第3部からの続きです。
前回のおさらい
アルルの黄色い家でゴーギャンと生活を共にしたゴッホでしたが、不和によりその共同生活は2か月で終わってしまいます。ゴーギャンとの破局により精神状態が不安定になったゴッホは自身の耳を切り落としアルル市立病院に入院しますが、この頃から発作が定期的にゴッホを襲うようになりました。
黄色い家に帰れなくなったゴッホはサン・レミの精神病院に入院することを決心します。
サン・レミへ
サン・ポール・ド・モゾール精神病院
かつてゴッホが画家になる以前、その激しい性格ゆえに、父ドルスから精神病院への入院を勧められましたが、彼はそれに対して激しく抵抗しました。しかし、アルルでの耳切り事件後に発作を繰り返すようになると、ゴッホ自身も病気を認め、治療の必要性を感じるようになります。独り暮らしが困難であると悟った彼は、1889年5月8日(36歳)、自らの意思でサン・レミのサン・ポール・ド・モゾール精神病院に入院しました。
入院前、テオは「そんな施設の中の生活が快適なわけがない」とゴッホを案じていました。しかし、実際に入院してみると、ゴッホは精神病院での生活がそれほど悪くないと感じたようです。入院直後の手紙で彼はこう記しています。
「こちらに来てよかったと思っていることを、君に伝えておきたい。〔……〕狂人や様々な痴人の生活を現実にみると、わけのわからぬ心配や恐れはなくなってしまう。そして次第に狂気も他の病気と同様一つの病気なのだと考えられるようになってくる。この環境の変化は思うに僕には良い効目があると思う。」1
また、テオの妻ヨハンナからの心温まる手紙も、ゴッホを元気付けました。テオが結婚したことで「見捨てられる」と感じていたゴッホでしたが、ヨハンナとの手紙のやり取りを通じて、その不安は少しずつ和らいでいきます。ゴッホはヨハンナの気遣いに感謝し、またテオに経済的な負担をかけていることを詫びました。
「働いて自活できるようになれば、非常にうれしいだろうと思います。実際あんなに絵やデッサンを描いたのに、全然売れないのだと思うと、そのことが大変苦になるからです。どうかあまり性急に僕の非を咎めないで下さい。実際どうしていいのか僕にはわからないのです。」2
発作もなく穏やかに暮らしていたゴッホは、病院の庭でアイリスの花を見つけ、その美しさに惹かれて油彩画(上図)を描きました。アウトラインで強調されたアイリスの花の青は、ピンクの地面や緑の葉と調和し、非常に印象深い作品に仕上がりました。また、アイリスの茎が真っすぐ伸びる様子を真横から描いた構図からは、ゴッホがしゃがんで花の間を覗き込みながら描いたことが想像されます。花びらのディテールまで丁寧に描かれており、彼がこのアイリスにどれほど興味と愛着を抱いていたかが伝わってきます。
これまで、印象派の外光や浮世絵、ゴーギャンやベルナールのクロワゾニスムなど、様々な外的な刺激の中で自らの芸術観を育んできたゴッホでしたが、サン・レミの精神病院の世間から隔絶された環境において、彼は新たな思索を深めるようになります。そして、最終的にゴッホはエジプト美術が持つようなプリミティブ・アートに関心を寄せるようになりました。
「エジプトの芸術家は或る信仰を持ち、感情と本能に従って仕事をしながら——親切さとか、底のしれない忍耐とか、知恵とか、明朗さとか——そういう捕捉しがたいものを、鋭利な数本の曲線と見事な比例によって表現しているのだ。こういうことを改めていうのは、描かれたものと描き方が一致するとき、ものは格調と耐久力を持つという事を重ねていうためだ。」3
その結果、ゴッホは色彩だけでなく、筆触や線の形態にまで絵画の本質を求めるようになったのです。そして彼は、その新しい表現に最適な題材を見つけます。それは「糸杉」でした。
糸杉
「糸杉のことがしょっちゅう頭にあるが、何とか向日葵の絵のような作品にしたいものだ。というのも、僕が見ているように描いた人がいないのが不思議に思えるからだ。線といい、比例といい美しく、エジプトのオダリスクのようだ。」4
ゴッホは、糸杉の緑の美しさや色の濃さ、そして風景の中で「黒い斑点」として際立つ存在感に魅了され、これを新たな画題に選びました。そして、素描や油彩画をいくつも描き上げていきます。上図の「糸杉」もそのひとつで、これはゴッホが病院外へ出る許可を得た直後に描かれた作品とされています。明るい風景に対して暗めの緑で描かれた糸杉は、うねるようなタッチで表現され、その細かな渦巻く様子が丁寧に描かれています。
ゴッホが言う「比例(比率)」とは、おそらく糸杉の葉の渦巻きが集合して木全体を形作るバランスを指しているのでしょう。葉が不規則に絡み合いながらも、全体として一本の木として立ち上がる様子に、自然の中の規則性を見出しているかのようです。背景もそれに呼応するように渦を巻くタッチで描かれており、ゴッホが筆触を非常に意識して描いたことが見て取れます。
西洋で糸杉は死や喪の象徴とされており、ゴッホは糸杉に死や絶望を比喩させたという説がありますが、手紙の中でゴッホは糸杉をネガティブにとらえている様子はありません。それどころか、ゴッホは「緑が格別すばらしい」「これらの木は非常に高く、どっしりしている」と糸杉の生き生きとした印象をテオに報告しています。ゴッホにとって糸杉は力強さの象徴であり、病気と闘うためのシンボルだったのかもしれません。
星月夜
ゴッホの代表作のひとつである「星月夜」もこの時期に完成しました。アルルでは夜間でも実地で制作していたゴッホですが、サン・レミでは病院により夜間の外出が禁じられていました。また、絵具を寝室に持ち込むことも禁じられていたため、彼は窓から見える星空を素描し、それをもとに昼間に絵具を使って「星月夜」を仕上げたとされています。とても魅力的な眺めだったのでしょう。ゴッホは時に、夜明け前から空を眺め続け、その光景を観察しました。
「今朝僕は日の出前に窓から長い間野原を眺めたが、夜明けの星があるばかり、それがとても大きいように思われた。」5
「星月夜」は、精神病院のゴッホの寝室の窓から東方向に見た風景を描いたもので、遠景にはアルピーユ山脈が描かれています。彼は広大な夜空を強調するために、実際には見えない街並みを絵の中に描き込みました。この街は病院の北に位置するサン・レミがモデルとされ、サン・マルタン教会の尖塔が特徴的に描かれています。「糸杉」では主に糸杉の葉のうねりが強調されましたが、「星月夜」では空のうねりが筆触により表現されています。
しかし、この渦巻く空の表現は何を表しているのでしょうか。雲にしては抽象的であり、夜明けの様子とも異なります。ゴッホ自身は、このうねりについて明確な言及をしていませんが、ベルナールへの手紙にて「星月夜」について以下のように述べています。
「ゴーガンがアルルにいた頃、君も知っている通り、一、二度僕は構わず抽象をやってみた。〔……〕その時は抽象が魅力のある方向に見えた。だが、これは魔法に掛けられた土地なのだよ、きみ。忽ち壁につき当たってしまう。〔……〕またもや僕はあまりにも大きすぎる星を思わずつかもうとしてしまう——そして新たな失敗——もうたくさんだよ。」6
ゴッホは「糸杉」で試みた筆触を、抽象的・表現主義的な手法として「星月夜」の中でさらに発展させようとしたのです。しかし、ベルナールへの手紙の中では「星月夜」は失敗作のように述べられています。これは「星月夜」に対するテオの評価が芳しくなかったことに起因すると考えられます。テオの「星月夜」に対する評価は以下の通りです。
