第2部からの続きです。
前回のおさらい
聖職者への道を挫折し、画家を目指すことになったゴッホは、オランダのヌエネンにて大作「ジャガイモを食べる人々」を完成させました。渾身の作品ではありましたが周囲の評価は芳しくありません。
作品のモデルとのスキャンダルや父の死による家族関係の悪化からゴッホはヌエネンを去ることになってしまいますが…
アントウェルペンへ
ベルギー最大の港町、アントウェルペン
1885年11月(32歳)、ゴッホはベルギーのアントウェルペンに移住します。
ヌエネンの田舎暮らしから都会生活に移ったゴッホは、その喜びをテオへ語ります。
「僕がアントウェルペンへ来てどんなに喜んでいるか、口ではちょっと言えないくらいなのだ。〔……〕この両極端を一緒にしてみると、僕の頭にどんなに新しい想念が生まれ出てくることか。両極端、まったくの片田舎とここの大賑わい。僕は大いにこれが必要だったのだ」1
ゴッホはハーグの時と同様にモデルを求めますが、モデル代金を節約するためにある考えがありました。
「肖像画を描いてやってそれをポーズ代の支払いにかえるという考えはおそらくかなり安全な道だろう」2
「僕の最良のチャンスは人物画にある。〔……〕僕は自分の仕事が他の人の仕事と比べて引けを取らぬことを知っている。」3
人物素描を繰り返したことで自身の画力に自信を持ったゴッホは、肖像画を描いてそれをモデル料金の代わりにする計画を考えますが、ことはそう上手くは運びません。
結局、踊り子や娼婦にカネを払いモデルを雇うことになってしまいました。
そして、モデルを探すという名目でゴッホは頻繁に娼館へ通うようになります。無論、仕送りのカネを使ってです。
モデル代を浮かすどころかさらに浪費は多くなっていきます。少なるなるどころか増えていく出費にテオは、「田舎へ戻ってほしい」と頼みますが、ゴッホは癇癪を起して反抗しました。
「月に多分50フラン足りなくなるから田舎へ戻ってほしいというような頼みを君が当然のこととして僕に要求できるとは思わない。〔……〕僕らが自分で金を稼げないなら友人や新しい関係を見つけるべきだ。〔……〕やれやれ、苦労の何たるかについて一度だって考えてみたこともなく暮らしているような人間、万事は好都合に展開するものといつも考えているような人間、そういう連中がいかに多いことか!〔……〕僕の好きなようにさせるだけの誠実さを持ってくれ。僕は喧嘩したくないし、これからもそんなことはしない、だが、自分の行路を邪魔されたくないと君に言っているのだからね。」4
王立芸術学院
テオからの「田舎に戻れ」との要請に対して、どうしてもアントウェルペンを離れたくないゴッホは美術学校への入学を希望します。
テオには、美術学校では安価で裸体モデルを提供してくれ、新たな人間関係を構築できることを強く訴えました。
無事にアントウェルペン王立芸術学院に入学したゴッホは、オランダ時代に培った素描力に自信を持って意気揚々と授業に参加します。
授業ではレスラー二人をモデルに授業が行われており、ゴッホは周囲が驚くほどの勢いでモデルを描いていきました。しかし、講師である校長のシャルル・ヴェルラはゴッホの絵に目をとめた際、あきれた口調で言い放ちます。
「わしはこんな腐った犬みたいなものは直さん。さあ、君、すぐデッサンのクラスへ行きたまえ」5
「腐った犬みたいな」との評価され教室から追い出されたゴッホでしたが、頬を真っ赤にしながらも校長であるヴェルラには抗いませんでした。しかし、その後通い始めたデッサン教室ではその怒りが爆発してしまいます。
ある日、ミロのヴィーナスを写生する課題が出された際に、ゴッホはヴィーナスの腰の幅をひどく強調して描きました。それを見た教師のウジューヌ・シベールは怒りをあらわにしながらクレヨンで修正をしました。
すると、ゴッホは激怒して抗議します。
「それだから、あなたは若い女がどういうものかわかっていないのです。いやはや!女というものは腰と臀と子供を入れることのできる胎盤とを持っていなければいけないのです!」6
「デッサンとは像の部位の大きさや形態を線に見出し形を正確に表現していくこと」ということがシベールの理念でした。
しかし、ゴッホは、「輪郭からかかるのでなく、真ん中からやっつける」という謎の信念を持っており、正確さだけを求めるデッサンを「死んでいる」と吐き捨てました。
そして、この日の衝突以降、ゴッホは学校の授業には出席しなくなります。
シベールの理解が乏しかったのか、ゴッホの信念は単なる言い訳だったのかは、「ミロのヴィーナスのデッサン」が残っていないのでなんとも判断できません。しかし、当時同じデッサン教室に通っていたヴィクトル・ハーヘマンはゴッホのビーナスのデッサンについてこう語っています。
「美しいギリシャの女神は逞しいフランドルの女将になってしまった。」
「私はいまだにこの巨大な骨盤をした、ずんぐりのヴィーナスが目に浮かんできます。ファン・ゴッホの木炭から生まれ出たあのとてつもない臀部肥大の女像が。」7
梅毒
アントウェルペンにて娼館に通いだしてからゴッホの体調は著しく悪化してしまいます。
テオへの手紙では自身の健康状態についてこう訴えます。
「抜けた歯、あるいは抜けそうな歯が少なくとも10本はある。これはあまりにもひどいし、実につらい。それに、この丘で僕は40歳以上に見えてしまう。〔……〕同時に、胃が悪くなっているから手当てすべきだと僕は言われている。〔……〕先月頃から非常に具合が悪くなった。絶えず咳が出て、灰色っぽい痰を吐き始めるようになったりして、僕も心配になってきた。」8
これらの体調悪化は、一見して過度の喫煙や栄養失調が原因と考えられます。しかし、ゴッホの場合、グーピルにいた頃から娼館に通っており、ハーグにてシーンと同棲していた頃には淋病で入院していたこともありました。
不特定多数との性交渉の機会が多かったゴッホは梅毒に感染していたと考えられています。
19世紀、梅毒の治療法は確立しておらず治療は水銀を用いた方法が主流でした。服用したり燻蒸して吸い込んだり、軟膏にして皮膚に塗ったりして治療をしていたのです。また、淋病も同様の方法で治療されていました。
水銀の副作用として歯肉の潰瘍や歯の喪失があり、また当時は急性中毒症状である流延を発症させることにより病気を排出することができると考えられていました。現在では中枢神経系や臓器への有害性が報告されており、このような治療法を用いることはありません。
ゴッホの歯が抜ける症状や「灰色っぽい痰」は水銀の作用に該当します。おそらくゴッホも同様の治療方法を行っており、梅毒に加えて水銀中毒による症状が出ていたことが考えられます。
アントウェルペンからの逃亡
健康面の悪化、学院の退学etc…。アントウェルペンにて思ったような成果が上がらない状況にゴッホは嘆きます。
「僕はここへ来てあまりにも早く前進しようと願ったが為にあまり進歩しなかったかもしれない。だが、仕方がないではないか。健康状態が理由の一つでもあった。」9
