こんにちは!”アートおへんろ”にようこそ!
前回【第2部】では、ゴッホが画家を志してから、祖国オランダでどんな絵を描いていたのかをご紹介しました。
今回はその続き、「アルル時代」について解説していきます!
(前回をまだ読んでない方はこちらから!)

ゴッホの「アルル時代」って?

ゴッホがあの色鮮やかなスタイルを確立したのは、まさにこのアルル時代。
《ひまわり》や《夜のカフェ・テラス》など、誰もが一度は目にしたことがある有名な作品の多くが、南仏アルルで生まれました。
まさにゴッホの“黄金期”とも言える時期です。
でも、そこに至るまでには、アントウェルペンやパリでの経験、そして多くの出会いや刺激がありました。
ゴッホはいったい誰と出会い、どんなものに心を動かされて、あの独自の画風をつくり上げていったのでしょう?
それでは、一緒に見ていきましょう!
アントウェルペンへ

(1885年12月、チョーク)

ベルギー最大の港町、アントウェルペン
1885年11月、32歳のゴッホはオランダの田舎町ヌエネンを離れ、ベルギー最大の港町・アントウェルペンへと移り住みました。
賑やかな都会の空気にふれて、ゴッホは久々に心を躍らせます。弟テオへの手紙でも、その興奮が伝わってきます。
「僕がアントウェルペンへ来てどんなに喜んでいるか、口ではちょっと言えないくらいなのだ。〔……〕この両極端を一緒にしてみると、僕の頭にどんなに新しい想念が生まれ出てくることか。両極端、まったくの片田舎とここの大賑わい。僕は大いにこれが必要だったのだ」1
都会での生活、そしてモデル探し

アントウェルペンでも、ゴッホはこれまでと同じように人物画に力を入れます。ただし今回は、ちょっとしたアイデアがありました。
「肖像画を描いてやってそれをポーズ代の支払いにかえるという考えはおそらくかなり安全な道だろう」2
「僕の最良のチャンスは人物画にある。〔……〕僕は自分の仕事が他の人の仕事と比べて引けを取らぬことを知っている。」3
モデルにお金を払う代わりに、肖像画をプレゼントすればいい──そんな目論見でした。
しかし、現実は甘くありませんでした。
やがてゴッホは娼館に通うようになり、踊り子や娼婦にお金を払ってモデルになってもらうようになります。結局のところ「節約」のはずが、むしろ出費は膨らむ一方…。
困り果てたテオは、ゴッホに「田舎に戻ってほしい」と申し出ますが、ゴッホはこれに強く反発します。
「月に多分50フラン足りなくなるから田舎へ戻ってほしいというような頼みを君が当然のこととして僕に要求できるとは思わない。〔……〕僕の好きなようにさせるだけの誠実さを持ってくれ。」4
ヌエネンを離れるきっかけとなった、あの“頑固さ”と“こだわりの強さ”。
あの性格は治るどころか、むしろパワーアップしていたようです。
王立芸術学院