「君が月夜の村とか山のような最近の絵で何に心を惹かれているかが僕には全くよくわかる。しかし何か様式を探求することは事物の本当の感じを損なってしまうと思う。」7
テオは、スタイルを追求しすぎることで絵の本来の雰囲気を損なっていると批判しました。これに対し、ゴッホは「星月夜」を手紙の中で擁護しますが、この表現方法にまだ自信を持てていないことも伺えます。「星月夜」はゴッホにとって、筆触を表現主義的な手法で試みた意欲的な作品でしたが、彼はその秋のアンデパンダン展や、1890年に招かれたブリュッセルのグループ展「20人展」に「星月夜」を出展しませんでした。現在ではゴッホ作品の中で屈指の人気を誇る「星月夜」ですが、当時のゴッホ本人にとっても、いささか前衛的に過ぎた作品だったのかもしれません。
「前便で君は往々様式を求める余り他のところに狂いが出来るといっているが、僕はまあいってみれば様式の追求の点では随分進歩したと感じている。もっともそういう意味は一層男性的な、一層意志的なデッサンになったということだ。〔……〕大きな線で素描した習作はまだまだ本物じゃないという事は充分承知だが、それでも風景画の場合、雑然としたものの集合体を一つのデッサンで表そうとする方法によって、今後も事物を凝縮する努力を続けてゆくんだということをどうか是非信じてもらいたい。」8
発作再発
サン・レミの精神病院で順調に創作活動に打ち込んでいたゴッホは、発作について「再発することはまずあるまい」と楽観的に考えていました。しかし、一方で彼は発作の前兆を感じ取っていたようです。6月初旬、看視員を伴ってサン・レミの街まで遠出した際、彼は「失神しそうになった」と述べています。
「外に行って仕事を始める勇気が僕にはどうもない。一度、それも人に連れられ、村へ行ったことがあったが、人間や当たりのものを見るだけで、今にも失神しそうな感じがして、ひどく調子が悪かった。〔……〕ともあれ、こういうことを言うのは、僕の内部には何かしら強烈すぎる感情の昂奮があって、そいつのおかげでこちらはくたくたになるのだが、何がそんな風にさせるのか僕にはわからないからだ。」9
このことを看視員や医師が把握していなかったのか、または重大にとらえていなかったのかは不明ですが、7月初旬、ゴッホはアルルへの外出を許可されました。アルルに残してきた作品や家具を取りに行くためです。この外出時には特に何も起こりませんでしたが、数日後にゴッホは発作を起こしてしまいました。
前回の発作は1~2週間で治まりましたが、今回の発作は7月中旬から8月下旬まで1カ月以上続き、その間、ゴッホは絵を描くことも手紙を書くこともできませんでした。発作中のゴッホは錯乱し、灯油を飲んだり、チューブ絵具を食べたりする行動をとっています。院長のペロンはこれを自殺行為と見なし、ゴッホのアトリエへの立ち入りを一時的に禁止しました。8月下旬になってようやく発作が落ち着き、ゴッホは心配するテオに手紙を書きましたが、尖ったものを所持することが禁じられていたため、その手紙は黒いチョークで書かれています。
「もう二度と起こるまいと思いかけていた発作がまたぶり返したので、僕は深く心を悩ましている。〔……〕この何日間か、僕はアルルにいた時と同じように完全に気がふれていた。以前より悪いといわぬまでも同程度にひどかった。それにああいう発作がまた続いていぶり返さぬとも限らぬと考えられることは、実に気の滅入る話だ。」10
麦と死の影
発作後しばらくしてアトリエでの制作が許可されたゴッホは、「刈り人のいる麦畑」に取りかかりました。この作品はあまり知られていないかもしれませんが、同構図のものが短期間のうちに3点描かれており、ゴッホにとって重要な意味を持つ作品です。
1889年6月に描かれたクレラー・ミュラー版の「刈り人のいる麦畑」は、発作前に描き始められたものです。この頃、ゴッホはこの作品について「これまでの絵のなかで一番明るいもの」と称しています。しかし、発作後に描かれた同じモチーフの作品には、明らかに異なる心情が反映されていました。以下は彼が発作後にテオに送った手紙の一節です。
「僕はこの草を刈る(刈り人)の中に——炎熱のもと仕事をやり遂げようと悪鬼の様に闘っている朦朧とした人物の中に——人間は彼が刈る麦みたいなものだという意味で、また死の影をみたのだ。」11
この言葉からは、発作によってゴッホの内面的な視点が大きく変化したことがわかります。麦畑の風景は、もはや単なる自然の描写ではなく、ゴッホ自身の死生観や運命を象徴するものとなったのです。
また、ゴッホは、人間の運命と自然を重ねて考えるようになっていました。彼は妹のウィレミーンへの手紙の中で、麦の成長と人間の人生を重ね合わせ、次のように語っています。
「麦の一生は僕ら自身の生涯のようなものだ。なぜなら僕らは麦を食って生きているのだから、体の相当部分は麦であり、たとえ想像ではどうなりたかろうとどのみち、僕らは植物のように動けず成長し、麦のように成熟すれば刈り取られる運命に従うほかはないのではないか。」12
ここでは、自然の一部として生き、最終的に自然に還るという運命を淡々と受け入れているゴッホの視点が表れています。しかし、この視点は単なる悲観ではありません。ゴッホは、刈り取られる運命の中に、ある種の美しさや安らぎを見出そうとしていたのです。
「これは(「刈り人のいる麦畑」のこと)は君の手元に保存してもらえる絵になるだろうと思う。これは自然という偉大な書物※1が我々に語ってくれる死の影だが、僕が努めて出そうとしたのは、『殆んど微笑を浮かべている』※2その姿だ。」13
※1:”book of nature” の意味。自然界そのものに真理が記されているという考え方。
※2:フランスの作家テオフィル・シルベストルはウジューヌ・ドラクロワの死について同様の表現をしており、ゴッホはかつてラッパルトとの手紙のやり取りの中で、その記事について言及している。
ゴッホは自然の営みの中で、人間の運命もまた穏やかに受け入れるべきものであると考えました。この「殆んど微笑を浮かべている」死のイメージは、彼の作品に込められた哲学を端的に表現しています。
さらにゴッホは、自身の自然への愛情と、テオが家族に対して持つ愛情を重ね合わせて考えていました。テオへの手紙の中で、彼は次のように述べています。
「一度希望が持てだすと、どんなことを僕が望んでいるかわかるかね。それはつまり君にとって家族に当たるものが僕にとっては自然であり、土塊であり、草や黄色い小麦や百姓であること、言い換えれば君は人々に対する愛の中に〈単に仕事の張り合い〉ばかりでなく、必要な時には君を慰め、君の元気を回復させるものを見出しているという事だ。」14
ゴッホにとって自然は、家族のように彼を慰め、心の安らぎを与える存在でした。したがって、死や発作といった辛い出来事も、自然の営みの一部である以上、受け入れなければならないと感じるようになったのです。「刈り人のいる麦畑」の制作の中で、自身の在り方を悟ったゴッホは病気との向き合い方を見直していきました。
彼はまず、発作の周期を観察し、次の発作がいつ来るか予測しました。「クリスマスのころに発作が再発するかどうかがはっきりする〔……〕恐らく冬には、すなわち三月後には新しい発作が起こりそうな気がする」15
同時に、病院生活が発作の原因となっている可能性についても言及し、いずれサン・レミの病院を退院する意向をテオに伝えたのです。