ドレンテの時と同様に行き詰まり感が増す中、ゴッホが提案したのはパリへ移住しテオと同居することでした。
その無茶な計画に対して、テオはヌエネンに一旦帰って療養するよう促しますが、ゴッホに田舎へ戻る気はありませんでした。
「ねえきみ、ブラバント(ヌエネン)へ行けば、僕はまた最後の一銭までモデル代に注ぎ込むようなことになるに決まっている。またぞろ同じ話がすっかりそのまま繰り返されるだけだ。そいつはありがたい話じゃない。それでは、僕らは本来の道から遠ざかってしまう。だから、なるべく早く僕が(パリへ)行くのを許してくれ。できれば今すぐ、と言いたいところだ。」
ゴッホはテオと同居することにより家賃や食費その他の費用を浮かすことができるというメリットを主張しましたが、テオにとって問題はそこではありません。画商の才があったテオは今やグーピル商会パリ支店の支配人を務めていました。そんなテオが最も恐れたのは、ゴッホにパリでトラブルを起こされることだったのです。
父ドルス亡き今、ゴッホの面倒を見れるのは自身だけであるとテオは充分に自覚していました。しかし、ゴッホのヌエネンでの複数のスキャンダルや数々の奇行、温厚なラッパルトを激怒させた等々の背筋が凍る事実は、テオに同居を尻込みさせる充分な理由となりました。
なんとかパリへの移住を思いとどまらせたいテオでしたが、ある日パリ駅からの使いが来て手紙を置いていきました。
そこには見覚えのある字でこう綴られていました。
「一気に(パリへ)やって来てしまったのだが、怒らないでくれ。〔……〕ルーヴルへ行っている。〔……〕できるだけ早く来てくれ。」
パリへ
テオとの同居
1886年3月(32歳)パリに押しかけたゴッホはテオとの同居を始めます。
テオが元々住んでいたモンマルトルのアパートは引き払い、ゴッホのアトリエが持てるようにと広めのアパートを求め、ルピック(Lepic)通りのアパートの4階へ引っ越しました。
始めの内は大人しく過ごすゴッホでしたが、次第に生活は荒れていきます。アトリエ内に留まらずアパート内のあちこちに絵具や画材を取り散らかしました。アパートの訪問者は、
「アパートというよりも絵具屋のようになっていました」
「どこもかしこも荒れ放題でした。あらゆる部屋を乱雑にするのが好みだったのです」
と語り、一泊した客は
「朝、寝台から足を出すと、フィンセント(ゴッホ)がその辺に放置していた絵具壺に足を突っ込んでしまった」10
と話します。
新たなアパートに移ってから、1,2か月の内に、テオは良くわからない病に倒れ、雇っていた女中は逃亡してしまいました。
また、ゴッホはアパートの訪問客に口喧嘩をふっかけました。
テオの親友であるアンドリース・ボンゲルは、親友に似ても似つかないその兄についてこう語ります。
「彼は世間的な事情については全然考えもしない人です〔……〕彼は年中誰とでも喧嘩しています」
テオはある程度の被害は予想はしていましたが、常軌を逸した兄との生活は早くも限界であることを妹に訴えました。
「(ゴッホと)一緒にやっていくのは不可能で…何故なら彼は何も、誰も容赦しない〔……〕彼を見た者は誰もがこう言います、『気違いだ』と」11
コルモン画塾
ゴッホはテオの紹介によりフェルナン・コルモンが経営する画塾に入門しました。
コルモンの画風はアカデミックなものでしたが、当のコルモンは塾生にそれを強要することはなく、比較的自由に描かせていたようです。
当時、コルモンの塾生にはトゥルーズ・ロートレックやエミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ジョン・ピーター・ラッセルがいました。
アントウェルペンの美術学院の時と同様に、ゴッホはコルモン画塾においても周囲と上手く馴染めませんでした。
しかし、その中で外国人学生であったジョン・ピーター・ラッセルとは仲良くなることができ、ゴッホは彼のアトリエを出入りするようになります。その際に描かれた自身の肖像画をゴッホは大変気に入り生涯大事にしました。
しかし、その他の塾生ととは依然として馴染めず、ゴッホはコルモン画塾を3,4カ月の内に辞めてしまいます。
ゴッホはアントウェルペンの美術学院で級友だったホレイス・リーヴェンズへの手紙にてこう綴りました。
「コルモンのアトリエに通ったが、期待していたほど役には立たなかった。これは僕の方が間違っていたのかもしれないが」12
ゴッホとモンティセリ
1886年5月、パリで開催された第8回印象派展にてジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」が発表されました。筆触分割(色をできるだけ混色せずに塗っていく技法)を光学・色彩理論に基づいて描いていく全く新しい技法が用いられた「グランド・ジャット島の日曜日の午後」がパリじゅうの画家から注目されていました。
ジョルジュ・スーラは後に新印象派と呼ばれるようになります。
ゴッホも新印象派の動向について気に留めていたはずですが、1886年の秋に書かれたリーヴェンズの手紙では「アンプレッショニスト(印象派)たちのある種の絵には大いに素晴らしいと思っている」13と述べたものの、その「素晴らしいと思っている」絵として挙げているのはドガの裸婦とクロード・モネの風景のみで、印象派の最先端であるスーラやその作品については何も述べていません。
また、「アンプレッショニストたちの絵を見てからは、君の色彩も僕の色彩もそのままの方向で発展する限り彼らの理論と正確に同じではないことがはっきりした」14と語っており、印象派と自身の色彩の考え方は相いれない旨を述べています。
そんなゴッホが心酔していたのは、以前ヌエネンにて愛読してたシャルル・ブランの著書にて「偉大な色彩主義者」として崇められていたドラクロワでした。そして、その後継者にアドルフ・モンティセリをあげます。
1886年6月にモンティセリが没するとゴッホはモンティセリを英雄視し、モンティセリ風の静物画を量産するようになりました。
また、自画像においてもモンティセリの影響が見られます。
外光
ゴッホはコルモンの画塾を辞めてからはアトリエに閉じこもり制作をしていました。絵は全く売れずゴッホのフラストレーションは溜まっていく一方でした。
時折起きる癇癪は、必然的に同居人のテオに向かうようになります。
アンドリース・ボンゲルはゴッホの癇癪についてこう証言しています。
「まったく彼(テオ)に罪のないことまで何でもかでも彼を責め立てるのです」15
私生活をグチャグチャにされた上、仕事から疲れ切って帰った後も耳元でやかましく責めてくる疫病神に対してさすがのテオも我慢の限界を迎えます。
1887年3月、テオは、末妹のウィレミーンへの手紙にて心の内を打ち明けました。