画像:by Friedrich Tellberg
田舎に戻ってほしいというテオの要請に、どうしても納得できなかったゴッホ。彼は「美術学校に通いたい」と主張し、なんとかアントウェルペンに留まろうとします。
テオにはこう伝えました。「学校では安く裸体モデルが使えるし、新しい人との出会いもあるんだ」と。
こうして、ゴッホはアントウェルペン王立芸術学院に入学します。
授業にも意欲的に参加し、オランダ時代に培った素描力を武器に、モデルとして立った二人のレスラーを驚くほどのスピードと勢いで描き上げました。
ところが――。
その絵を見た校長、シャルル・ヴェルラは、呆れたようにこう言い放ちます。
「わしはこんな腐った犬みたいなものは直さん。さあ、君、すぐデッサンのクラスへ行きたまえ」5
デッサン教室での衝突
「腐った犬」とまで言われたゴッホでしたが、指示に従ってデッサン教室へ移動。しかし、ここでもトラブルが待ち構えていました。
ある日、課題でミロのヴィーナスを描くことになりました。
ところがゴッホの描いたヴィーナスは、なぜか腰がやたらと大きい。
それを見た教師ウジューヌ・シベールがクレヨンで手を加えると、ゴッホの怒りが爆発します。
「それだから、あなたは若い女がどういうものかわかっていないのです。いやはや!女というものは腰と臀と子供を入れることのできる胎盤とを持っていなければいけないのです!」6
この発言は当時の学院でもかなり衝撃的だったようで、シベールとは真っ向から対立。彼の考える「デッサン」とは、あくまで線と形の正確な再現。しかしゴッホは、「命が通っていない」として、それを強く否定しました。
この一件以来、ゴッホは授業に出席しなくなります。
思い返せば、伝道師時代の養成学校でも途中で辞めてしまったゴッホ。
どうやら、彼の頑固でこだわりすぎる性格は「学校」という仕組みと相性が悪かったようです。
巨大な骨盤のヴィーナス?
ちなみに当時の同級生、ヴィクトル・ハーヘマンは後年、ゴッホが描いたヴィーナス像についてこう語っています。
「美しいギリシャの女神は逞しいフランドルの女将になってしまった。」
「私はいまだにこの巨大な骨盤をした、ずんぐりのヴィーナスが目に浮かんできます。ファン・ゴッホの木炭から生まれ出たあのとてつもない臀部肥大の女像が。」7

美術学校では女性のヌードは禁止されていたため、生徒で作られた学校外の「スケッチ・クラブ」で描かれたものを思われます。
梅毒
アントウェルペンで娼館に通い始めた頃から、ゴッホの体調は目に見えて悪くなっていきます。
彼はテオへの手紙で、かなり深刻な状態をこう綴っています。
「抜けた歯、あるいは抜けそうな歯が少なくとも10本はある。これはあまりにもひどいし、実につらい。それに、この丘で僕は40歳以上に見えてしまう。〔……〕同時に、胃が悪くなっているから手当てすべきだと僕は言われている。〔……〕先月頃から非常に具合が悪くなった。絶えず咳が出て、灰色っぽい痰を吐き始めるようになったりして、僕も心配になってきた。」8
歯がボロボロになり、咳が止まらず、胃の調子も悪い――まさに満身創痍です。
体調悪化の理由として、当時からゴッホがヘビースモーカーであったことや、極度の栄養不足も関係していたとは考えられますが、どうやらそれだけではなさそうです。
実はゴッホ、若い頃から娼館に通っていたことがわかっています。
ハーグ時代にはシーンとの生活中に淋病で入院したこともありました。こうした経緯から、ゴッホが梅毒に感染していた可能性は高いと考えられています。
梅毒と“恐ろしい治療法”

当時の梅毒治療に使われていたのは、なんと水銀。
服用するだけでなく、燻蒸(くんじょう=煙でいぶす)や軟膏として皮膚に塗る方法なども一般的でした。
なかでも驚くのは、水銀の中毒症状(流涎:よだれが止まらない状態)が出ることが「病気が出ていく証拠」だと信じられていた点。
いまの私たちからすると、完全に逆効果に思えますよね。
実際、水銀は歯ぐきのただれや歯の脱落を引き起こし、さらに中枢神経や内臓をむしばむことが現在では明らかになっています。
もちろん、現代では絶対に使われない危険な治療法です。
ゴッホにも水銀中毒の症状が?
ゴッホの手紙に出てくる「抜け落ちた歯」や「灰色っぽい痰」、さらには体力の急激な衰え――
これらは水銀中毒の症状と一致します。
彼はおそらく、梅毒の治療としてこの水銀療法を受けていたのでしょう。
つまり、病気そのものだけでなく、治療によっても身体をむしばまれていた可能性があります。

