その前にゴッホは亡くなってしまい、「ジャガイモを食べる人々」の再現には至りませんでした。
「ジャガイモを食べる人々」は「ひまわり」や「夜のカフェ・テラス」のような華やかさはみられず、ゴッホ作品の中でも決して認知度が高いとは言えません。しかし、この作品にはゴッホが画家を志した動機や理念が込められており、彼の創作意欲の源となった貴重な作品と言えるでしょう。

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