「彼(ゴッホ)を援助し続けるのは、彼にとって良くないことかもしれないと自問することがある。何度、もう少しで彼を見放してしまおうとするところまで行ったろう。〔……〕僕にとっていちばん重荷になっているのがカネの問題などと思ってはいけない。問題は、僕らが今や互いに共感しえないということなのだ。僕もフィンセント(ゴッホ)を深く愛していた時代があった。いちばんの親友だったのだ。だがもう終わった。〔……〕家ではもはや耐え難い状況になっている。こうした言い争いが原因で、もう誰も僕らのもとに来ようともしない。おまけに、フィンセントはひどく不潔でだらしないありさまだ。」16
テオが兄を追放するために動こうとした際、それを敏感に察知したゴッホは頑なにしていた生活態度を改め、外に出て風景画を描くようになります。
最初はテオを宥めるために行った屋外での制作でしたが、ゴッホの画風はここにきて一変します。
パリの街の風景やアパートからの風景、セーヌ川の風景、パリ郊外の風景等、この時期にかなりの風景画が描かれました。以前のように人物画の片手間に描いていた風景画とは異なり、ゴッホが進んで制作していることが窺えます。
そして、注目する点は画面の明るさと色彩の鮮やかさです。明らかに印象派のタッチがそこにみられます。
シャルル・ブランやドラクロワ、そしてモンティセリから学んだ色彩学がパリの外光の中で実を結び、その結果、筆触分割という印象主義と同様の技法を踏襲するようになりました。
外光から明るさと色彩を見出したゴッホは制作に邁進します。
天候により外出できないときにはアトリエで自画像を描き、その中で様々なことを試しました。スーラ的な点描から線状のタッチによる描き方まで。
点描やタッチを活かした描き方は後年の作品にゴッホの特徴的な描き方としてみられるようになります。
浮世絵
テオを宥める作戦は成功し、ゴッホはパリから追放される危機を脱します。
テオは妹への手紙にて
「僕らは仲直りした。このまま上手くいくといいのだが。〔……〕フィンセントは一生懸命仕事をして、上達している。絵が明るくなってきた。太陽の光を取り込もうとしているんだ。」
と報告しました。
その頃、テオが勤めるグーピル商会は、当時大きく話題を集めている印象派の画家を取り込み、顧客の新しいニーズに応える方針で動き出しました。そして、その画家たちを発掘する役目としてテオが選ばれます。テオは手始めにパリ支店のアントルソル(中2階)に1ダースのクロード・モネの作品を展示し、それは美術市場にて大きな話題となりました。
ルピック通りのテオのアパートには、テオとの繋がりを求めてパリじゅうの若い画家が訪ねてくるようになります。
その中にエミール・ベルナールがいました。
野心家のベルナールはテオの歓心を買うためにゴッホとも交流するようになります(他の者はゴッホの気質を恐れて関わろうとしなかった)。ベルナールの明らかな打算的な付き合いから始まった関係でしたが、二人は仲良くなりました。後年、ゴッホの葬儀においても少ない参列者の中にベルナールはおり、ゴッホ死後の展覧会の開催にもベルナールは積極的に協力しています。
ベルナールはゴッホより15歳も若い年齢でしたが、近代美術を「単純化された広い面」と「明瞭な輪郭線」で構成されるもっと単純化された様式に発展させようと考えていました。
ベルナールはそのイメージの具体的な例として日本の浮世絵をあげました。
ゴッホは既にアントウェルペンのアパートにいた際に浮世絵を部屋に飾っていましたが、自身の芸術の指針として浮世絵を意識したのはこれが初めてでした。
新たな天啓に導かれたゴッホは東洋美術を扱う美術商ジークフリート・ピングの店に押しかけて浮世絵を買いあさり、浮世絵の模写を始めます。
そして、ゴッホは浮世絵をとおして多くのことを学びました。西洋画特有の遠近感からの脱却、対象を平面的に描くことで得られる色彩の効果、輪郭線で色面を分断する効果etc…
パリの外光や浮世絵の色彩をすさまじい勢いで取り入れながらゴッホは独自の画風を確立していきます。
パリを去る
1888年2月(34歳)ゴッホはパリを去りました。
テオとの関係は良好であったにも関わらず、ゴッホは自らテオとの共同生活に終止符を打ち南へ向かいました。
ゴッホがパリを去った理由は正確には分かっていませんが、テオの健康面に配慮した為と言われています。
ゴッホはテオに当たり散らすことはなくなったものの、アブサンや葡萄酒、ビール、コニャック等、アルコールを過剰に摂取していました。娼館にも相変わらず通っていました。テオは兄を諫めることはしなかったどころか、そんな兄の不摂生な行いを真似するようになります(前年テオは、ヨー・ボンゲルに求婚して断られた経緯があった)。元々身体が弱かった弟の健康面は悪化していき、それを憂いたゴッホ側から袂を分かったという説です。
アルルへ
南仏アルル
ゴッホがアルルを移住先に選んだ正確な理由は不明です。
しかし、アルルから送ったテオやベルナール宛の手紙では、
「雪の中で雪のように光った空をバックに白い山頂をみせた風景は、まるでもう日本人の画家たちが描いた冬の景色の様だった。」17
「僕は日本にいるような気がするのだ」18
「まず、この土地が空気の澄んでいることと明るい色彩効果の為に日本のように美しく見えるということから始めたい。水が風景の中に美しいエメラルドと豊かな青の斑紋を描いて、まるで、クレポン(浮世絵)のなかで見るのと同じ趣だ。」19
と語っています。もしかしたら日本の情景を求めて降り立った場所がアルルだったのかもしれません。
黄色い家
アルルに到着してから数カ月はレストラン・カレルに部屋を借りていましたが、主と賃貸料金のことで揉めた末、転居せざるを得なくなります。
ゴッホが新たな居住先として選んだのはレストラン・カレルから数ブロック北にある「黄色い家」でした。
黄色い家には電気もガスも通っておらず(後にテオの仕送りでガスを通す)、トイレもないので隣の宿のトイレを借りる必要がありましたが、ゴッホはその家をとても気に入りました。
「外側は黄色いペンキが塗られ、内側は白石灰で日当たりがとても良い。〔……〕日当たりがいいんだから、うんと明るい室内で絵がみられるというわけだ。」 20
「この家の外側は新鮮なバターのような黄色に塗られていて、けばけばしい緑の鎧窓がある〔……〕〕この家の中にいると僕は生活し、呼吸し、瞑想し、絵を描くことができる。僕の血液が人並みに循環するためには、強い暑さがどうしても必要なのだから北国にかえるよりは、さらに南国にゆく方がいいと思われる。ここにいるとパリにいる時よりも調子が良い。」21
1888年5月から黄色い家をアトリエとして利用しだし、家具がそろった9月から居住するようになります。それまで近隣のカフェ・ド・ラ・ガールに部屋を借りて寝泊まりしていました。
そして、ゴッホはこの黄色い家を「裏通りの画家」の為のコミュニティにすることを計画します。 (ゴッホはドガやモネのように既に売れた画家を「大通りの画家」と呼び、才能があるが売れない画家を「裏通りの画家」と呼んでいた)
