こんにちは!”アートおへんろ”にようこそ!
前回【第3部】では、ゴッホの創作が一気に加速した「アルル時代」をご紹介しました。画風が成熟していく一方で、ゴーギャンとの破局などの衝撃的な事件があり、ゴッホにとってまさに人生が揺れ動く時代でしたね!
さて今回は、その続きとなる【最終章】、「サン・レミとオーヴェル時代」をお届けします!
(前回をまだ読んでない方はこちらから!)

ゴッホの「サン・レミ、オーヴェル時代」とは?

この時期は、ゴッホの人生の最終章にあたります。
アルルで心のバランスを崩してしまったゴッホは、南仏にある「サン・レミ」の精神病院で療養生活を送ることになります。そこで彼は、絵を描くことで自身の内面と向き合いながら、静かに創作を続けました。
そして退院後は、パリの北西に位置する「オーヴェル=シュル=オワーズ」という村に移り住み、療養を続けます。新たな環境のもと、ゴッホはどんな作品を描き、そしてどのように最期を迎えるのか…。
ぜひ一緒にたどっていきましょう!
サン・レミ〜静寂の中で深まる思索〜
サン・ポール・ド・モゾール精神病院

ゴッホが入院した「サン・ポール・ド・モゾール精神病院」。
ここはもともと修道院だった建物で、19世紀初頭から精神病院として使われるようになりました。
1889年5月8日(36歳)、ゴッホはここに自らの意思で入院しました。
入院前、弟テオは「そんな施設での生活が快適なはずがない」と心配していました。でも、実際に入ってみたゴッホ本人は、案外落ち着いた気持ちで新しい環境を受け入れていたようです。入院してすぐに、こんな言葉をテオに送っています。
「こちらに来てよかったと思っていることを、君に伝えておきたい。〔……〕狂人や様々な痴人の生活を現実にみると、わけのわからぬ心配や恐れはなくなってしまう。そして次第に狂気も他の病気と同様一つの病気なのだと考えられるようになってくる。この環境の変化は思うに僕には良い効目があると思う。」1
また、テオの妻ヨハンナから届いた温かい手紙も、ゴッホの心を支えました。
結婚したことで「弟に見捨てられたのでは」と不安を抱えていたゴッホでしたが、ヨハンナとの文通を通じてその気持ちも和らいでいきます。
静けさの中に見つけた“美”——《アイリス》

発作がなく穏やかな日々を送っていたある日、ゴッホは病院の庭で咲くアイリスの花に心を奪われます。
その青紫の花は、ピンクがかった土や緑の葉と見事に調和し、彼はすぐにキャンバスへ向かいました。
そして完成したのが、あの有名な《アイリス》です。
横からアイリスをとらえた構図からは、彼がしゃがみ込んでじっと花を見つめていた様子が想像されます。
丁寧に描かれた花びらのひだ、力強いアウトライン、繊細な色の組み合わせ——そこには、彼のまなざしと愛着がそのまま刻まれているようです。
思索が深まる“静寂”の中で
アルル時代までは、印象派の光や、浮世絵、ゴーギャンのクロワゾニスムなど、前衛的な新しい刺激がゴッホを動かしていました。
でもこのサン・レミでは、外との接触がほとんどない、静かな時間が流れています。
その中で彼は、自分の内側とじっくり向き合い、芸術とは何かをあらためて考え始めるようになるのです。
やがて、彼の関心はエジプト美術のような“プリミティブ・アート”にまで広がっていきます。
「エジプトの芸術家は或る信仰を持ち、感情と本能に従って仕事をしながら——親切さとか、底のしれない忍耐とか、知恵とか、明朗さとか——そういう捕捉しがたいものを、鋭利な数本の曲線と見事な比例によって表現しているのだ。」2
この手紙からは、ゴッホが“形そのものの力”や、“描くという行為の精神性”に魅せられていたことがよくわかります。
そんな彼が次に見つけたモチーフ、それが「糸杉」でした。
糸杉― 病と向き合う象徴として

「糸杉のことがしょっちゅう頭にあるが、何とか向日葵の絵のような作品にしたいものだ。というのも、僕が見ているように描いた人がいないのが不思議に思えるからだ。線といい、比例といい美しく、エジプトのオダリスクのようだ。」3
サン・レミでの生活の中で、ゴッホが心を惹かれたのが、病院近くの風景にそびえる「糸杉」でした。
深い緑の美しさや濃密な色合い、そして風景の中で際立つ“黒い斑点”のような存在感。ゴッホは、この糸杉を新たなモチーフとして選び、スケッチや油彩画をいくつも制作していきます。
上に挙げた「糸杉」は、ちょうど病院の外に出る許可を得た頃に描かれたといわれています。鮮やかな青空と明るい田園風景の中に、うねるような筆致で描かれた深緑の糸杉が力強く立っています。その独特の渦巻くタッチは、見る者の視線を否応なく引き込み、画面全体にエネルギーを与えているようです。
ゴッホが言う「比例」という言葉には、おそらく糸杉の構造的な美しさ――葉の流れ、うねり、全体のバランス――が込められていたのでしょう。小さな葉のうねりが集まって一本の大樹となる姿に、自然の中の秩序や調和を見ていたのかもしれません。背景の空や大地にも同じようなリズムが刻まれ、全体が一つの生命体のように感じられます。
ちなみに、ヨーロッパでは糸杉は“死”や“喪失”の象徴とされることが多く、「ゴッホはそこに絶望の意味を込めたのでは?」という説もあります。しかし実際には、ゴッホの手紙に悲観的な表現はほとんど見られません。それどころか、彼はテオに「緑が格別すばらしい」「これらの木は非常に高く、どっしりしている」と熱を込めて語っています。
彼にとって糸杉は、死の象徴ではなく、むしろ“立ち向かう力”の象徴だったのではないでしょうか。病とともに生きる日々の中で、糸杉のどっしりとした姿に、この上ない力強さと生命力を感じていたのかもしれません。