アンデパンダン展・二十人展での評価、成功の兆し
1889年の秋、パリで開かれたアンデパンダン展(無審査・自由出品の美術展)に、ゴッホはサン・レミで描いた「アイリス」とアルルで描いた「ローヌ川の星月夜」を、弟テオを通じて出品しました。これらの作品は、スーラやシニャック、ロートレックといった著名な画家たちの作品とともに展示され、好評を博しました。テオは、その様子をゴッホに次のように報告しています。
「『鳶尾(アイリス)』の絵は大勢の人が見てくれて、ここしばらく会うたびにその人たちが感想を聞かせてくれる。」16
また、1890年1月には、ゴッホはベルギーの「二十人展(Les XX)」にも招かれ、「向日葵」や「赤い葡萄畑」を含む6点を出品しました。この展覧会は、ベルギーの前衛芸術家たちによるもので、毎回国内外から芸術家が招待されていました。ゴッホの作品は、シャヴァンヌやセザンヌ、シニャック、ピサロ、ルノワール、シスレー、ロートレックとともに展示され、ここでも好評を得ました。さらに、「赤い葡萄畑」は400フランで売れ、ゴッホにとって初めて作品が売れた瞬間でした。母アンナへの手紙では「その価格は、他の作家に比べて安すぎる」と照れ隠しをしていますが、内心は大きな喜びを感じていたに違いありません。
加えて、1889年8月には、オランダの美術雑誌『De Portefeuille』でゴッホの紹介記事が掲載されました。著者であるテオの友人ジョゼフ・イサークソンは、パリ万博で展示されたオランダ美術を「工場でつくられた製造品」と批判した上、ゴッホについては以下のように好意的な評価を述べています。
「唯一の開拓者であり、彼は大いなる闇の中でただ一人奮闘している。その名はフィンセント、後世に語り継がれるだろう。」
イサークソンはこの記事にて今後、ゴッホについてさらに詳しく書くつもりであると注釈しています。しかし、ゴッホ本人はこの記事に感謝しつつも、自身については「ほんの数語しか触れられぬようお願いしておきます。」と大きく取り上げられることについては辞退しました。その理由についてゴッホは「僕が決して大したことをしていないのは、絶対確実なことであるからです。」17と述べています。
フランスの文芸誌『メルキュール・ド・フランス』でも、美術評論家アルベール・オーリエによってゴッホの作品が高く評価されました。以下はその論文の一部を抜粋したものです。
「彼の作品全体を特徴づけるのは、その強さ……神経の高まり、表現の激しさだ。物事の性格を断固として主張する姿勢、形の大胆な単純化、太陽に正面から立ち向かうという無礼さ、描線と色彩の熱烈な情熱、さらには技法の最も細かな部分に至るまで、力強い人物像が浮かび上がってくる……それは、男性的で、大胆で、時には非常に荒々しい……それでいて、時には驚くほど繊細である……。」18
ゴッホはこの批評に対して感謝を示しつつも「あの評論の中で見る私の作品は実際以上によく、実際以上に豊かで、意味深いものになっています。」と謙遜しています。そして、「結局、私が演じている役割、或いは今後演じるであろう役割は、絶対、二次的なものであろうと思う」19とも語りました。
他者からの評価を願ってやまなかったゴッホでしたが、評論家の評価がやや過剰すぎて違和感を感じたようです。他者からの過剰な期待は、自身が描くべき真実を歪める可能性があると考えた彼は、たとえ肯定的な批評であっても舞い上がることなく、冷静に受け止めようとしたのでした。テオの手紙では、次のように述べています。
「オーリエのあの論文を読んでついいい調子になっていると、妙に力づけられて、ますます現実から離れ、ちょうどモンティセリの或る種の絵のように、トーンの音楽の様な色彩でものを描く危険をおかしてしまう。しかしぼくにとっては、真実であること、〈真実であろうとすること〉もまた実に大切なことなのだ。とまれ結局、僕は——色彩の音楽家であるよりはやはり靴屋であることを選ぶだろうと思う。」20
1890年3月、パリで開かれたアンデパンダン展にて、ゴッホの作品10点がテオによって出品されました。ここでもゴッホの作品は高く評価され、モネは「展覧会の中で最高のものだ」と絶賛しました。また、かつてアルルで共に生活したゴーギャンもこの展覧会を訪れ、ゴッホの「渓谷」と自分の作品を交換したいと申し出ました。その中で、ゴーギャンもゴッホの作品を強く評価し、アンデパンダン展における「最も注目すべき存在」であると認めました。ゴーギャンの手紙の一部を以下に引用します。
「あなたの仕事を、まず弟さんのところで、そしてアンデパンダン展で注意深く眺めました。心から賛辞を呈します。展覧会では、数多い画家のなかであなたは最も注目すべき存在です。あなたの好きな作品と交換してもらいたい絵があります。それは山の景で、二人の小さな旅人が未知を求めて上ってゆく図です。あの絵のはとても暗示に富む色彩によるドラクロワ風の感動が見られます。あちこちに光明のような赤の色調があり、全体は紫の色調の中にある。美しく、かつ壮大だ。この絵について私はオーリエ、ベルナール、その他、多くの者と語り合った。」21
ゴッホを評価する声は次第に高まり、彼が夢見た画家としての成功は目前に迫っていました。テオはとても喜び、このことを手紙でサン・レミに報告します。しかし、ゴッホからの返事はありませんでした。
ゴッホは再び発作に悩まされていたのです。
発作との闘い
1889年12月、ゴッホがアルルの黄色い家で発作を起こしてから、ちょうど1年が経とうとしていました。クリスマス前、ゴッホは妹ウィルに心の内を語ります。
「僕があの発作を起こしたのは丁度一年前だ〔……〕また再発しはしないかと心配にならぬでもない。あれ以来潜在的にそういう感じが頭に残っている訳だ」22
クリスマスが近づくにつれ、ゴッホは再び発作が起こるのではないかという不安に駆られました。また一方で、クリスマスの回想は故郷ズンデルトでの、家族団らんの日々を想起させました。しかし現在、自身は病院内で孤独に過ごしており、いつ起きるか分からない発作に怯える日々を過ごしています。かつてヌエネンで父ドルスを死に追いやり、家族の団らんを破壊してしまったのは自身であること。クリスマスを前に、その孤独感、不安感からゴッホは家族に対する過去の過ちを思い出さずにはいられませんでした。ゴッホはクリスマス前に手紙を母アンナ宛に送っています。
「僕の病は結局は自業自得なのですから、昔を振り返って臍(ほぞ)をかむ思いがしますが、またその度に何とかして己の過失を償うすべはないものかと考えます。しかし時々、そういう事を考えたり思ったりすることがとても辛くなって、以前に比べ、そういう感情にすぐ押し潰されてしまうのです。〔……〕あなたとお父さんは、何とかして他の兄弟よりも私に目を掛けてやろうとなさいました。それだのに私はどうもよくない性格に生まれついたのだと思います。」23
後悔や不安が募る中、1889年12月、奇しくも一年前と同じクリスマスの日にゴッホは再び発作を起こしました。この発作は1週間程度で治まりましたが、1890年1月末には再び発作が襲い、ペロン医師はテオに「一切の仕事(制作活動)ができず、何を訊かれても支離滅裂な答しかできない状況」だと報告しています。