「パリの哀れな馬車馬たち——君や僕らの友人や貧しい印象派の画家たち——を疲れた時には放牧してやれる隠れ家を作れたらいいがと思っている。」22
画家のコミュニティをつくること。それはテオの商業的な利点につながるとゴッホは強く主張しましたが、そこには自身の孤独を埋めるという意味合いも多分に含まれていました。
パリを離れ、再び孤独になったゴッホは7年前のエッテンでラッパルトと過ごした日々を思い出します。画家同士の友情、素描をして陽気に過ごした日々は忘れがたいものでした。
そして黄色い家に自身の理想を夢見ます。
「僕は必要とあれば、新しいアトリエに誰かと二人で暮らしても良く、またそうなればいいと思う。」 23
夜の色
アルルにおいてゴッホは数多くの絵画を描いていきます。その中には夜景を描いたものが何点かあります。
ゴッホは夜景を描くために夜中であっても屋外にて制作しました。そして夜景からも鮮やかな色彩を見出します。
「僕には良く夜の方が昼よりもずっと色彩が豊かであり、最も強い菫色や青や緑の色合いがあるように思えることがある。ちょっと注意をしてみたら、或る星たちはレモン・イエローで、また別な星は燃えるようなピンク、或いは緑、青、勿忘草色の光輝をもっているのがわかるはずだ。それに青黒い色の上に小さな白い点々を置いただけでは足りぬことは敢えて言うまでもなくわかりきった話だ。〔……〕夜景を実地で描くのは大変おもしろい。従来人がデッサンしたり描いたりしたものは、簡単にスケッチをした後で、真昼間やったものだ。しかし僕は現場で事物を描くことに喜びを覚えている。」24
「夜のカフェ・テラス」もこの時期に描かれました。
ゴッホは夜景の中から微妙な色彩を見分け描いていきました。
「この夜の絵には黒が全くなく、専ら美しい青と菫色と緑で描かれ、周囲の光に照らされた広場は薄い硫黄色と緑がかったレモン・イエローを帯びている〔……〕もちろん色の質を正しく見分けがたいから、暗がりの中では、青を緑と間違えたり、青薄紫をピンクの薄紫と間違えたりすることがあるのは事実だ。しかしそれは一本の蝋燭でも極めて豊かな黄色やオレンジ色を与えるのに、あわれな青ざめた白っぽい光りで夜景を描く従来の因習を脱する唯一の方法だ。」25
光の中の微妙な色彩の移り変わりを観察できる能力は、色彩の移り変わりを誇張して描く方法を発見しました。
その鋭敏な色彩感覚と浮世絵やベルナールから学んだ「輪郭線や色面で画面を構成し装飾的かつ象徴的な効果をもたらす」スタイルを独自に発展させ制作していきます。
その様子が顕著にみられるのが1888年9月に制作された「夜のカフェ」です。
「夜のカフェ」のモデルは、黄色い家の家具が揃うまで仮住まいとしてゴッホが滞在したカフェ・ド・ラ・ガールです。カフェ・ド・ラ・ガールは夜中も営業しており、宿賃がない放浪者が夜を明かす際に良く利用していました。ゴッホは夜間のカフェの怪しい雰囲気を描くため3日連続徹夜し「夜のカフェ」を描きました。
「僕は『夜のカフェ』で、カフェとは人々が身を持ち崩し、気狂いになり、罪を犯すところだということを表現しようと努めた。柔らかいピンクや鮮紅色の葡萄の絞り槽様の赤、堅い黄緑色と青緑色にうつりあったルイ15世風、ベロネーズ風の柔らかな緑、地獄の坩堝、青白い硫黄色の雰囲気の中にあるこれらすべてのもの、それを対照させて、何か居酒屋の闇の力のようなものを表現しようとしてみた。」26
作品の中で使われた赤と緑の補色関係は「人間の恐ろしい情熱」を意味すると手紙の中で述べており、ゴッホは赤の持つ情熱性と緑が持つ優しさを対比させることで生じる不安定な感情を表現しようとしました。
ゴッホは色彩によって鑑賞者の感情に訴えかけることを意図し、また、色彩以外の表現方法として物を単純化して描くことや歪めて描くこと、非物質的なものまで描写することに挑戦しました。このスタイルは後に、フォービズムや表現主義に継承されることになります。
また、この描き方は自然の光りを追って描いていく印象派のスタイルとは一線を画すものでした。ゴッホが印象派に大きく影響を受けたことは間違いありませんが、ゴッホは印象派と同じものを描こうとしたわけではありませんでした。
以前、ゴッホは風景画を描いた際に以下の様に述べています。
「僕はカテドラル(大聖堂)よりは人間の眼を描きたい。カテドラルがいかに荘厳で堂々としていようと、そこにない何物かが人間の眼の中にはあるからだ——人間の魂は、それが惨めな乞食のであろうと、夜の女であろうと、僕にとってはいっそう興味がある。」27
ゴッホがはヌエネン時代から、あるいは画家になる前の伝道師時代から興味があったのは「人間」でした。
宗教を愛したのも、画家の駆け出し時代からモデルを雇って人物素描を続けたのも、シーンと生活を共にしたのも、テオに批判されながらも農民の生活を描いたのも、ゴッホが一貫して「人間の魂」にこの上ない関心を持っていたからに違いありません。
ゴッホはアルルにて、「人間の魂」を表現する方法を独自のスタイルとして確立していきます。それは人物画に限らず、「夜のカフェ」のような風景画や静物画にも及びました。
ゴーギャンと向日葵
ゴッホはパリ時代の画家仲間のゴーギャンが生活費に困っていることを知りました。
そこでゴッホはテオへある計画を提案します。
それは、ゴッホとゴーギャンが黄色い家で共同生活をし、その生活費に毎月250フランをテオが負担する、加えてゴーギャンはその代わりに毎月少なくとも1作品をテオの元へ送るというものでした。ゴーギャンは生活費を気にすることなく制作に打ち込めるし、テオもゴーギャンの作品を手に入れることができるため一石二鳥な計画に思われました。
「多分ゴーギャンが南仏へ来そうだ。」28
ゴッホはゴーギャンとの共同生活を始めるために嬉々として準備を開始します。
テオから追加の支援を要請しゴーギャン用の家具をそろえる一方、ゴッホは部屋に絵を飾ってゴーギャンを迎えようと考えました。そして、その絵の題材として選んだのは向日葵でした。
ゴッホとゴーギャンはかつてパリ(1887年12月)にて知り合い、その際にそれぞれの作品を交換し合っていました。
ゴーギャンはマルティニーク島で描いた作品を、ゴッホはパリで描いた向日葵の絵2点をお互いに交換しました。
この頃、テオの出世に伴いそのコネを求めて多くの画家がゴッホの周りに近づいてきました(実際にゴッホと深い仲になったのはごく少数でしたが)。ゴーギャンもその例外ではありませんでしたが、この時に交換した向日葵の作品2点「向日葵(メトロポリタン美術館蔵)」と「二つの切られた向日葵(ベルン美術館蔵)」をゴーギャンはとても気に入り、後年にはパリのスタジオに飾ったほどです。(しかし、ゴッホの死後1890年代にパナマへの旅費の為に売られてしまいます)。
ゴーギャンが向日葵の作品をとても気に入ってくれたことを良く覚えていたゴッホは、黄色い家に飾るには向日葵の絵しかないと考えました。