星月夜

サン・レミの精神病院で暮らしていた時期、ゴッホが描いた《星月夜》は、今や彼の代表作として世界中で知られています。
けれど、当時の彼にとっては――少し思い切りすぎた一枚だったのかもしれません。
病院では夜に外出することも、部屋に絵具を持ち込むことも禁止されていたため、彼は自室の窓から見える東の空を素描し、それをもとに昼間のうちに制作を進めました。
描かれているのは、アルピーユ山脈を背景にした幻想的な風景。実際には見えないはずのサン・レミの街並みや、尖塔のある教会(サン・マルタン教会を思わせます)も、想像で描き加えられています。広がる夜空と街の静けさが対比されて、とてもドラマチックな画面構成になっています。
同時期に描かれた《糸杉》では木々のうねりが印象的でしたが、この《星月夜》では空そのものがうねっています。月や星も、まるで息をしているかのように力強く輝いています。
この大胆な空の表現には、かつてアルルでゴーギャンから「もっと想像で描いてみたら」と言われたことへの、小さなリベンジの気持ちも込められていたようです。
しかし、《星月夜》に対するテオの評価は、あまり芳しくありませんでした。
「君が月夜の村とか山のような最近の絵で何に心を惹かれているかが僕には全くよくわかる。しかし何か様式を探求することは事物の本当の感じを損なってしまうと思う。」4
普段ならこうした批判にムッとするゴッホですが、この時ばかりは反論せず、親友ベルナールへの手紙で、こんなふうにぼやいています。
「またもや僕はあまりにも大きすぎる星を思わずつかもうとしてしまう——そして新たな失敗——もうたくさんだよ。」5
今となっては、《星月夜》はゴッホの代名詞とも言える作品です。
でも当時の彼にとっては、「攻めすぎた」挑戦作だったのでしょう。
実際、この絵はその後のアンデパンダン展や、1890年のブリュッセル「20人展」にも出品されませんでした。

発作と麦畑
発作再発

画像:by Saint Rémy de Provence Tourisme at French Wikivoyage
サン・レミの精神病院で、少しずつ創作にも気持ちにも余裕が出てきていたゴッホ。
この頃、彼は「発作が再発することはもうないだろう」と、どこか楽観的に構えていました。
……でも、心のどこかでは前兆を感じ取っていたようです。
6月の初め、付き添いの看視員と一緒に久しぶりにサン・レミの町へ出かけたゴッホは、こんなふうに書き残しています。
「一度、それも人に連れられ、村へ行ったことがあったが、人間や当たりのものを見るだけで、今にも失神しそうな感じがして、ひどく調子が悪かった。〔……〕ともあれ、こういうことを言うのは、僕の内部には何かしら強烈すぎる感情の昂奮があって、そいつのおかげでこちらはくたくたになるのだが、何がそんな風にさせるのか僕にはわからないからだ。」6
この異変について主治医が把握していたのか、あるいは軽く見ていたのかはわかりません。
それでも7月初め、ゴッホはアルルへの外出許可を得ることになります。目的は、かつて自分の部屋に残した家具や作品を回収するためでした。
そして、その「小旅行」から数日後——7月中旬、再び発作がゴッホを襲います。
前回、アルルで起きた発作は1〜2週間ほどでおさまりましたが、今回は違いました。
7月中旬から8月下旬まで、実に1カ月以上も続いたのです。そのあいだ、ゴッホは絵筆も手紙も握ることができませんでした。
発作中の彼は、混乱し、灯油を飲んだり、チューブ絵具を口にしたりといった異常な行動をとります。
院長のペロンはこれを自殺未遂とみなし、ゴッホのアトリエへの立ち入りを一時的に禁止しました。
ようやく症状が落ち着いたのは8月の終わり。
その頃、彼は心配していたテオに手紙を書いています。ただし、刃物などの所持が禁止されていたため、ペンの代わりに「黒いチョーク」で書かれていました。
「もう二度と起こるまいと思いかけていた発作がまたぶり返したので、僕は深く心を悩ましている。〔……〕この何日間か、僕はアルルにいた時と同じように完全に気がふれていた。以前より悪いといわぬまでも同程度にひどかった。それにああいう発作がまた続いていぶり返さぬとも限らぬと考えられることは、実に気の滅入る話だ。」7

この絵を描いている最中に突然発作に襲われました。
麦と死の影
発作が落ち着き、ようやくアトリエへの立ち入りが許可されたゴッホが取りかかったのが、《刈り人のいる麦畑》でした。あまり有名な作品ではないかもしれませんが、実はこの作品、短期間に3点も描かれており、彼にとってとても大きな意味を持つシリーズです。
最初に描かれたのは、1889年6月のクレラー・ミュラー版。これは発作の前に取り組んでいたもので、彼自身「これまでの絵のなかで一番明るいもの」と語っています。
しかし、発作後に再び描かれた同じモチーフの絵には、ゴッホの異なる心情が反映されていました。発作のあと、弟テオにこんな言葉を送っています。
「僕はこの草を刈る(刈り人)の中に——炎熱のもと仕事をやり遂げようと悪鬼の様に闘っている朦朧とした人物の中に——人間は彼が刈る麦みたいなものだという意味で、また死の影をみたのだ。」8
ゴッホの目に映る麦畑は、もはやただの風景ではありませんでした。命のはかなさ、そして死という運命。それが自然の営みのなかに、静かに重なっていたのです。
さらに彼は、麦の一生と人間の人生を重ね合わせるようになっていきます。妹ウィレミーンへの手紙では、こんなふうに語っています。
「麦の一生は僕ら自身の生涯のようなものだ。なぜなら僕らは麦を食って生きているのだから、体の相当部分は麦であり、たとえ想像ではどうなりたかろうとどのみち、僕らは植物のように動けず成長し、麦のように成熟すれば刈り取られる運命に従うほかはないのではないか。」9
生きて、成熟し、やがて刈り取られる。ゴッホはそれを「仕方のないこと」としてではなく、「自然の流れ」として受け入れようとしていました。そこには、ただの悲しみや絶望ではなく、どこか穏やかで静かな哲学が漂っています。
そして彼は、テオへの手紙でこんなふうにも語っています。
「これは(「刈り人のいる麦畑」のこと)は君の手元に保存してもらえる絵になるだろうと思う。これは自然という偉大な書物※1が我々に語ってくれる死の影だが、僕が努めて出そうとしたのは、『殆んど微笑を浮かべている』※2その姿だ。」10
※1:”book of nature” の意味。自然のなかに真理があるという思想。
※2:この「微笑」については、フランスの作家シルベストルが画家ドラクロワの死を描写した言葉から引用。
死は恐怖や終わりではなく、「微笑んでいる」ような、静かな幕引きであってほしい。そんな願いが、この絵には込められていたのかもしれません。
ゴッホにとって、自然は家族のようなものでした。人々が家族から支えられるように、彼は草や土、小麦畑の中に慰めと回復を見い出していたのです。
「君にとって家族に当たるものが僕にとっては自然であり、土塊であり、草や黄色い小麦や百姓であること、言い換えれば君は人々に対する愛の中に〈単に仕事の張り合い〉ばかりでなく、必要な時には君を慰め、君の元気を回復させるものを見出しているという事だ。」11
「発作」や「死」というつらい出来事さえ、自然の営みの一部だと思えば、きっと恐れることなく受け入れられる——。
《刈り人のいる麦畑》の制作を通して、ゴッホはそんなふうに「自分のこれからのあり方」を見つめ直したのかもしれません。
やがて彼は、自分の病気のリズムに、ある傾向があることにも気づきます。
「クリスマスのころに発作が再発するかどうかがはっきりする〔……〕恐らく冬には、すなわち三月後には新しい発作が起こりそうな気がする」12
その予想は見事に的中することになります。
闘病の果てに
アンデパンダン展・二十人展での評価、成功の兆し
1889年の秋、ゴッホはサン・レミの療養所から、パリで開かれるアンデパンダン展(無審査・自由出品の美術展)に作品を出品しました。出したのは、精神病院の庭で描いた「アイリス」と、アルル時代の「ローヌ川の星月夜」。どちらも弟テオを通じて出品され、スーラ、シニャック、ロートレックといった当時の著名な画家たちの作品と並んで展示されました。
観客からの評判は上々で、テオはフィンセントにこんなふうに報告しています。
「『鳶尾(アイリス)』の絵は大勢の人が見てくれて、ここしばらく会うたびにその人たちが感想を聞かせてくれる。」13