アントウェルペンからの逃亡

健康の悪化、美術学院での挫折――
アントウェルペンで思い描いていた成果が何一つ得られなかったゴッホは、だんだんと焦りと不安に押しつぶされていきます。
こんな言葉をテオに送っているのが印象的です。
「僕はここへ来てあまりにも早く前進しようと願ったが為にあまり進歩しなかったかもしれない。だが、仕方がないではないか。健康状態が理由の一つでもあった。」9
どこかドレンテ時代の行き詰まりを思わせるような閉塞感のなか、ゴッホはパリへ移住してテオと同居するという計画を考え付きます。しかし、テオ側はこれを拒否。ゴッホに対して一度ヌエネンに戻って療養するよう促しますが、一度火が付いたゴッホはもう止まりませんでした。
「ねえきみ、ブラバント(ヌエネン)へ行けば、僕はまた最後の一銭までモデル代に注ぎ込むようなことになるに決まっている。またぞろ同じ話がすっかりそのまま繰り返されるだけだ。そいつはありがたい話じゃない。それでは、僕らは本来の道から遠ざかってしまう。だから、なるべく早く僕が(パリへ)行くのを許してくれ。できれば今すぐ、と言いたいところだ。」10

同居すれば、家賃も食費も節約できる――そんなふうにゴッホは訴えますが、テオが気にしていたのはもっと根本的な問題でした。
ヌエネンでのスキャンダル、温厚なラッパルトとの絶縁、実家からの追放…。
ゴッホの存在が、パリであらゆるトラブルの原因になるのは目に見えています。
兄を愛してはいるけれど、いまやグーピル商会パリ支店の支配人という立場にあるテオにとって、
兄のトラブルに巻き込まれるのは――“まっぴらごめん”だったのです。
なんとか移住を思いとどまらせたい。
そう思っていた矢先のある日、テオのもとに一通の手紙が届けられます。そこには見覚えのある字でこう綴られていました。
「一気に(パリへ)やって来てしまったのだが、怒らないでくれ。〔……〕ルーヴルへ行っている。〔……〕できるだけ早く来てくれ。」11
――そう、ゴッホはテオの許可をもらうより前に、パリに“着いてしまって”いたのでした。
パリへ


テオとの同居生活、始まる
1886年3月(32歳)、ゴッホは突如パリに押しかけ、テオとの同居を始めます。テオは元々住んでいたモンマルトルのアパートを引き払い、ゴッホのアトリエを設けるため、より広めのルピック通りのアパートの4階に引っ越しました。
最初のうちは比較的おだやかに暮らしていたゴッホ。
ところが、しばらくするとその生活ぶりは荒れ、アパート全体に絵具や画材を散らかし放題。
訪問者たちはその様子をこんなふうに証言しています。
「アパートというよりも絵具屋のようになっていました」「どこもかしこも荒れ放題でした。あらゆる部屋を乱雑にするのが好みだったのです」
なかには、こんなハプニングに見舞われた人も――
「朝、寝台から足を出すと、フィンセント(ゴッホ)がその辺に放置していた絵具壺に足を突っ込んでしまった」12
このカオスな状態に、雇っていた女中は逃げ出し、病弱なテオは原因不明の病に倒れてしまいます。
さらに、ゴッホはアパートに訪れた客に対して喧嘩を仕掛ける始末。
テオはもともと、兄との暮らしには多少の覚悟をしていたはず。
でも、まさかここまでとは思っていなかった……。
ゴッホとの生活に早くも限界を迎えた彼は、妹にこう打ち明けました。
「(ゴッホと)一緒にやっていくのは不可能で…何故なら彼は何も、誰も容赦しない〔……〕彼を見た者は誰もがこう言います、『気違いだ』と」13

コルモン画塾
パリでの生活が始まったゴッホは、弟テオの紹介を受けて、フェルナン・コルモンの画塾に通い始めます。
コルモンはアカデミックな画風の画家でしたが、教え方は意外と柔軟で、
生徒たちに自分のスタイルを無理に押しつけるようなことはなかったとされています。

実際、当時この画塾には、
トゥールーズ=ロートレック、エミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ジョン・ピーター・ラッセルなど、
後に名を馳せる若き才能たちが集まっていました。

画架の前で手本をみせるコルモン。一番手前に背を向けて写っているのがロートレック
ところが――
またしても、ゴッホは周囲に馴染めません。
アントウェルペンの美術学院と同じように、
画塾の仲間たちと打ち解けることができず、孤立してしまいます。
それでも、たった一人、心を通わせた相手がいました。
それが、オーストラリア出身の画家ジョン・ピーター・ラッセルです。
ゴッホはラッセルのアトリエをたびたび訪れ、友情を深めていきます。
そして、その中で描かれたのがこちら――