「僕はブイヤベースを食べるマルセーユ人の熱心さで、絵を描くのに熱中している。」29
向日葵は夏だけにしか描けなかった為、ゴッホは怒涛の勢いで描き、8月中に以下4点もの向日葵の作品を制作しました。
ゴーギャンとの共同生活が始まった後も上のオリジナル作品を元に3点の複製作品を制作しました。
ゴッホはゴーギャンがアルルを去った後も向日葵の絵を描いています(季節的に向日葵が手に入らなかった為、夏に描いたものを見ながら)。
しかし、何故向日葵の絵をこんなにも量産したのでしょうか。
手紙の中では以下の様に言及しています。
「僕は頭の中でこういう画布(「ゆりかごを揺らす女」)を向日葵の画布の間に置いてみる、すると向日葵の画布は同じ大きさの大燭台か脇ぞえの枝付燭台となり、全体はしたがって七ないし九の画布で構成されることになる。」30
「『ゆりかごを揺らす女』を中央に右と左に向日葵の二点を置けば、三双一曲になることもついでに心得ておいてほしい。そうすれば中央の黄色とオレンジの色調が隣り合った両翼の黄色の為に一層輝きを増す。」31
ゴッホは向日葵と人物画を三連祭壇画のように飾ることを考えていました。
それ故に、人物画を囲むための向日葵が複数枚必要だったのです。
また一方で、1889年1月以降の複製画に関しては、ゴーギャンに与えるため制作したものとも考えられます。
パリで交換した向日葵の絵と同様に、黄色い家に飾った「向日葵」をゴーギャンは大変気に入りました。
ゴッホとの不和からアルルを去った後にゴーギャンは手紙にて、黄色い家に残していた自身の習作とゴッホの向日葵の交換を持ちかけています。
オリジナルはテオの元へ送る必要があった為、ゴッホはこれを拒否します(しかもゴッホはゴーギャンがアルルを去ったことに対してかなり怒っていた)。
しかし、ゴーギャンに評価され悪い気分ではなかったのでしょう、
「ゴーギャンに向日葵の絵を一点やれば喜ぶだろうから、何とかして喜ばせてやれればと思う。それでもし彼が二点のうち一点を望めば、ままよ、二点のうち彼のほしい奴を作りなおそう。〔……〕ゴーギャンはこの絵が格別好きだ。彼はなかでも特にこう言ったものだ。『これこそ…花だ』と。」32
と後日考えを改めて、複製画を制作しました(しかし、完成後にアルルの病院へ入院した為、ゴーギャンに渡すことはできなかった)。これが1889年1月以降の複製画2点にあたると考えられます。
共同生活の始まり
1888年10月23日にゴーギャンはアルルの黄色い家を訪れ、ゴッホとの共同生活を開始しました。
ゴッホにとっては待ちに待ったゴーギャンとの共同生活でしたが、ゴーギャンの心境は真逆でした。
ゴーギャンは黄色い家での共同生活を承諾してから、体調不良を理由にしたりしてアルルへ行くのをかなり尻込みしていました。理由は無論、ゴッホと一緒に暮らすことをかなりネガティブに考えていたからです(ゴッホの気難しさはパリの画家仲間内で共有されていた)。
それでもパリのテオとの繋がりは得難い利点であり、アルルでの生活費の援助もブルターニュでカネに困っていたゴーギャンにとって非常に魅力的な提案でした。
ゴーギャンはアルルへ出発する前に、友人のエミール・シュフネッケルへの手紙にて以下の様に綴りました。
「今月の終りにはアルルへ出発するが、この滞在はカネの心配をせずに仕事を楽にするのが目的なのだから、世間に乗り出せるようになるまで、長い間アルルで暮らすっことになると思う。」33
黄色い家を「裏通りの画家の避難所」に発展させていくという大きな理想を追っていたゴッホとは対照的に、ゴーギャンはアルルの滞在で得られる利点を現実的に見定めていました。
そして、それは実際に上手くいきました。アルルに着いて数日後にパリのテオの元でゴーギャンの作品が売れ、アルルに滞在中の2か月の内に計5点もの買い手が付いたのです。
ゴーギャンの成功はテオの成功を意味しました。ゴッホもゴーギャンの成功を「僕だって嬉しい」と喜びましたが、一方で手紙とともに送られてくるゴーギャンへの報酬を嫉妬と羨望の眼差しで見ていました。
「絵が売れなければ、どうしようもない。〔……〕僕は自分の絵もいつかは売れる日が来ると思うが、君に対してこんなに払いが滞り、カネばかり使って収入があげられない。それを思うとときどき僕は憂鬱になる。」34
同じような境遇(ゴーギャンも本格的に画家を目指したのは30代になってからだった)のゴーギャンの成功は、一度も作品が売れたことがなく、何一つ結果が残せていないゴッホに焦燥感を抱かせ始めました。
衝突
ゴッホはゴーギャンとともに葡萄畑やカフェ・ド・ラ・ガールのジヌー夫人を一緒に描くなど制作活動に邁進していきました。
ゴーギャンは綜合主義(作品に象徴性や精神性を反映させようとする一派)を掲げ、自然描写を主とした印象主義・写実主義に反発していました。特にゴッホの様な勢いに任せて短時間で描き切るスタイルはゴーギャンにとってナンセンスに映りました。そこでゴーギャンはゴッホに全くの想像で描くことを勧めます。
ゴッホはゴーギャンの意見に応えて「小説を読む人」や「エッテンの庭の記憶」等、モデルを使用せずに制作しますが、あまり芳しい出来栄えではなかったようです。
テオへの手紙にて想像で描くことは自身のスタイルには合わない旨を述べています。
「僕はヌエネンの後援を描いたあの作品(おそらく「エッテンお庭の記憶」のこと)だめにしてしまった。想像で仕事をしようとすると、どうしてもこういう癖が出るようだ。」37
また、ゴッホの方もゴーギャンの作品に対して意見をしました。例のごとく細かな間違いや自身の考えを執拗に訴えながら。それはやがてゴーギャンをうんざりさせていきました。
ほどなくして、ゴーギャンはベルナール宛の手紙にて
「ヴァンサン(ゴッホ)と私は意見が一致することは殆どない。特に絵に関しては。」
と愚痴をこぼし始めます。
こうした衝突は絵のことのみならず、生活面でも起きました。
アトリエ内の乱雑ぶりは相変わらずで、カネの使い方も無計画でいい加減なゴッホにゴーギャンはすぐに辟易します。
船員や株の仲買人の経歴を持つゴーギャンが炊事や会計係を担当し、生活能力ゼロのゴッホを支えようとしますが、料理をゴッホに教えても出てくる料理は「食えたものではなかった」そうです。ゴッホにできる家事は買物くらいでした。
ゴッホはゴーギャンのことを尊敬していました。しかし、絵が売れないことの劣等感や芸術性の不一致、ゴーギャンの経済面や生活面への干渉等はゴッホをイライラさせ始めます。
そして、それはエッテンでラッパルトを激怒させた、あるいはパリで最大の理解者であるテオを寝込ませた癇癪となってゴーギャンを襲いました。
耳切り事件
ゴーギャンとの破局、テオの結婚
ゴーギャンは執拗に突っかかってくるゴッホを嫌って台所で絵を描くようになりますが、寝室へは必ずゴッホの部屋を通らねばならないためゴッホと会わずに済む日はありませんでした。