さらに翌1890年1月には、ベルギーの前衛芸術家グループ「二十人展(Les XX)」にも招かれ、《ひまわり》や《赤い葡萄畑》を含む6点を出品。セザンヌ、ピサロ、ルノワール、ロートレックなど、そうそうたる顔ぶれのなかでの展示となりました。ここでもゴッホの作品は好評を博し、とくに《赤い葡萄畑》は400フランで売却。これが、ゴッホの人生で初めて作品が売れた瞬間でした。
母アンナに送った手紙では「値段は安すぎる」と照れ隠しをしていますが、内心では嬉しくてたまらなかったはずです。

1889年8月、オランダの美術雑誌『De Portefeuille』には、ゴッホを紹介する記事も掲載されました。書いたのはテオの友人ジョゼフ・イサークソン。彼は当時のオランダ美術を「工場でつくられた製造品」と手厳しく批判しながらも、ゴッホにはこう記しています。
「唯一の開拓者であり、彼は大いなる闇の中でただ一人奮闘している。その名はフィンセント、後世に語り継がれるだろう。」
しかしゴッホ自身はこの取り上げられ方にやや戸惑い気味で、「ほんの数語しか触れられぬようお願いしておきます」と控えめな姿勢を見せています。というのも彼にとって、自分の仕事がまだ「大したものではない」という自覚があったからでした。
1890年1月、今度はフランスの文芸誌『メルキュール・ド・フランス』に、ゴッホの作品を評価する評論が掲載されました。書いたのは美術評論家アルベール・オーリエ。彼の文章は情熱的で、ゴッホの絵を次のように称えています。
「私たちはフィンセント・ファン・ゴッホの作品そのものから、彼の人間としての、いやむしろ芸術家としての気質を正当に推測することができる。[……]彼の作品全体に通底しているのは、その「過剰さ」である……力の強さ、神経の高ぶり、表現の激しさ。その作品には、対象の性格を断固として主張する姿勢、大胆な形の単純化、太陽を正面から見据えるような挑戦的な姿勢、描線や色彩に込められた激しい情熱、そして技法の最も細部に至るまで、力強い人物像が現れている……それは、男性的で、大胆で、ときに非常に荒々しい……それでいて、時に驚くほど繊細でもある……。」14
ゴッホはこの評価に対し、丁寧に感謝を述べつつも、冷静にこう語ります。
「あの評論の中で見る私の作品は実際以上によく、実際以上に豊かで、意味深いものになっています。」
「結局、私が演じている役割、或いは今後演じるであろう役割は、絶対、二次的なものであろうと思う」15
他者からの評価を強く望んでいたゴッホでしたが、それが“過剰”であると感じたときには、自分を見失わないよう一歩引いて考える冷静さも持っていました。評価が高まれば高まるほど、自分が「真実を描く」という本来の目的から離れてしまうのではないか……そんな危機感もあったのかもしれません。テオへの手紙には、こんな言葉もあります。
「オーリエのあの論文を読んでついいい調子になっていると、妙に力づけられて、ますます現実から離れ、ちょうどモンティセリの或る種の絵のように、トーンの音楽の様な色彩でものを描く危険をおかしてしまう。しかしぼくにとっては、真実であること、〈真実であろうとすること〉もまた実に大切なことなのだ。とまれ結局、僕は——色彩の音楽家であるよりはやはり靴屋であることを選ぶだろうと思う。」16
そして1890年3月、パリで再びアンデパンダン展が開催されました。出品したゴッホの作品10点は、ここでも多くの称賛を集め、印象派の巨匠モネは「この展覧会の中で最高のものだ」と絶賛しました。
さらにゴーギャンも会場を訪れ、ゴッホの作品《渓谷》と自作を交換したいと申し出るほどでした。彼は手紙の中で、ゴッホの作品をこう讃えています。
「あなたの仕事を、まず弟さんのところで、そしてアンデパンダン展で注意深く眺めました。心から賛辞を呈します。展覧会では、数多い画家のなかであなたは最も注目すべき存在です。あなたの好きな作品と交換してもらいたい絵があります。それは山の景で、二人の小さな旅人が未知を求めて上ってゆく図です。あの絵のはとても暗示に富む色彩によるドラクロワ風の感動が見られます。あちこちに光明のような赤の色調があり、全体は紫の色調の中にある。美しく、かつ壮大だ。この絵について私はオーリエ、ベルナール、その他、多くの者と語り合った。」17