さらに、2月下旬、ゴッホは外出中のアルルで再度発作に見舞われました。彼は2月の中旬までにゴーギャンが残していった素描を基にアルルのカフェ・ド・ラ・ガールのジヌー夫人の肖像画を完成させていました。それをジヌー夫人の元へ届ける途上に発作が起こったのです。発作が繰り返しているにもかかわらず外出を決行した理由として、ゴッホが退院を急いでひどく焦っていたことがあげられます。外出の3日前、ゴッホは妹ウィルにこう書いています。
「明日か明後日僕は試験のつもりでまたアルルに旅行して、発作をぶり返さずに旅行の緊張や人並みの生活に耐えうるかどうかあたってみるはずだ。おそらく僕の場合は頭が弱ってもいいと考えないように覚悟を決めることが必要だ。〔……〕あの論文(メルキュール・ド・フランスでのオーリエの批評)を読んだとき、僕は本当はあのようでなければいけないのにこんな力が足りぬ、そう思ってほとんど暗澹(あんたん)とした。」24
ゴッホは、病を克服するには病院外で、特に人々が普通に暮らす中で自らを試すことが必要だと考えていました。また、オーリエの理想像に近づこうと自身を追い込んでいたことが手紙からも読み取れます。
看視員が同行していなかったため、発作がどのようにして発生したのかは分かりませんが、アルルで朦朧状態で発見されたゴッホは、通報により緊急派遣された病院職員によって、馬車でサン・レミに連れ戻されました。
ペロン医師は、今回の発作も「数日もすれば、彼は以前と同様に正気に戻るでしょう」と楽観的な見方を示しましたが、それは誤りでした。この発作は約2か月続き、これまでで最も長いものとなったのです。
退院
ゴッホが発作から回復したのは1890年4月の下旬のことでした。
彼はテオとの手紙のやり取りを再開しましたが、状態は万全ではなく、時折「気が鬱ぐ」ために手紙を読むことすら困難な状態が続きました。オーリエの批評も精神的負担となっていたようで、「オーリエ氏にもう僕の画について批評を書かないように頼んでください。〔……〕絵を描くことは気を晴らすが、描いた絵について言われるのを聞くと、彼が思いも及ばぬ苦痛を僕は感じるのだ。」25とテオに訴えています。
それでもゴッホは、これ以上病院に居続けることについては強く否定しました。
「僕はどうしてよいか、どう考えてよいかわからない。しかしこの家を是非出たいと思っている。そうなっても君は驚くまい。僕はそれ以上君にこのことは言う必要が無い。〔……〕そうだ、ここから出なければならないのだ。」26
ゴッホは「退院して北仏へ行けば、病気は治る」と主張しました。テオは彼の退院に反対はしませんでしたが、退院は「僕が決めるわけにはゆかない」と述べ、ペロン医師の助言を踏まえて、ゴッホ自身が決断すべきだと語っています。さらに、ゴッホの楽観的な考えを見抜いたテオは、「北仏の生活についてはあまり多くの夢を抱かぬことだ。」と忠告し、「絵なんて一般大衆にとって珍紛漢紛なものだ。」「君が芸術で頭がいっぱいになっている限りは、君を理解してくれる人はほんの僅かしか見あたるまい。大方の人にとっては芸術はラテン語みたいなものだ。」27と述べ、移住先の人間がサン・レミの病院のように協力的であるとは限らないと警告しました。
それでもゴッホの意思は固く、退院への決意は揺るぎませんでした。最終的に、テオからペロン医師へ「これはという危険が無い限り」ゴッホの思い通りにさせてほしいとの手紙が送られ、ペロン医師は退院を許可しました。1890年5月16日にペロン医師が作成した報告には、ゴッホの入院中の様子が記されています。
「入院中この患者はほとんど静穏だったが、数度発作に襲われ、それが二週間ないし一カ月続いた。発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識鮮明であり、熱心に画業に没頭していた。本日、彼は北フランスの気候が本人にとって好ましいという期待をこめて転地するため、退院を申し込んだ。」28
そしてペロン医師は、発作が収まってからまだ1カ月も経っていなかったにもかかわらず、観察所見欄に「完治」と記載しました。こうしてゴッホはサン・ポール・ド・モゾール精神病院を退院することになったのです。
退院までにゴッホは何点か作品を描きました。その中にはアイリスや糸杉をモチーフにした作品があり、サン・レミの穏やかな雰囲気が描かれています。アイリスはアンデパンダン展や二十人展で評価され、糸杉はゴッホにとって新たな方向性を見出すきっかけとなったモチーフです。サン・レミ時代は発作と闘い続けた苦しい時期である一方で、彼の絵が世間に認められ、希望を見出すことができた時期でもありました。ゴッホは退院を強く望む一方で、自身を成長させてくれたサン・レミと南仏に感謝しながら、最後の作品を描き上げました。
「ここにいるこの最後の数日がまた僕には色彩の啓示のようにみえてくることだ。弟よ、仕事に対して僕はパリを離れた時よりももっと確かさを感じている。だから仮にも僕が南仏の悪口を言うなんて、それこそ恩知らずというものだ。本当のことを言えば、僕はここを離れるのが身を裂かれるように辛いんだよ。」
そして、パリで待つ愛する弟テオ、その妻ヨハンナ、そして1月に生まれた甥に想いを馳せながら、彼はパリへと向けて旅立ったのでした。
「ああ、どれほど僕は君に会い、ヨーや赤ん坊の顔が観たいことか。」29
オーヴェルへ
パリ、暖かな再会
1890年5月(37歳)、ゴッホがサン・レミの精神病院を退院する際、テオは看護人に付き添ってもらうことを勧めましたが、ゴッホはこれを拒否し、独りで夜汽車に乗りサン・レミからパリへ向かいました。そのため、テオは心配で一晩中眠れませんでしたが、ゴッホは無事にパリのテオの家へたどり着きました。テオの妻ヨハンナは、その時初めて会ったゴッホについて「健康そうな顔色をして、微笑を浮かべ、非常に決然とした様子を見せた、たくましい、肩幅の広い男だった。」30と振り返り、病弱なテオと比較して「テオよりずっと強そう」だったとも述べています。
再会を喜んだ兄弟は、赤ん坊の部屋へ行き、揺りかごを覗き込みました。同年の1月に生まれたテオとヨハンナの息子は、ゴッホと同じ「フィンセント」という名前を授けられていました。ゴッホは出産の知らせを手紙で知っていましたが、ヨハンナ同様、この時がフィンセントとの初対面でした。ヨハンナは、兄弟が静かに赤ん坊を見つめる様子について「二人とも涙を浮かべていた」と記しています。
ゴッホはテオの家で楽しい時を過ごしました。しかし、パリの喧騒が自分に良くないと感じ始め、3日間の滞在の後、パリを離れることにしました。彼は一人でパリの北西にあるオーヴェル=シュル=オワーズへ向かいます。
終焉の地、オーヴェル=シュル=オワーズ
ゴッホは入院中、退院後の住居についてテオに相談していました。テオが知人である画家カミーユ・ピサロに助言を求めたところ、ピサロはオーヴェル=シュル=オワーズに住む「ポール・ガシェ」医師を紹介しました。ガシェ医師は精神科医でありながら、アマチュア画家としても活動しており、ピサロやセザンヌといった印象派の画家たちと交流がありました。芸術に理解のある医師が近くにいることで、ゴッホも安心して暮らせるのではないかと考えたテオは、オーヴェルをゴッホの新たな住まいに推奨しました。ゴッホもその提案を受け入れ、オーヴェルへの移住を決めたのです。
オーヴェルはパリから北西に約30キロ離れた静かな田舎町で、豊かな自然に囲まれた風景が特徴でした。この町は、バルビゾン派のシャルル・ドービニーをはじめ、セザンヌやカミーユ・コロー、ピサロらの画家によって描かれています。ゴッホもこの地にすぐに魅了され、さっそく制作活動に取り掛かるのでした。