我慢の限界に達したゴーギャンはテオに、同居生活の継続が不可能である旨を訴えます。
「売れた絵の代金の一部を送ってもらえるとありがたく思います。清算がすっかりすめば、僕はパリへ戻らねばならない。フィンセント(ゴッホ)とぼくとは気性の違いからいざこざなしにはもう絶対一緒に暮らすことはできません。彼も僕も仕事の為に平静を必要としています。」38
ゴッホはおそらくゴーギャンから直接的に黄色い家を出ていく旨を聞いていませんでしたが、持ち前の敏感さでゴーギャンの心情を察しました。
「ゴーギャンはこの楽しいアルルの町にも、僕らの仕事場のこの小さな黄色い家にも、またとりわけ僕自身に少々嫌気場さしたんだと思う。」39
同時期にはテオがヨー・ボンゲルと結婚することが判明します。
結婚自体は喜ばしいものでしたが、テオがグーピルから独立してアルルに来ることを心の隅で願っていたゴッホにとって急な結婚の話は寝耳に水でした。
「見捨てられるかもしれない」
テオにその気がなくとも、ゴッホの頭の中には不穏な疑念が沸き起こりました。
ゴーギャンをはじめ、ゴッホに近づいた人間はことごとく離れていきました。その他の人間はゴッホに近づこうともしません。ラッパルトとの決別、父ドルスの死、シーンとの別れetc…その不和や不幸の度に、ゴッホはその原因を周囲の寛容のなさとその環境のせいにしていましたが、ゴーギャンとの破局によりその根本的な原因は自身にあることを悟ります。
また、ゴーギャンの成功とは対照的にゴッホは依然としてテオからの援助を必要としており、自立の目途は全く立ちませんでした。入院の後にゴッホは手紙の中で以下のように述べています。
「もし僕の為に他人の生活が犠牲にされるというなら、まだしも独房にこのままずっと暮らしている方が良い。」40
テオにこれ以上迷惑はかけられない。それにこうした経済的な見栄から弟の結婚を心の底から喜べない自分にゴッホはどうしようもない自己嫌悪を感じました。
こうした葛藤はゴッホの神経を高ぶらせていきます。
生誕祭前
1888年12月23日の夜、ゴーギャンは外出をしました。長く降り続いた雨の合間を縫って娼館かカフェに行こうとしたのかもしれません。
ゴーギャンが近所の公園まで歩みを進めたところ、背後に気配を感じます。そこにはゴッホがいました。この頃、ゴッホの様子がおかしいと感じていたゴーギャンは、怪しみながら声を掛けました。するとゴッホは言いました。
「君は行くのか?」
ゴーギャンは唐突な質問に答えを窮し「ああ」とだけ答えました。
するとゴッホは「殺人鬼、逃亡す」という新聞の記事の切り抜きをゴーギャンに手渡しその場を去ります。その切り抜きに何の意味があるのか、不審に思ったゴーギャンはこの日黄色い家には帰りませんでした。
一方、黄色い家に戻ったゴッホは躁狂の発作を起こし、剃刀で自身の左耳を切り落とします。
そして耳を新聞紙に包み、その包みをゴーギャンのお気に入りの娼婦であるラシェルに渡すよう娼館前の歩哨に「僕を思い出して」というメッセージ付きで託しました。
おそらくですが、その娼館にゴーギャンがいるだろうと考えたゴッホは娼婦宛てではなく、ゴーギャン宛にその片耳が入った包みを届けたものと思われます。
アルル市立病院
1888年12月24日の朝、黄色い家のベッドで意識がない状態で発見されたゴッホはアルル市立病院に担ぎ込まれます。
入院後、耳の治療が施されゴッホの意識は回復したものの、せん妄状態が続き精神的に不安定な状態が続きました。
25日にゴーギャンの電報を受けたテオがアルルへ到着しゴッホと面会しました。テオは、当時のゴッホの状態を妻ヨー宛てに書き残しています。
「僕が彼のそばにいた時、わずかだが調子がいい瞬間があった。だがすぐに、神学や哲学的なうわ言に戻ってしまう。そこに居合わせているのはあまりにも悲しい。時折、彼は自分の病気に気が付いて、その時は泣こうとするのだけど、泣くことができないんだ。」41
テオはゴッホの状態の報告役を郵便配達員のルーラン(アルルでゴッホに最も親しかった友人)と現地のプロテスタントの牧師であるフレデリック・サルに依頼して、その日の内にゴーギャンとともにアルルを発ちパリへ戻りました。
ルーラン曰くゴッホは時折「恐ろしい発作」に襲われるため独房へ隔離されていましたが、次第に回復し12月29日には共同部屋に戻ることができました。ゴッホは年明けに自身の体調についてテオ宛に手紙を書いています。
「僕はまもなくまた仕事にかかれようと思っている。」
「君が心配すると僕は余計に不安になるから、今君に願うのは唯一つ、心配しないでおいてくれることだ。」42
担当のレー医師もゴッホの回復について良好な旨を同手紙に書き添えました。
「幸いなことに私の予想が的中して、異常昂奮はほんの一時性のものでした。二、三日中には元通りの人間にかえれるだろうと確信します。」43
そして1月7日ゴッホは無事に退院し黄色い家に戻りました。
1月中に前述した向日葵の2枚の複製画や「ファン・ゴッホの椅子」「ゴーギャンの肘掛け椅子」等を制作しています。また、世話になったレー医師に肖像画を描いて贈りました。
しかし、2月になると精神状態は再び悪化していきました。
ゴッホは退院した時には「何でもなかったのだ」と思っていましたが、後々になって「自分が病気だという感じがした。」とテオに打ち明けています。また、
「デルフォイ神殿の三角床几の上で神託が唱えられるように、僕は熱狂や狂気や予言で身がよじられる時がある」44
と発作の予兆を手紙に綴っています。
次第に「何者かに毒を盛られる」との被害妄想を持つようになり、2月7日、その様子を不審に思った近隣の住民が警察へ通報、再度アルル市立病院の独房へ収容されました。
周囲の不審、3度目の入院
1889年2月17日、再び落ち着きを取り戻したゴッホは仮退院を許されます。
しかし黄色い家の周辺の人々の間では、不穏な空気が漂っていました。日頃からその奇矯な行動により周囲から注目されていたゴッホへの不信感は、耳切り事件やその後の異常行動によってさらに深いものとなっていたのです。
ゴッホもその違和感に気付き以下の様に述べています。
「どうやらこの土地には何か曰く因縁があって、それでみんなは絵を怖がっているらしい。」45
しかし、ゴッホ本人は病気について
「僕の精神が平衡を欠いていたのだから、君の親切な手紙にいくら返事を書こうとしてもダメだったろう。」46
と自身の疾患を認めこそしていたものの、テオに不要な心配をさせないためか、単なる「地方病にすぎない」と重く受けとめてはいませんでした。
2月26日、近隣の住民の請願書によりゴッホは再々度、病院に収容されます。
請願書は黄色い家の近隣の住民約30名の署名入りで市長へ提出されました。
請願書による聞き取り調査にて、近隣住民らは、ゴッホが婦人にセクハラまがいのことを行って家まであとをつけただとか、子供たちを追い回したり、商店で客を侮辱した等々、誇張された証言を付け加え、ゴッホを黄色い家から追い出そうと画策しました。