こうして、ゴッホへの評価は着実に高まりつつありました。彼が夢見た「画家としての成功」が、ようやく現実になろうとしていたのです。
テオは喜びのあまり、それをすぐに手紙で伝えました。けれど、その返事はなかなか届きませんでした。
——ゴッホは、再び発作に悩まされていたのです。
発作との闘い
1889年の12月、ゴッホがアルルの黄色い家で最初の発作を起こしてから、ちょうど1年が経とうとしていました。そんなある日、ゴッホは妹ウィルに宛てた手紙の中で、静かに胸の内を明かしています。
「僕があの発作を起こしたのは丁度一年前だ〔……〕また再発しはしないかと心配にならぬでもない。あれ以来潜在的にそういう感じが頭に残っている訳だ」18
クリスマスが近づくにつれ、またあの発作が襲ってくるのではないか——そんな不安が、ゴッホの心をじわじわと締めつけていきました。
一方で、クリスマスという季節は、彼にとって家族と過ごしたズンデルト時代の記憶を呼び起こすものでした。かつては両親や兄弟姉妹と囲んだ、あたたかな団らん。しかし今の自分は、病院の中でひとり、次にいつ発作が来るかもわからない不安と孤独の中にいます。そして、思い出されるのはヌエネン時代、自らの言動がきっかけとなり、父ドルスを死に追いやってしまったこと……。家族の輪を壊してしまったことへの後悔が、彼の胸を締めつけていたのです。
そんな思いを込めて、ゴッホは母アンナにも手紙を書いています。
「僕の病は結局は自業自得なのですから、昔を振り返って臍(ほぞ)をかむ思いがしますが、またその度に何とかして己の過失を償うすべはないものかと考えます。しかし時々、そういう事を考えたり思ったりすることがとても辛くなって、以前に比べ、そういう感情にすぐ押し潰されてしまうのです。〔……〕あなたとお父さんは、何とかして他の兄弟よりも私に目を掛けてやろうとなさいました。それだのに私はどうもよくない性格に生まれついたのだと思います。」19
こうした後悔や自責の念が重なったせいか、ゴッホは奇しくも1年前と同じ日に——1889年のクリスマスに再び発作を起こしてしまいます。幸い、このときの発作は1週間ほどで落ち着きましたが、翌1890年1月末には再発。ペロン医師は弟テオに、「制作はまったくできず、受け答えも支離滅裂な状態だ」と報告するほど、深刻な様子でした。
そして2月下旬、ゴッホはまたも外出先のアルルで発作を起こします。この頃、彼はゴーギャンが残していった素描をもとに、「カフェ・ド・ラ・ガール」のジヌー夫人の肖像を仕上げたばかり。その絵を届けに行く途中で発作に襲われてしまったのです。
この短期間に3回の発作。特に2月の発作は外出先で発生しています。
なぜ発作の恐れがありながら、わざわざ外出を決行したのか——。その背景には、退院を焦るゴッホの気持ちがありました。外出の3日前、彼は再び妹ウィルにこう綴っています。
「明日か明後日僕は試験のつもりでまたアルルに旅行して、発作をぶり返さずに旅行の緊張や人並みの生活に耐えうるかどうかあたってみるはずだ。おそらく僕の場合は頭が弱ってもいいと考えないように覚悟を決めることが必要だ。〔……〕あの論文(メルキュール・ド・フランスでのオーリエの批評)を読んだとき、僕は本当はあのようでなければいけないのにこんな力が足りぬ、そう思ってほとんど暗澹(あんたん)とした。」20
病を克服するには、人々の暮らしの中で「普通の生活」に身を置き、そこで自分を試してみるしかない——そんな想いがあったのでしょう。また、オーリエの批評が描いた“理想のゴッホ像”に追いつこうと、自らを無理に奮い立たせていたようにも見えます。
今回の外出には看視員の同行がなかったため、どのように発作が起こったのかは記録に残っていません。ただ、意識が朦朧とした状態でアルルの街にいたゴッホは、通報を受けたサン・レミの病院スタッフによって、馬車で連れ戻されました。
ペロン医師は「数日もすれば元に戻るでしょう」と楽観視していましたが、今回はそう簡単にはいきませんでした。このときの発作はおよそ2か月も続き、これまでの中で最も長く、重いものとなってしまったのです。

1月31日、テオとヨハンナとの間に長男が生まれます。両親はその子にゴッホと同じ「フィンセント」という名前を付けました。2月の発作が起こる少し前、ゴッホは誕生の記念として巴旦杏(アーモンド)の花の絵を描き、テオ一家にプレゼントしました。
退院
ゴッホが長く続いた発作からようやく回復したのは、1890年4月の下旬のことでした。
テオとの手紙のやりとりも再開されましたが、心の調子はまだ万全とはいえず、「気が鬱ぐ」と手紙を読むことすら辛い日もあったようです。
それでもゴッホは、「もう病院にはいられない」と強く思っていました。
「僕はどうしてよいか、どう考えてよいかわからない。しかしこの家を是非出たいと思っている。そうなっても君は驚くまい。僕はそれ以上君にこのことは言う必要が無い。〔……〕そうだ、ここから出なければならないのだ。」21
彼は、「北フランスに行けば、病は治る」と主張しました。
テオは退院に反対しませんでしたが、「それは君が決めるべきこと」と、あくまで兄の意思を尊重する立場をとりました。ただし一つ、現実的な忠告も忘れていません。
「君が芸術で頭がいっぱいになっている限りは、君を理解してくれる人はほんの僅かしか見あたるまい。大方の人にとっては芸術はラテン語みたいなものだ。」22
世間の目は冷たいかもしれない。それでもゴッホの退院への決意は揺るぎませんでした。
最終的に、テオはペロン医師へ「大きな危険がない限り、兄の希望を叶えてほしい」と手紙を書き、医師もこれを受け入れます。そして1890年5月16日、正式に退院が許可されました。
ペロン医師の報告書には、ゴッホの入院中の様子がこう記されています。
「入院中この患者はほとんど静穏だったが、数度発作に襲われ、それが二週間ないし一カ月続いた。発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識鮮明であり、熱心に画業に没頭していた。本日、彼は北フランスの気候が本人にとって好ましいという期待をこめて転地するため、退院を申し込んだ。」23
そしてペロン医師は、発作が収まってからまだ1カ月も経っていなかったにもかかわらず、観察所見欄に「完治」と記載しました。
こうして、ゴッホは退院の準備を進めていきます。
出発までのあいだ、彼はいくつかの作品を描きました。なかでもアイリスや糸杉をモチーフにした作品には、サン・レミの穏やかな空気や、そこに根付いた彼の感情が表れています。
アイリスは、アンデパンダン展や二十人展で評価を受け、糸杉は彼にとって新たな表現の道を切り開くきっかけとなったモチーフです。
サン・レミでの日々は、発作と向き合い続けた辛い時間であると同時に、絵が少しずつ世間に認められ、希望が差し込んだ時期でもありました。退院を強く望んでいたゴッホですが、この土地と、自分を成長させてくれた環境には、深く感謝していたのです。
「ここにいるこの最後の数日がまた僕には色彩の啓示のようにみえてくることだ。弟よ、仕事に対して僕はパリを離れた時よりももっと確かさを感じている。だから仮にも僕が南仏の悪口を言うなんて、それこそ恩知らずというものだ。本当のことを言えば、僕はここを離れるのが身を裂かれるように辛いんだよ。」
心からの言葉が、胸に染みますね。
そして彼は、パリで待つ弟テオ、義妹ヨー、そして生まれたばかりの甥っ子へと思いを募らせながら、新たな一歩を踏み出します。
「ああ、どれほど僕は君に会い、ヨーや赤ん坊の顔が観たいことか。」24