「オーヴェルはすごく美しい。少なくなりつつはあるがたくさんの古い藁葺家がとりわけ美しい。」31
オーヴェルの肖像画
ガシェ医師は、かなり独特な人物だったようです。ブロンドに染めた61歳の精神科医は、オーヴェルの家で8匹の猫や犬を飼い、さらに鶏や兎も飼育しており、家の中はさまざまな物であふれかえっていました。また、印象派の画家たちとも交流があり、自身もアマチュア画家として活動していた彼は、銅版画の印刷機まで持つほどのこだわりを見せていました。ゴッホでさえ、ガシェの変わり者ぶりに「相当の変わり者」「病気で頭がいかれている」と驚いていたほどでしたが、次第に二人の信頼関係は深まっていきます。ゴッホはガシェを「彼が友人であることは今後も変わるまい」と評し、ガシェもまたゴッホを「(発作について)ああいうことはまず起こるまい、まったく順調にいっている」32と励ましたのです。
ゴッホは親しくなった人物の肖像画をよく描き残しています。ガシェ医師についても同様で、彼の肖像画を描き、ガシェはそれを見て非常に喜んだと言われています。
ゴッホはガシェ邸から東に約1キロの場所にある「ラヴー旅館」に住まいを構えました。滞在中に、旅館の娘アンドリーヌの肖像画も描いています。サン・レミでの作品の多くは風景画でしたが、オーヴェルに来てからは積極的に人物画に取り組むようになりました。1890年6月、妹ウィルに次のように述べています。
「僕が画業の中で他のどんなものよりも情熱を持つのは——肖像画、現代の肖像画だ。僕はそれを色彩で追及しようとしている〔……〕僕は百年たった後にもその頃の人々に生ける幻と思われるような肖像画を描いてみたい。だから写真のような肖像によらず、性格を表現し強調する手段として、現代の我々の持つ色彩知識、色彩感覚を用いて、情熱表現によってそういうものを描こうとしているのだ。33
オーヴェルにて、ゴッホは浮世絵やクロワゾニスムから学んだ線描写、色面表現に加え、サン・レミで見出した筆触表現を人物画にも応用しました。それは時に、人物の滑らかな肌を表現するにはに粗すぎるほど大胆な筆触になりましたが、それはゴッホが単に「似ている」肖像画に執着しなかったことに起因します。彼は、当時発達しつつあった写真技術に対して画家による肖像画を「現代の肖像画」として明確に区別し、肖像画は人物の雰囲気や性格、印象を画家の色彩感覚や情熱をもって表現する「生ける幻」であることと定義したのです。画家としての10年間、彼が一貫して追求してきた人物表現のスタイルが、ここオーヴェルにおいてついに確立されつつありました。
パリからの手紙
「僕らは今どうしてよいかわからない。〔……〕一日中働いてもヨー(ヨハンナ)にカネの心配をさせずにおけるだけ儲けられないのに、ブッソ・ヴァラドン商会の卑劣な奴どもはまるで僕を新米社員のように扱って、僕に僅かな自由も認めてくれないのだ。」34
1890年7月初頭、テオの手紙がオーヴェルのゴッホの元へ届きます。その手紙の中でテオは、家庭の経済状況が切迫していることや、グーピル(創設者アドルフ・グーピルの引退によって、社名は「ブッソ・ヴァラドン商会」となっていた)の給料が不充分であることを嘆きました。テオはゴッホへの支援だけでなく、実家の母や妹への経済的援助も行っており、息子が生まれてからはその負担が一層増していました。手紙の中でテオは、グーピルを辞めて自営で画廊を立ち上げることを示唆しましたが、その決断は一家の生計を一人で支えるテオにとって非常に大きなリスクを伴うものでした。普段はゴッホに助言を与える立場であったテオが、この時は逆に兄に助言を求めざるを得ないほど追い詰められていたのです。
「君はこれに対してどう思う?」35
支援を受けている側のゴッホが、この問いに対して的確な答えができるはずがありませんでした。テオの手紙に兄を咎める意図が無かったのは明らかですが、この手紙によって、オーヴェルで徐々に安定しつつあったゴッホの心中には、再び言いようのない不安が広がり始めたのでした。
パリ訪問、不穏なアパルトマン
その頃、テオの家では幼いフィンセントが病気にかかり、その看病でヨハンナが疲れ果てて寝込んでいました。前述した経済的重圧に加え、家族の健康問題への心労がテオをさらに追い詰めていたのです。しかし、やがて妻子の体調が改善すると、テオは落ち着きを取り戻していきました。先日の悲観的な手紙について言い訳をするかのように、テオはゴッホをパリに招待しますが、ゴッホは心中に不安を抱えたままでした。「いきなり行っちゃ、ますます取り込みを増すばかりでないかと思う。」36と尻込みしていたゴッホでしたが、義妹や甥の体調、そしてテオの将来について案じる思いから、ついにパリを訪れる決心をします。
テオのアパルトマンでは、評論家のオーリエや画家のトゥールーズ=ロートレックがゴッホを訪ねてきました。ゴッホは、オーリエとは飾られた絵を見ながら議論を交わし、ロートレックとは一緒に食事を楽しんだようです。穏やかに過ごしていたゴッホでしたが、ヨハンナとは絵の掛けている場所について口論になってしまいます。ある程度回復はしたものの、依然として息子の看病によって消耗していたヨハンナは、テオのグーピルを退職するという話に不安を募らせていました。普段は温厚な彼女も、その日は余裕がなかったのかもしれません。彼女は、些末な問題を粘着質に訴える義兄に怒りを抑えることができなかったのです。
ゴッホは後日、この時の家の雰囲気について次のように記しています。
「僕の印象ではみんな多少狼狽していたし、それにみんな苦闘している感じなのだから、僕らが置かれている立場についてはっきりした見境をつけようと固執するのはあまり大事なことではあるまい。君たちの間で意見が食い違っているのに、状況を無理に押し切ろうとしている感じがして僕はいささか驚いている。何であれ、このことで僕に何かできるだろうか——多分ないだろうが——ただ、もしも、僕が何か迷惑になることをしているのであれば、要するに何であれ、君たちが望むようなことで、僕にできることがあるだろうか…」37
この手紙(最終的には送られなかった)の中では、テオたちとゴッホの間で、家族の将来についての議論が交わされたことが示唆されています。アパルトマンの中で具体的にどのような議論があったのか不明ですが、ゴッホはその不穏な空気に少なからず戸惑っていたことがわかります。分別のあるテオやヨハンナが、ゴッホに対する経済的支援について当てこするようなことは言わなかったと思われますが、白熱する議論を前にゴッホは自分が彼らに多大な負担をかけていることを痛感したに違いありません。落ち込んだゴッホは、予定されていた画家ギョーマンとの会合を前に、オーヴェルへと帰ってしまいました。
最晩年の作品たち
ゴッホは1890年5月、サン・レミからパリに来た直後、シャン・ドゥ・マルスのサロン展でピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの「芸術と自然のあいだ」を鑑賞しました。この作品を非常に気に入ったゴッホは、妹ウィルに宛てた手紙の中でスケッチを交えつつ、作品の特長を詳しく説明しています。
「このタブローを見ていると、長い間熟視していると、自分が信じ欲しそうな一切のものが余さずしかも快く組成して遙遠(ようえん)の昔と生々しい現代が実に見事な不思議さで邂逅するのを眼のあたりに見る気がする。」38