ゴッホは自身の3度目の入院について、また近隣住民の謀略について悲しみ憤慨しながらテオへ手紙を書きました。
「ただ一人のそれも病気の男に対して、多数よってたかって掛ってくる、そんな卑怯者がこれほどいると知った時、それこそ僕はどてっ腹を棍棒で殴られる気がしたものだ。〔……〕こんなひどい目にあい辛い思いをするくらいなら、いっそ死んだほうがましだ。」47
シニャックの訪問
1889年3月23日、結婚の準備に追われていたテオは、ポール・シニャックにゴッホの様子を見るよう依頼します。シニャックはマルセイユのカシスに行く途中にアルルに寄りゴッホを見舞いました。
シニャックの付き添いによりレー医師から外出の許可が下り、ゴッホは1カ月ぶりに黄色い家に帰ります。
「彼(シニャック)は実に誠実で公明で、また実に率直だった。〔……〕シニャックは粗暴だという評判だけれども僕は非常に冷静な男だと思う。泰然自若たる男、専らそういう感じだ。これまで印象派の画家と話をしていて両方がこれほどまでに意見の不一致や衝突を見ず後味も悪くなかったためしはめったに、いや全然ない。」48
ゴッホはシニャックのことを大変気に入り、ニシンの静物画をプレゼントしました。
シニャックもゴッホのことを好意的に評価し、テオへゴッホの状態が良好であることを伝えます。
「彼(ゴッホ)の絵を見にゆきましたが、非常にいい絵がたくさんあり、どれもが大変面白いものです。〔……〕私が見たところ彼はすみからすみまで健康で健全であったということを、特にはっきり申し上げておきます。彼の唯一の願いは——落ち着いて仕事が出来るということです。どうかそういういい状態に彼をおいてやるよう万々よろしく願います。」50
シニャックはゴッホの精神状態に全く異常はない旨をテオに報告しましたが、その報告とは裏腹にシニャックは黄色い家に滞在している間、ゴッホの異常行動を目にしています。
黄色い家にいる間、シニャックはゴッホと絵画や文学の話をして過ごしていましたが、突然ゴッホが異常昂奮を来たし、テレピン油を呑もうとしたのです。シニャックはこれを制止し急いで市立病院に戻って医師に報告しました。
シニャックは病院に監禁状態となっているゴッホに同情した為か、この事実を伏せてテオに報告したのでした。
発作はゴッホを定期的に襲うようになっていました。
アルルを去る
黄色い家に戻れなくなったゴッホはレー医師の持ち家の二部屋を借りることになりますが、ゴッホは独り暮らしをすることに対して不安を抱くようになっていました。
「アルルか他のところで、新しいアトリエを借り、そこで独り暮らしをすることは到底僕には出来まいし、したところでさしあたり同じ結果になってしまう」52
黄色い家には近隣住民との不和がありもう戻ることはできません。
黄色い家で荷造りをしながらゴッホは「画家の共同体」の計画が潰えてしまったことを痛感しました。
「何かはっきりしない重苦しい後悔がいまだに僕の心に残っている」53
また、絵を描いてゴーギャンの様に成功することを諦めかけていました。
「それに君もよく解っているように、いまさら成功の見込みはまるでない。」54
「画家としては僕はまかり間違っても絶対大物にはなれないと感じている。」55
失意の中、ゴッホはサル牧師から薦められたサン・レミ(アルルから20~30km程度北東にある地域)の精神病院への入院を自ら希望します。
そしてゴッホは、1889年5月の初旬にアルルを去りました。
参考文献・サイト
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行
・マリー・アンジェリーク・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード「テオ もうひとりのゴッホ」平凡社 2007年8月1日発行
・二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行
・食品安全委員会「ハザード概要シート(案)(水銀)」中毒症状 https://www.fsc.go.jp/sonota/hazard/osen_1.pdf 2024年5月3日参照
・Wikipedia「梅毒の歴史」歴史的な治療法 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%AF%92%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 2024年5月3日参照
・厚生労働省「職場の安全サイト」安全データシート 水銀 https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/7439-97-6.html#:~:text=%E4%B8%AD%E6%9E%A2%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B3%BB%E3%80%81%E8%85%8E%E8%87%93%E3%81%AB%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%80%81%E8%A2%AB%E5%88%BA%E6%BF%80,%E3%81%8C%E7%A4%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 2024年5月4日参照
・ファンゴッホ美術館https://www.vangoghmuseum.nl/en
・「On the Banks of the River, Martinique」,contemporaries of van gogh, Van Gogh Museum https://catalogues.vangoghmuseum.com/contemporaries-of-van-gogh-1/cat53 2024年5月25日参照
引用
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷、1273頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1254頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1257頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1277~1278頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1316頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1316頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1317頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1288頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1296頁 ↩︎
- スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行、55~56頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、56頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1325頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1324頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1325頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、59~60頁 ↩︎
- マリー・アンジェリーク・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード「テオ もうひとりのゴッホ」平凡社 2007年8月1日発行、122頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1338頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1346頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷、1964頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1367頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1931頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1346頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1369頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1930~1931頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1931頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1476頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1264頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1369頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1463頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1580頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1627頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1579頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1540頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1540~1542頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1552頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1548頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1550頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1560頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1559頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1595頁 ↩︎
- オザンヌ・ジュード、2007年8月1日、152頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1561~1562頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1563頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1585頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1588頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1588頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1592頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1596頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1596頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1598頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1605頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1608頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1614頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1616頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1618頁 ↩︎
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