オーヴェルへ
パリ、暖かな再会
1890年5月、37歳になったゴッホは、ついにサン・レミの精神病院を退院します。
テオは心配して「看護人をつけた方がいい」と助言しましたが、ゴッホはそれをきっぱりと断り、たったひとりで夜汽車に乗ってパリへ向かいました。
案の定、テオは一晩中眠れなかったそうですが、ゴッホは無事にテオの家に到着。
その姿を初めて見たテオの妻ヨハンナは、こんなふうに振り返っています。
「健康そうな顔色をして、微笑を浮かべ、非常に決然とした様子を見せた、たくましい、肩幅の広い男だった。」25
そして、病弱なテオよりも「ずっと強そうだった」とも振り返っています。
久しぶりの再会を喜んだ兄弟は、赤ちゃんの部屋へと向かいました。
この年の1月に生まれたばかりの赤ちゃんには、「フィンセント」という、ゴッホと同じ名前がつけられていました。
この時が、ゴッホと甥っ子との初対面。
ゴッホはヨハンナからの手紙で出産のことは知っていたものの、こうして実際に会うのは初めてです。
二人でそっと揺りかごをのぞき込んだその瞬間、ヨハンナは「二人とも涙を浮かべていた」と語っています。
言葉にならない、深い感情がそこにあったのでしょう。
パリでは久しぶりの家族との時間を楽しんだゴッホですが、やがて「この街の喧騒は、今の自分にはよくない」と感じるようになります。
わずか3日後、彼は静かな場所を求めて、パリを後にする決断をしました。
向かったのは、パリの北西にある静かな村、オーヴェル=シュル=オワーズ。
ゴッホの人生、その最後の舞台となる場所です。

終焉の地、オーヴェル=シュル=オワーズ
ゴッホは入院中、退院後の住居についてテオに相談していました。
テオが知人である画家カミーユ・ピサロに助言を求めたところ、ピサロはオーヴェル=シュル=オワーズに住む「ポール・ガシェ」医師を紹介しました。
このガシェさん、ただの医者ではありません。精神科医でありながら、なんと自分でも絵を描くアマチュア画家。
ピサロやセザンヌなど、印象派のアーティストたちとも親しく交流していたというから驚きです。
芸術に理解があり、心のケアもできる――そんなガシェ医師がいる町なら、きっとゴッホも安心して暮らせるだろう。
そう考えたテオは、パリから30キロほど離れた田舎町「オーヴェル=シュル=オワーズ」を兄の新天地として提案しました。
ゴッホもこのアイデアを気に入り、すぐに移住を決めたのです。
オーヴェルは、小さな川と緑豊かな丘に囲まれた、のどかな村。
ここはかつて、バルビゾン派のシャルル・ドービニーをはじめ、セザンヌ、カミーユ・コロー、そしてピサロなど、多くの画家たちが筆を取った場所でもありました。
そしてもちろん、ゴッホもすぐにこの風景の虜になります。
「オーヴェルはすごく美しい。少なくなりつつはあるがたくさんの古い藁葺家がとりわけ美しい。」26

オーヴェルの肖像画
ゴッホがオーヴェルで出会ったガシェ医師。
この人物、なかなかの個性派だったようです。
61歳にしてブロンドに染めた髪、家には猫や犬が8匹、さらに鶏やウサギまで飼っていて、住まいはモノであふれかえっていたとか。
そして極めつけは、銅版画の印刷機まで持っていたというこだわりっぷり。医師でありながらアマチュア画家でもあり、ピサロやセザンヌらとも交流のあった、芸術にどっぷり浸かったお医者さんだったんです。
そんな彼に対し、ゴッホも最初は「相当の変わり者」「病気で頭がいかれている」と少々引き気味だった様子。
でも、次第に二人の間には信頼が芽生えていきました。
ゴッホはガシェについて、「彼が友人であることは今後も変わるまい」と書き、
一方のガシェも「(発作について)ああいうことはまず起こるまい、まったく順調にいっている」27とゴッホを励ましました。
風変わりなふたり、どこか気が合ったのかもしれませんね。
ゴッホが心を通わせた人物に肖像画を描くのは良く知られています。
ゴッホによる独特の筆致、色彩で描かれた自身の肖像画を見て、ガシェはとても喜びました。

ゴッホによるガシェの肖像画(油彩)は2点存在します。この作品は最初に描かれたもので、1990年に日本の実業家により124億円で競り落とされたことで有名です。その後何度か売買された結果、現在は所在不明となっています。
ちなみにゴッホが住んでいたのは、ガシェ邸から東へ約1kmほどの場所にある「ラヴー旅館」。
そこの娘、アドリーヌの肖像画も残されています。
サン・レミでの作品の多くは風景画でしたが、オーヴェルに来てからは積極的に人物画に取り組むようになったゴッホ。
妹ウィルへの手紙では、こう語っていました。
「僕が画業の中で他のどんなものよりも情熱を持つのは——肖像画、現代の肖像画だ。僕はそれを色彩で追及しようとしている〔……〕僕は百年たった後にもその頃の人々に生ける幻と思われるような肖像画を描いてみたい。だから写真のような肖像によらず、性格を表現し強調する手段として、現代の我々の持つ色彩知識、色彩感覚を用いて、情熱表現によってそういうものを描こうとしているのだ。28