シャヴァンヌの芸術性に感銘を受けたゴッホでしたが、彼はその他にシャヴァンヌの「横に広い画面」にも注目しました。風景画において広大な地平線を描ける利点を見出した彼は、オーヴェルに移って以降、横長の風景画を多く描くようになります。
最晩年の作品の一つとされる「ドービニーの庭」も同様に横長のキャンバスに描かれています。シャルル=フランソワ・ドービニーはバルビゾン派の画家で、ゴッホがミレーと同じくらいに尊敬していた人物でした。ドービニーはラヴー邸からほど近い場所に住んでいましたが、ゴッホがオーヴェルに来た時にはすでに他界しており、当時は未亡人がその家を守っていました。ゴッホはドービニー邸を訪問し、その美しい庭に魅了されます。彼は何度もそこへ通い「ドービニーの庭」を描き上げました。
ゴッホはテオへの手紙で、この作品を次のように描写しています。
「ドービニーの庭は前景が緑とピンク色の草だ。左には緑と薄紫の茂みがあり、白っぽい葉をつけた木の株がある。真中に薔薇の花壇があり、右手には簀垣(すがき)と塀、塀の上方には紫色の葉を持った一本の榛(はしばみ)の木がある。それからリラの生垣があり、丸くなった黄色い菩提樹が一列に並んでいて、ピンク色の家そのものは奥にあり、青ずんだ屋根瓦を持っている。ベンチが一つと椅子が三つ、黄色い帽子をかぶった黒い人物が一人、前景には黒猫が一匹いる。空は薄い緑色だ。」39
ゴッホは作品の進捗を報告しつつ、同じ手紙で次のようにテオの仕事の状況を伺っています。
「色々たくさんのことを君に書きたいと思っているのだが、第一その気持ちがどこかへ消えてしまったので、書いてもつまらぬ感じがする。君は君に好意を持っているあの人※たちに会ったろうと思う。」40
※:テオの雇用主
ゴッホは手紙の中で、テオとグーピル商会の話の行方を気にしています。しかしこの時期には、テオはすでにグーピルに残る決意をしており、兄にその決断を伝えていませんでした。テオは、ゴッホの心情に配慮し、刺激しないよう努めたのでしょう。しかし、兄からのこの手紙が、テオにとって最後のものとなるとは思いもしませんでした。
死
1890年7月27日(37歳)、ゴッホは午前中の制作から戻り、ラヴー邸で昼食を摂って、再び道具を持って外へ出かけていきました。普段であれば夕方までには戻ってきていましたが、その日は夕食の時間になっても姿をみせません。日没後、夕食を終えたラヴー邸の人々がテラスでくつろいでいた際、暗闇の中からゴッホが現れました。彼は腹を押さえ、屈んだ姿勢で彼らの前を通り過ぎ、自室へ戻っていきます。その様子を見て心配したラヴー家の人々は彼に声を掛けましたが、ゴッホは小さく返事をしたのみでそのまま寝室へ上がっていきました。不審に思った宿の主人ギュスターヴ・ラヴーがゴッホの寝室まで上がってみると、彼はベッドに横たわって大きな声でうめいていたのです。ゴッホは苦痛に身もだえしながら言いました。
「僕は自分を傷付けた。」
ゴッホはその日起こったことを断片的にギュスターヴへ話したとされています。彼の娘アンドリーヌ・ラヴーはその話を父親から聞き、後年のインタビューでその内容を語りました。以下は1954年、フランスの芸術誌「Les Nouvelles littéraires」に掲載された彼女のインタビュー記事からの抜粋です。
「ヴィンセントは、以前に絵を描いた麦畑へ向かいました。その麦畑はオーヴェル城の裏手にあり、パリのメッシーヌ通りに住んでいたゴッセラン氏が所有していました。城は私たちの家からおよそ半キロメートルほど離れており、そこに行くには大きな木々に覆われた急な坂を登らなければなりません。ヴィンセントがどこまで進んだのかは分かりませんが、午後のうちに城壁の下を通る道で、父の話ではヴィンセントは拳銃で自らを撃ち、気を失ったそうです。夕方の涼しさで意識を取り戻した彼は、拳銃を探して再び自分を撃とうとしましたが、見つけることができませんでした(翌日にも拳銃は見つかりませんでした)。その後、ヴィンセントは拳銃を探すことを諦め、坂を下りて私たちの家へ戻ってきたのです。」41
知らせによりラヴー邸に駆けつけたマズり医師と遅れてきたガシェ医師が傷口を確認したところ、ゴッホの左胸に打ち込まれた弾丸は身体を貫通せず、体内に留まっていることがわかりました。外科的な処置が必要でしたが、2人とも専門外であり、手の施しようがありませんでした。それでもゴッホの意識ははっきりしており、ガシェが駆け付けた時には煙草を吸えるほど落ち着いていたので、医師たちは傷口を包帯で保護して様子を見ることにします。
ガシェは、ゴッホにテオの連絡先を尋ねましたが、テオに迷惑を掛けることを恐れたゴッホは頑なに教えようとはしません。そこで、ラヴー邸に滞在していた画家の青年ヒルシッフが翌朝パリへ向かい、テオに直接手紙を届けることになります。
28日正午、ヒルシッフから手紙を受け取ったテオは、急いでオーヴェルへ駆けつけました。テオがゴッホの部屋を訪れた際、ゴッホはベッドに座ってパイプをふかすほど落ち着いており、テオの来訪を喜んでヨハンナや彼の息子について話をしたとされています。しかし、ゴッホの容態は芳しくありませんでした。ゴッホが眠ったか意識を失っている間、テオはヨハンナへの手紙を書いています。
「かわいそうな人だ。彼はほんのわずかな幸福しか分け前にあずからなかった。もはや彼にはいかなる幻想も残されてはいない。〔……〕ああ、我々が彼に生きるための新しい勇気を与える事さえできたらいいのだが。」42
テオはゴッホが回復してくれることを祈りつつ、付き切りで見守りました。しかし、翌日1890年7月29日午前1時半、容態は急変し、ゴッホは息を引き取りました。
ゴッホの死後、彼の所持品の中からテオに宛てた書きかけの手紙をみつかります。その末文には以下のように記されていました。
「僕自身の仕事だが、僕はそこに命を賭け、僕の理性はそのために半ば崩壊した——まあ、それはいい——君は僕の知る限り、商人根性の人間ではない。まさしく、思いやりを持って振る舞う立場を選ぶことが君にはできる、そう僕は思っている。でも、どうしたらいいのかね。」43
ゴッホの死について
死の謎
ゴッホの死については、一般的に自殺説が広く受け入れられていますが、いくつかの不可解な点や疑問が残されています。
1.事件後に消失した拳銃
ゴッホを死に至らしめた拳銃は、いまだに発見されていません。半世紀後に発見されたという報道はあるものの、証拠が不十分で信憑性に欠けています。また、拳銃の入手経路も明らかになっていません。ラヴー家の娘アンドリーヌの証言によれば、ゴッホはオーヴェルの城壁付近で自殺を図り、その後意識を取り戻した際には拳銃が見つからなかったとされています。しかし、夕闇により見えにくくなったとはいえ、失神前まで持っていた拳銃が手元からなくなるということがあり得るでしょうか?さらに、絵画道具も消失しており、発砲現場の特定が難しくなっています。
2.奇妙な銃創
ゴッホの左胸の銃創は乳首の下、3~4cmのところにあり、心臓を狙ったにしては低すぎる位置であることがわかります。そもそも、確実に遂げるのであれば頭を狙うのではないでしょうか。また、至近距離で発砲したにもかかわらず、弾丸は胴体を貫通せず腹腔の奥に留まりました。また、弾丸が胸腔でなく腹腔内にあったということは銃口は人体に対して下を向いていたということになり、これも自殺にしては不自然な点であるといえます。
3.発作による自殺?