実物よりも頬がふっくらと描かれていて、ラッセルがやや“美化”してくれたのかも?
ゴッホはこの肖像画をとても気に入り、生涯手元に置いて大切にしていました。
とはいえ、ラッセル以外とは最後まで打ち解けることができず……
ゴッホは画塾をわずか3〜4か月で辞めてしまいます。
その後、アントウェルペン時代の知人ホレイス・リーヴェンズに宛てた手紙では、
画塾についてこんなふうに語っています。
「コルモンのアトリエに通ったが、期待していたほど役には立たなかった。これは僕の方が間違っていたのかもしれないが」14
ゴッホとモンティセリ──色彩の理想を追い求めて
1886年5月、パリで開催された第8回印象派展。
ここでひときわ話題をさらったのが、ジョルジュ・スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》でした。
筆触を点のように分けて描く「筆触分割」という技法を用い、
光学や色彩理論に基づいて計算されたこの絵は、まさに“科学する絵画”。
斬新すぎる表現は、パリ中の画家たちを驚かせました。
この頃から、スーラを中心に「新印象派」と呼ばれる流れが生まれ、
芸術の世界もどんどん“理論派”に進んでいきます。
では、ゴッホはどうだったのでしょう?
彼もその動向を無視していたわけではありません。
リーヴェンズに宛てた手紙ではこう書いています。
「アンプレッショニスト(印象派)たちのある種の絵には大いに素晴らしいと思っている」15
ただし、名前を挙げていたのはドガの裸婦とモネの風景画だけ。
スーラについては、一言も触れていません。
さらに同じ手紙では、こうも語っています。
「アンプレッショニストたちの絵を見てからは、君の色彩も僕の色彩もそのままの方向で発展する限り彼らの理論と正確に同じではないことがはっきりした」16
つまりゴッホは、印象派──特に色彩を論理的に分解するような新印象派のアプローチに対しては、どこか距離を感じていたようです。
ゴッホが信じていたのは、もっと感覚的で、情熱的な色彩の力。
その思想に大きな影響を与えたのが、ウジェーヌ・ドラクロワでした。
そしてそのドラクロワを継ぐ存在として、ゴッホが強く惹かれたのが──
アドルフ・モンティセリです。
厚く塗られた絵の具、濃密な色彩、あふれる情感。
キャンバスから絵の具が盛り上がってくるようなその画風に、ゴッホはこの上なく魅了されました。
モンティセリが亡くなったのは1886年6月。
その死を知ったゴッホは、彼をまるで“色彩の英雄”のように見なし、
モンティセリ風の静物画を次々と描くようになります。
印象派でも、新印象派でもない。
自分だけの色彩を追い求めていたゴッホにとって、モンティセリは道しるべだったのかもしれません。

《花瓶の花》(1875年頃)