アドリーヌ本人からは「似ていない」と不評を買ったようです。
まるで写真のように“そっくり”に描くことにはこだわらず、
ゴッホはその人の性格や印象を、情熱と色彩で表現することを目指していました。
オーヴェルでは、浮世絵やクロワゾニスムから学んだ輪郭線や色面表現、
さらにはサン・レミで確立した筆触(タッチ)のスタイルを人物画にも応用。
時にそのタッチは、肌のなめらかさを無視するほど大胆なものでしたが、
それこそがゴッホの“肖像画”――彼にとっての「生ける幻」だったのです。
彼が10年にわたって追い求めてきた人物表現のスタイルが、
ここオーヴェルで、ようやく一つの完成形を迎えようとしていました。

パリからの手紙
「僕らは今どうしてよいかわからない。〔……〕一日中働いてもヨー(ヨハンナ)にカネの心配をさせずにおけるだけ儲けられないのに、ブッソ・ヴァラドン商会の卑劣な奴どもはまるで僕を新米社員のように扱って、僕に僅かな自由も認めてくれないのだ。」29
1890年7月初め、ゴッホのもとにテオからの手紙が届きます。そこには、思わず胸が締めつけられるような悩みが綴られていました。
テオは、家庭の経済状況がひっ迫していること、そして勤務先である「ブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)」の待遇の悪さに苦しんでいることを、兄に正直に打ち明けていたのです。
テオは、ゴッホを経済的に支え続けていただけでなく、実家の母や妹への援助、そして新しく家族に加わった息子のための出費も抱えていました。そんななかで、彼は会社を辞めて独立し、画廊を開こうかとまで考えるようになっていました。でも、それはあまりにもリスクの大きい選択。家族の生活がすべて自分にかかっているという重圧の中で、ついにテオは兄に助けを求めるのです。
「君はこれに対してどう思う?」30
支援を受けていた立場のゴッホにとって、これはあまりに重い問いでした。きっとテオに責めるつもりなど一切なかったはずです。けれど、この正直すぎる手紙は、ようやくオーヴェルでの穏やかな生活に慣れはじめていたゴッホの心に、再び不安の影を落としました。

パリ訪問、不穏なアパルトマン
その頃、テオの家では、まだ幼い息子フィンセントが病気になってしまい、ヨハンナは看病疲れで寝込んでしまっていました。先の手紙でも伝わってきたように、経済的なプレッシャーに加えて、家族の健康問題も重なり、テオの心労は限界に近づいていたようです。
けれど、しばらくすると妻子の体調は回復し、テオも少しずつ落ち着きを取り戻していきました。そして、前回の悲観的な手紙を詫びるかのように、ゴッホをパリに招待します。
とはいえ、ゴッホは手放しでは喜べません。「いきなり行っちゃ、ますます取り込みを増すばかりでないかと思う。」31と戸惑いながらも、義妹と甥の様子が気がかりで、ついにパリ行きを決意します。
テオのアパルトマンでは、評論家のアルベール・オーリエや、画家のトゥールーズ=ロートレックがゴッホを訪ねてきました。オーリエとは飾られていた絵を前にして熱のこもった会話を交わし、ロートレックとは食事を共にして、和やかなひとときを過ごしたようです。
けれど、そんな穏やかな時間は長く続きませんでした。
ヨハンナとのあいだで、絵の掛け場所をめぐって小さな口論が起こってしまったのです。ヨハンナは少しずつ回復していたものの、子どもの看病で心身ともに消耗しており、さらにテオがグーピルを辞めて独立を考えているという話にも、不安を感じていました。普段は温和な彼女ですが、その日は余裕をなくしていたのかもしれません。義兄のゴッホが、ささいなことを繰り返し気にする様子に、つい感情を抑えきれなかったのでしょう。
このときの空気を、ゴッホは後にこんなふうに綴っています。
「僕の印象ではみんな多少狼狽していたし、それにみんな苦闘している感じなのだから、僕らが置かれている立場についてはっきりした見境をつけようと固執するのはあまり大事なことではあるまい。君たちの間で意見が食い違っているのに、状況を無理に押し切ろうとしている感じがして僕はいささか驚いている。何であれ、このことで僕に何かできるだろうか——多分ないだろうが——ただ、もしも、僕が何か迷惑になることをしているのであれば、要するに何であれ、君たちが望むようなことで、僕にできることがあるだろうか…」32
また、この手紙(結局は出されなかったもの)の中からは、ゴッホとテオたちの間で、家族の将来について、それなりに踏み込んだ話し合いがなされたことが分かります。アパルトマンで実際にどんな議論があったのかはわかりませんが、ゴッホはその場の緊張感に少なからず戸惑っていたようです。
余裕がない状態であったとはいえ、分別のあるテオとヨハンナが、ゴッホへの経済的援助について当てこするようなことは言わなかったと思われます。しかし、熱を帯びた会話の中で、ゴッホは自分が二人に重荷を背負わせていることを痛感せずにはいられなかったのでしょう。
心がすっかり沈んでしまったゴッホは、予定されていた画家ギョーマンとの会合を前に、ひとりでオーヴェルへと帰っていきました。
最晩年の作品たち

時は少しさかのぼり1890年5月、サン・レミからパリに来たゴッホは、到着後すぐにシャン・ドゥ・マルスのサロン展を訪れます。そこで目にしたのが、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの《芸術と自然のあいだ》。この作品に強い感銘を受けたゴッホは、妹ウィルに宛てた手紙の中で、スケッチを添えながらその魅力を熱心に語っています。
「このタブローを見ていると、長い間熟視していると、自分が信じ欲しそうな一切のものが余さずしかも快く組成して遙遠(ようえん)の昔と生々しい現代が実に見事な不思議さで邂逅するのを眼のあたりに見る気がする。」33

このときゴッホが注目したのは、作品の精神性だけではありませんでした。シャヴァンヌの「横に広い画面」が生み出す空間の広がりにも、彼はインスピレーションを受けたのです。風景画において、横長の構図が地平線をよりドラマチックに表現できることに気づいたゴッホは、オーヴェルに移ってから、その形式を積極的に取り入れていきます。