自殺の原因としてゴッホの発作がよくあげられます。ゴッホは発作のサイクルを3カ月程度として考えていたことを鑑みるに、事件が起こった1890年7月末は再び発作が起こってもおかしくない時期です。屋外での制作中に発作を起こしたゴッホは突発的に持っていた拳銃で自身を撃ったのでしょうか。
ペロン医師が報告によれば、発作は少なくとも1週間以上は続き、その間、ゴッホは「何を訊かれても支離滅裂な答しかできない状況」が続いたとされています。しかし、負傷後のゴッホはテオやラヴー家の人々と普通に会話をしており、発作による行動とは考えにくい状況でした。たとえ発作を起こしたとしても、その時に都合よく所持していた拳銃の存在が非常に不自然です。
4.不明確な自殺の動機
自殺の動機として、事件前にテオと交わした手紙から、ゴッホが弟の家族に負担をかけることを気にしていた点がよく挙げられます。しかし、動機としてはそれだけでは不十分に感じられます。確かに、ゴッホはテオへの手紙で「自らの死」について言及したことは何度かありました。例えば、アルルでの最初の発作後、近隣住民の請願で再び病院に戻った際には、「いっそ死んだほうがましだ」と嘆いています。また、サン・レミで麦畑を刈る農夫に「死の影」を見出すなど、死についての覚悟を示していましたが、彼は決して自ら死を選ぶことはありませんでした。
敬虔なプロテスタントの家庭に育ち、一時は牧師を目指したほどの信仰を持っていたゴッホにとって、自殺は簡単に選ぶ道ではなかったはずです。彼はドレンテからの手紙の中で「そっと出ていくとか姿を消すとかいうこと、こいつだけは君も僕も決してやってはならぬ。自殺をしてはならぬのと同じだ。」44と述べています。このように考えていたゴッホが、急に自殺を選んだとは考えにくいのです。
さらに、拳銃を用意して計画的に自殺するのであれば、長年共に歩んできたテオに遺書を残すのが自然でしょう。二人は互いに信頼し合い、時には恋愛や愛人、娼婦に関するセンスティブな内容の話まで手紙の中で交わしています。それにもかかわらず、遺書も、自殺をほのめかす言葉も手紙には一切書かれていません。最後の数通の手紙には、自身の不安定な立場を嘆く場面もありますが、それと同時に絵具の注文をしたり、完成した作品について報告する内容も含まれています。自殺を考える人間が、新たな絵具の注文をするでしょうか。
今日では、波乱万丈な人生を送ったゴッホの「ドラマチックな自殺」という結末が語られがちです。しかし、自殺の証拠は非常に乏しく、その説もゴッホが死の床で語った内容や、周囲の証言に基づいて作られたものであることが分かります。
果たして、ゴッホは本当に自ら命を絶ったのでしょうか?
他殺説
スティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、共著『ファン・ゴッホの生涯』で、ゴッホがルネ・スクレタンという不良少年によって誤って撃たれた「他殺説」を提唱しています。
当時16歳のルネ・スクレタンは、裕福なパリの薬剤師の息子で、毎年夏になると、兄のガストンと共に避暑地のオーヴェルを訪れていました。兄ガストンは画家志望でゴッホに興味を示し親しくしていましたが、冒険好きで不良仲間を率いていたルネは、ゴッホをからかい、悪戯をしていたとされています。ルネは1889年のパリ万博で「ワイルド・ウェスト・ショー」に触発され、そこで購入したカウボーイの衣装をオーヴェルでも着ていました。そして、どういう事情かは不明ですが、彼はラヴー邸のギュスターヴ・ラヴーから38口径の古いピストルを譲り受けていたのです。
スクレタン兄弟との関係はテオへの手紙にも書かれておらず、長らく公にはなっていませんでした。しかし、1956年に82歳となったルネが『炎の人ゴッホ』の映画描写が実際と異なると訴え出たことで、彼らの関係が明るみに出ました。ルネはインタビューで、ゴッホが「目を動かさずに頭全体で向きを変える奇妙な癖があった」など、詳細な特徴を話し、彼に行った悪戯についても事細かに語りました。その一方、当時所持していたピストルについては「ゴッホに盗まれた」と語りますが、盗まれた時期については曖昧で、愛用していた拳銃が盗られたことを長い間気付かなかった等の不明瞭な発言を残しています。
ルネ・スクレタンがゴッホを銃撃したと仮定した場合、前述したいくつかの疑問点が解消されます。消失した拳銃に関しては少年たちが持ち帰った、あるいは近場に捨てたか埋めたかしたことが考えられます。また、絵画道具も銃撃場所(ネイフ・スミス両氏の推測では銃撃現場付近は少年たちがよく屯していた場所とされている)の特定を恐れた彼らにより持ち去られ処分されたことが想像できます。さらに、弾丸がゴッホの体を貫通しなかったことも、離れたところから銃撃されたとすれば納得できます。
では、なぜゴッホは死の床で銃撃犯を庇ったのでしょうか。この点について、ネイフとスミスの両氏はゴッホが「死を歓迎していた」ためと考察しています。
ゴッホはサン・レミにて死の覚悟をしていたことは前述したとおりですが、それ以前にも「もし、僕がぽっくり死ぬとしたら——〈たとえそんなことになるとしても僕は避けるつもりはない、無論、わざわざそんなことを求める気もないが〉」45と述べています。彼は絵画に自身の生きる意味を見出しながら、その一方では、精神的な発作に怯え、テオへ負担を強いていることにこの上なく負い目を感じていました。そんなゴッホが世の中に嫌気がさしていたとしても不思議ではありません。さらに言えば、画家を目指す前、グーピルを退職して諸国を転々としていた頃からゴッホは自身の死に場所を心の中で求めていたとも想像できます。ゴッホは亡くなる前、「このまま死んでゆけたらいいのだが」とテオに話しました。この言葉は一見、人生に対する諦めや恨みの感情を表したものと思えますが、死を前にして心の底で望んでいた願望・本心が漏れたようにも聞こえます。
この考察から、死を歓迎したゴッホは、ルネ・スクレタンを恨むどころかむしろ感謝し、彼を事件の罪から庇ったということが想像できます。
スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミスの両氏の提唱する「他殺説」は、数々の疑問点を解消し、自殺説よりも説得力を持っています。しかし、すでに事件から1世紀以上が経過している為、決定的な証拠が存在しないのが実情です。そのため、ゴッホに関して世界的権威であるファン・ゴッホ美術館は自殺説を覆すことはしておらず、他殺説はあくまで「一つの説」に留まっているのが現状です。
第4部まとめ「旅の終りに」
ミレーに憧れ、貧困層のために絵を描き始めたゴッホですが、その画家人生の10年間で彼のスタイルは大きく変化していきました。パリやアルルで筆触分割や色の分割、補色効果を学び、サン・レミでは曲線を用いた独自のタッチを確立しました。しかし、晩年に至っても、ミレーやドービニーといったバルビゾン派の画家や、ロマン主義のドラクロワに対する尊敬の念は変わりませんでした。サン・レミで書かれた彼の手紙には、こうした思いが込められています。
「僕はこれまでになく、ドラクロワやミレー、ルソー、デュプレ、ドービニの流派の永遠の若さを、現在の芸術家はもとより未来の芸術家にも劣らず、信じているのだ。僕には印象派が、たとえば浪漫派以上のことをしているとはほとんど思われない。〔……〕今朝僕は日の出前に窓から長い間野原を眺めたが、夜明けの星があるばかり、それがとても大きいように思われた。それでもドービニやルソーはこういう絵を描き、その融和、その偉大なる平和と荘厳を一部の隙もなく表現し、しかも同時に身に沁むひそやかな己の感情を付け加えた。そういう感じが僕には嫌いになれないのだ。」46
ゴッホのサン・レミ以降の作品について、彼の義妹ヨハンナは「悲しい調子」になり「ますます地味」になったと語っています。実際、サン・レミ時代以降は、アルル時代の「夜のカフェ」や「夜のカフェ・テラス」のように補色を効果的に使った作品は少なくなりました。しかしその代わりに、ゴッホは渦巻くような強い筆触を用いて、新たな表現を模索していきました。オーヴェルで描かれた人物画について、彼は「百年たった後にもその頃の人々に生ける幻と思われるような肖像画を描いてみたい」と述べ、「我々の持つ色彩知識、色彩感覚を用いて、情熱表現によってそういうものを描こうとしている」と語っています。ゴッホは、モチーフそのものの魅力を強調することを優先した結果、色彩や筆触等の技法は絵を引き立たせる要因の一つでしかないと考えるようになったのです。
それを示す例として「ドービニーの庭」が挙げられます。 ゴッホは、「向日葵」や「刈り人のいる麦畑」と同様に、「ドービニーの庭」も複数枚制作しました。一般的に、バーゼル美術館蔵の作品が最初に描かれ、ひろしま美術館蔵のものはその複製とされています。バーゼル版は遠景に暖色(建物の薄ピンクや教会の赤茶色)が使われれているのに対して、ひろしま版は絵全体が緑で統一されていることがわかります。またひろしま版では、陽の当たる明るい庭を表現するために、点描様の明るい色を細かに置かれているのが印象的です。ゴッホは、2枚目のひろしま版では意図的に補色効果を排除し、画面全体を緑で統一しました。そこには「夜のカフェ」などと比べるとインパクトが欠けるかもしれませんが、ゴッホが魅了された美しい庭が見事に描き出されています。
ゴッホは渇望していた他者からの評価にも動じることなく、自身の画風を貫いていきました。このスタイルは後のフォービズムや表現主義に大いに影響を与えていきます。その意味で、ゴッホの画風はサン・レミ、オーヴェル時代で完成していたのです。ゴッホは志半ばで非業の死を遂げた不遇な画家と言われがちですが、彼自身はその短い画家人生に少なからず達成感を感じていたのではないでしょうか。