晩年の名作のひとつ、《ドービニーの庭》も、同じく横長のキャンバスに描かれています。シャルル=フランソワ・ドービニーは、バルビゾン派の画家で、ゴッホがジャン=フランソワ・ミレーと並んで敬愛していた人物です。ドービニーの家は、ゴッホが滞在していたラヴー邸の近くにありました。すでに故人だったドービニーの住まいには未亡人が暮らしており、ゴッホは何度もその家の庭を訪れて、感銘を受けた光景を描きとめました。
「ドービニーの庭は前景が緑とピンク色の草だ。左には緑と薄紫の茂みがあり、白っぽい葉をつけた木の株がある。真中に薔薇の花壇があり、右手には簀垣(すがき)と塀、塀の上方には紫色の葉を持った一本の榛(はしばみ)の木がある。それからリラの生垣があり、丸くなった黄色い菩提樹が一列に並んでいて、ピンク色の家そのものは奥にあり、青ずんだ屋根瓦を持っている。ベンチが一つと椅子が三つ、黄色い帽子をかぶった黒い人物が一人、前景には黒猫が一匹いる。空は薄い緑色だ。」34

また、テオの仕事や家庭のことも、ゴッホはとても気にかけていました。同じ手紙の中で、彼はこんなふうに書いています。
「色々たくさんのことを君に書きたいと思っているのだが、第一その気持ちがどこかへ消えてしまったので、書いてもつまらぬ感じがする。君は君に好意を持っているあの人※たちに会ったろうと思う。」35
※:テオの雇用主
実はこの頃、テオはすでにグーピル社に残る決意を固めていました。ただ、それを兄にはまだ伝えていなかったのです。
“少し時間をおこう――。”
おそらく、いろんな悩みを抱えていたテオは、兄の気持ちを刺激しないように、あえて言葉を飲み込んだのでしょう。
しかし、この手紙が、ゴッホから届いた最後の手紙になるなんて――
そんなこと、きっと思いもしなかったはずです。
死

ゴッホが最後に描いた作品とされています。
1890年7月27日、37歳のゴッホは、いつも通り午前中の制作を終え、宿のラヴー邸に戻って昼食をとりました。そして再び絵の道具を手に外へ出かけていきます。けれど、その日はいつものように夕方になっても戻ってきませんでした。
やがて日が沈み、夕食を終えたラヴー家の人たちがテラスでくつろいでいたときのことです。暗がりの中からゴッホが現れました。腹を押さえ、かがみ込むようにして、何も言わずに自室へ戻っていったのです。
ただならぬ様子に心配した宿の主人、ギュスターヴ・ラヴーがゴッホの部屋を見に行くと、彼はベッドに横たわり、大きな声でうめいていました。そして、こう言ったのです。
「僕は自分を傷つけた。」
その日、彼に何が起こったのか――
ゴッホは断片的にギュスターヴに語ったようです。彼の娘アンドリーヌ・ラヴーは、父から聞いたその話を後年のインタビューでこう語っています(1954年、フランスの芸術誌『Les Nouvelles littéraires』より)。
「フィンセントは、以前に絵を描いた麦畑へ向かいました。その麦畑はオーヴェル城の裏手にあり、パリのメッシーヌ通りに住んでいたゴッセラン氏が所有していました。城は私たちの家からおよそ半キロメートルほど離れており、そこに行くには大きな木々に覆われた急な坂を登らなければなりません。フィンセントがどこまで進んだのかは分かりませんが、午後のうちに城壁の下を通る道で、父の話ではフィンセントは拳銃で自らを撃ち、気を失ったそうです。夕方の涼しさで意識を取り戻した彼は、拳銃を探して再び自分を撃とうとしましたが、見つけることができませんでした(翌日にも拳銃は見つかりませんでした)。その後、フィンセントは拳銃を探すことを諦め、坂を下りて私たちの家へ戻ってきたのです。」36
知らせを受けたマズリ医師、そして遅れてガシェ医師が駆けつけ、彼の傷を診察しました。銃弾は左胸に当たっていましたが、貫通はしておらず、体内に留まっていたそうです。本来なら外科手術が必要な重傷でしたが、2人とも専門外。処置らしい処置はできませんでした。
それでも、意識はしっかりしていたゴッホ。ガシェ医師がテオの連絡先を尋ねましたが、ゴッホは「迷惑をかけたくない」と言って、なかなか教えようとしません。
結局、宿に滞在していた若い画家ヒルシッフが、翌朝パリへ向かい、テオに直接知らせを届けることになります。
28日の昼、テオは急いでオーヴェルへ駆けつけました。部屋に入ると、兄はベッドに腰かけ、なんとパイプをくゆらせていたそうです。少しほっとしたテオは、ヨハンナや息子の話をし、兄も笑顔を見せたといいます。
けれど、希望もつかの間。容体は次第に悪化していきました。
その間、テオはヨハンナに宛ててこう綴っています。
「かわいそうな人だ。彼はほんのわずかな幸福しか分け前にあずからなかった。もはや彼にはいかなる幻想も残されてはいない。〔……〕ああ、我々が彼に生きるための新しい勇気を与える事さえできたらいいのだが。」37
そして7月29日午前1時半――
ゴッホは、テオの見守るなか、静かに息を引き取りました。
亡くなった後、彼の荷物の中から、テオに宛てた書きかけの手紙が見つかります。その末文には、こんな言葉が記されていました。
「僕自身の仕事だが、僕はそこに命を賭け、僕の理性はそのために半ば崩壊した——まあ、それはいい——君は僕の知る限り、商人根性の人間ではない。まさしく、思いやりを持って振る舞う立場を選ぶことが君にはできる、そう僕は思っている。でも、どうしたらいいのかね。」38

第4部まとめ「旅の終りに」
ミレーに憧れて、貧しい人々のために絵を描き始めたゴッホ。
その10年間の画家人生は、まさに変化と挑戦の連続でした。
パリでは印象派に出会い、アルルでは色彩と光の表現を追い求め、サン・レミでは心の内を映し出すような独自のタッチを確立していきます。
でも、そんな中でも彼がずっと心の中に持ち続けていたのが、ミレーやドービニー、ドラクロワといったバルビゾン派やロマン派の画家たちへの深い尊敬の念でした。
彼がサン・レミから書いた手紙の中に、こんな一節があります。
「僕はこれまでになく、ドラクロワやミレー、ルソー、デュプレ、ドービニの流派の永遠の若さを、現在の芸術家はもとより未来の芸術家にも劣らず、信じているのだ。僕には印象派が、たとえば浪漫派以上のことをしているとはほとんど思われない。〔……〕今朝僕は日の出前に窓から長い間野原を眺めたが、夜明けの星があるばかり、それがとても大きいように思われた。それでもドービニやルソーはこういう絵を描き、その融和、その偉大なる平和と荘厳を一部の隙もなく表現し、しかも同時に身に沁むひそやかな己の感情を付け加えた。そういう感じが僕には嫌いになれないのだ。」39

義妹ヨハンナは、ゴッホの晩年の作品を「だんだんと悲しい調子になっていった」と語っています。
たしかに、アルル時代の《夜のカフェ》や《夜のカフェ・テラス》のような補色を効果的に使った作品は、晩年には少なくなりました。
しかし、そのかわりに、強く渦巻くようなタッチが前面に出てきます。
力強く、そして生命力のある筆致。
そこには、ゴッホの溢れんばかりの「情熱」がありました。
「僕はカテドラル(大聖堂)よりは人間の眼を描きたい。カテドラルがいかに荘厳で堂々としていようと、そこにない何物かが人間の眼の中にはあるからだ——人間の魂は、それが惨めな乞食のであろうと、夜の女であろうと、僕にとってはいっそう興味がある。」30
どんなに画風が変わろうと、ゴッホにとって「絵」とは、「魂」を描くものでした。
それが人間であれ草木であれ、彼が描きたかったのは“その奥にある何か”——つまり、対象に宿る魂そのものだったのです。
色彩や筆づかいといった技法は、あくまでそれを伝えるための手段にすぎませんでした。
そう考えると、ゴッホは評価や流行にとらわれることなく、自分の信じる表現を貫いた画家だったと言えるでしょう。
その姿勢と画風は、のちにフォーヴィスムや表現主義といった新たな美術運動にも大きな影響を与えていきます。
ある意味で、彼の芸術は晩年になってようやく「成熟し、完成された」と言えるのかもしれません。
「不遇の画家」というイメージが強いゴッホですが、もしかすると本人は、自分の歩んだ10年間に確かな達成感を感じていたのではないでしょうか。
祖国オランダを飛び出してから5年、画家を志してからは10年。
絵にすべてを注ぎ込む日々の中で、病気と闘い、孤独に耐え、
それでも彼を支えてくれる人たちも確かにいました。
そして、なによりも弟テオだけは、どんなときもゴッホを見捨てませんでした。
サン・レミで自分自身と向き合ったゴッホは、ようやく心を決めます。
——もう一度、家族に会いに行こう。大切な人たちのもとへ帰ろう、と。
彼がサン・レミを去る前にテオへ宛てた手紙には、そんな穏やかな達成感と清々しい想いがにじんでいます。
「そうだ、この旅行はとうとう終わったのだ。結局心を慰めてくれるものはただ一途に君に会いたいという気持、君や君の細君や子供や、病気中僕も思い出してはいたが僕のことを忘れず覚えていてくれた幾人かの友人たち、彼らに会いたいという非常に烈しい気持ちだけだ。」40
おわりに
これで「ゴッホを詳しく解説!」シリーズはひとまず完結です。
ゴッホというと「狂気の天才画家」といった印象を持たれがちですが、実際には、人一倍繊細で、人間らしい葛藤を抱えながら生きた人でした。そうした内面に少しでも触れてみると、作品の見え方が変わってきた…という方もいるのではないでしょうか。
実を言うと、私自身、もともとはゴッホの荒々しいタッチが苦手でした。けれど、この記事を書き進めるうちに、《糸杉》の絵が好きになっていたんです。
ゴッホの《糸杉》には「死や絶望の象徴」といった読み解きもありますが、実際のゴッホは、サン・レミで病と向き合いながらも、絵を描くことに確かな希望を見いだしていました。
あのうねるようなタッチからは、私にはむしろ“生きようとする力”が感じられます。
みなさんは、どの作品が印象に残りましたか?
このシリーズを通じて、少しでもゴッホの世界に興味を持っていただけたなら、とても嬉しいです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

死の謎、そのほかの関連記事

ゴッホの死の謎
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……いったいどういうことなのでしょうか?
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ゴッホがみれる日本の美術館
ゴッホ作品は、日本国内では企画展でしかお目に掛かれない、と思われがちですが、
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案外、身近な美術館で見ることができるかもしれませんよ!
「ゴッホがみれる日本の美術館」についてはこちらの記事からどうぞ!
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参考文献・サイト
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行
・二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行
・マリー・アンジェリーク・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード「テオ もうひとりのゴッホ」平凡社 2007年8月1日発行
・”Works Collected by Theo and Vincent van Gogh, Drawing, Joseph Jacob Isaacson”, contemporaries of van gogh, Van Gogh Museum :https://catalogues.vangoghmuseum.com/contemporaries-of-van-gogh-1/cat71-74
・Vincent van Gogh The Letters:https://vangoghletters.org/vg/
引用・出典
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1625頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1636頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1642頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2043頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷、2011~2012頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1637頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1652頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1660頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1943頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1663頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1663~1664頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1661頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2045頁 ↩︎
- “The Isolated Ones: Vincent van Gogh” ,THE VINCENT VAN GOGH GALLERY :http://www.vggallery.com/misc/archives/aurier.htm ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1721頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1718頁 ↩︎
- 二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行、262頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1951頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1701頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1954頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1726頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2058~2059頁 ↩︎
- 二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行、264~265頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1736頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行、44頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1739頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1743頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1957頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2063~2064頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、2064頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1756頁 ↩︎
- 二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行、283頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1958頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1765頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1764頁 ↩︎
- “Memoirs of Vincent van Gogh’s stay in Auvers-sur-Oise ,By Adeline Ravoux” ,THE VINCENT VAN GOGH GALLERY:http://www.vggallery.com/misc/archives/a_ravoux.htm ↩︎
- 二見、1984年7月2日、47頁 ↩︎
- 二見、2010年10月21日、288頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1634頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1729頁 ↩︎
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