ゴッホが祖国を飛び出して約5年、画家を志してからは10年の年月が経っていました。その中で、画業に邁進する一方、ゴッホは病気と闘い、そして孤独と奮闘します。ゴッホは常に友人を欲していましたが、彼のエキセントリックな行動により大抵の人間は周りから去っていきました。しかし、ゴッホを助ける人物も少なからず存在し、何より弟のテオはゴッホがどんな我がままを言おうと見捨てることはありませんでした。
サン・レミで自身を見つめ直したゴッホは、大切な人たちと再会するために家族の元へ帰る決心をします。ゴッホがサン・レミを去る前に書いた手紙の一節からは、彼の満ち足りた心と清々しさを感じずにはいられません。
「そうだ、この旅行はとうとう終わったのだ。結局心を慰めてくれるものはただ一途に君に会いたいという気持、君や君の細君や子供や、病気中僕も思い出してはいたが僕のことを忘れず覚えていてくれた幾人かの友人たち、彼らに会いたいという非常に烈しい気持ちだけだ。」47
終わりに
これで「ゴッホを解説!」シリーズは終了となります。
ゴッホはそのエピソードから「狂気の天才画家」というイメージを抱かれがちですが、実際には人間的な葛藤を抱きながらその人生を歩みました。感情移入できてこそ見え方が変わった作品もあったのではないでしょうか。
筆者は実はゴッホの荒々しいタッチがあまり好きではなかったのですが、この記事を書いていく中で「糸杉」の絵が好きになりました。ゴッホの糸杉の絵は、彼の非業の死に掛けて「死や絶望」を表現していたというネガティブな考察もありますが、実際のゴッホはサン・レミにて病気に苦労しながらも、絵を描くことに希望を見出していました。その力強いタッチで表現された「糸杉」からは力強い生命力を感じます。
みなさんはどの絵が好きになりましたか?記事を通して少しでもゴッホの絵に興味を持っていただいたなら幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
「ゴッホを解説!」シリーズ
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参考文献・サイト
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行
・二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行
・マリー・アンジェリーク・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード「テオ もうひとりのゴッホ」平凡社 2007年8月1日発行
・”Works Collected by Theo and Vincent van Gogh, Drawing, Joseph Jacob Isaacson”, contemporaries of van gogh, Van Gogh Museum :https://catalogues.vangoghmuseum.com/contemporaries-of-van-gogh-1/cat71-74
・Vincent van Gogh The Letters:https://vangoghletters.org/vg/
引用・出典
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1625頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1627頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1636頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1642頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1634頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷、2011~2012頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2043頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1688頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1637頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1652頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1660頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1943頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1663頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1663~1664頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1661頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2045頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1692頁 ↩︎
- “The Isolated Ones: Vincent van Gogh” ,THE VINCENT VAN GOGH GALLERY :http://www.vggallery.com/misc/archives/aurier.htm ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1721頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1718頁 ↩︎
- 二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行、262頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1951頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1701頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1954頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1726頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1726頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2058~2059頁 ↩︎
- 二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行、264~265頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1736頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行、44頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1739頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1743頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1957頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2063~2064頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2064頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1756頁 ↩︎
- 二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行、283頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1958頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1765頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1764頁 ↩︎
- “Memoirs of Vincent van Gogh’s stay in Auvers-sur-Oise ,By Adeline Ravoux” ,THE VINCENT VAN GOGH GALLERY:http://www.vggallery.com/misc/archives/a_ravoux.htm ↩︎
- 二見、1984年7月2日、47頁 ↩︎
- 二見、2010年10月21日、288頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第三巻」みすず書房 1984年9月20日発行改版第一刷、957頁 ↩︎
- 二見、1984年9月20日、1040頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1634頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1729頁 ↩︎
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