《カーネーションのある花瓶》(1886年夏)
外光と風景、そして変化の兆し
コルモンの画塾を辞めた後、ゴッホは部屋に閉じこもり、ひたすら制作を続けていました。
でも、現実は厳しく──絵はまったく売れません。
次第にフラストレーションが募り、その苛立ちは、同居していた弟・テオに向かうようになります。
当時の様子を、テオの友人アンドリース・ボンゲルはこう語っています。
「まったく彼(テオ)に罪のないことまで何でもかでも彼を責め立てるのです」17
家の中は、まさに“嵐”のような状態。
そんな生活に疲れ果てたテオは、1887年3月、末妹ウィレミーンへの手紙で、ついに胸の内を打ち明けます。
「彼(ゴッホ)を援助し続けるのは、彼にとって良くないことかもしれないと自問することがある。何度、もう少しで彼を見放してしまおうとするところまで行ったろう。〔……〕僕にとっていちばん重荷になっているのがカネの問題などと思ってはいけない。問題は、僕らが今や互いに共感しえないということなのだ。僕もフィンセント(ゴッホ)を深く愛していた時代があった。いちばんの親友だったのだ。だがもう終わった。〔……〕家ではもはや耐え難い状況になっている。こうした言い争いが原因で、もう誰も僕らのもとに来ようともしない。おまけに、フィンセントはひどく不潔でだらしないありさまだ。」18
かつて“かけがえのない親友”だった兄への思いが、少しずつ崩れていく……
そんな切実な苦悩が、行間からにじみ出ています。
テオが「もう限界だ」と感じ始めた頃、ゴッホもその空気を敏感に察していたようです。
そして彼は少しずつ変わり始めました。ついにアトリエを飛び出し、外で風景を描くようになったのです。
最初はテオをなだめるため──。
けれど、パリの外光と出会ったその瞬間、ゴッホの絵はまったく違うものに変わっていきました。
明るくなる画面・印象派の研究
ゴッホは、セーヌ川のほとりやパリの街並み、郊外の自然など──
風景そのものにぐっと集中して取り組むようになります。
これまでのように「人物画のついでに描く風景」ではなく、風景そのものに心を傾けているのが、作品から伝わってきます。
ヌエネン時代に学んだシャルル・ブランやドラクロワ、モンティセリの色彩理論に加えて、
ここで初めて“外光”を取り入れたことにより、ゴッホの色彩はさらに進化。
やがて印象派の筆触分割(しゅんしょくぶんかつ)に共鳴し、小さなタッチで色を並べて表現する、新印象派的な技法までも取り入れていくようになりました。
こうして見えてくるのは、自分だけの絵の描き方を探し続けたゴッホの姿。
この時期に試された印象派の点描やタッチの工夫は、のちに彼の代名詞となる独特の画風へとつながっていきます。
浮世絵との出会い──色彩の扉が開く
パリの生活を続けるため、そして何よりも、ぎくしゃくしていた弟テオとの関係を修復するため──
ゴッホはひたすら風景画の制作に打ち込みました。
努力の甲斐あって、二人の間にはようやく穏やかな空気が戻ってきます。
テオは妹ウィレミーンへの手紙に、こんなふうに報告しています。
「僕らは仲直りした。このまま上手くいくといいのだが。〔……〕ヴィンセントは一生懸命仕事をして、上達している。絵が明るくなってきた。太陽の光を取り込もうとしているんだ。」19
その頃、テオが勤めるグーピル商会は、印象派を取り扱う方針へとシフトし始めていました。
若い才能を見出す役目を任されたのが、他でもないテオです。
さっそく彼は、パリ支店の中2階(アントルソル)にクロード・モネの作品を12点展示。
これが話題を呼び、画商としての評価も高まっていきます。
すると、テオのもとには「何とか自分を売り込もう」とする若手画家たちが次々と現れるように。
その中のひとりが──エミール・ベルナールでした。
彼は、最初はテオの関心を引くため、あえてゴッホとも親しくしようとします。
(他の画家たちは、ゴッホの気難しさに及び腰だったのです)
とはいえ、その打算的な関係も、やがて互いに大きな刺激を与える友情へと変わっていきました。

《エミール・ベルナールの肖像》(1886年)
ベルナールは当時まだ若干18歳。
けれど、芸術に対しては誰よりも野心的で、こんな構想を抱いていました。
「これからの絵は、シンプルな色面とくっきりした輪郭線で構成されるべきだ」
──そんな近代絵画の新しい方向性のヒントとして、彼が挙げたのが「日本の浮世絵」だったのです。
この考えに、ゴッホは大いに共鳴します。
実は彼、アントウェルペン時代のアパートにも浮世絵を飾っていたほど興味を持っていましたが、
ここでようやく本格的に「芸術の手本」として向き合うようになります。
ゴッホは、東洋美術を扱う商人ジークフリート・ピングの店を訪ね、浮世絵を何枚も購入。
それらを模写しながら、じっくり学んでいきました。
このとき彼が発見したのは、西洋画に当然のようにあった「遠近感」から離れて、
もっと平面的に──つまり、色の“面”を意識して描くという手法。
すると、画面の色彩がよりはっきりと際立ち、構成にもリズムが生まれます。
さらに、輪郭線で色面を縁取ることで、絵に明快な印象と装飾的な美しさが加わりました。
パリの外光、そして日本の浮世絵──
これらがゴッホの中で混ざり合い、ひとつの閃光となって火を噴くように、
彼の色彩は、ぐんぐん進化していったのです。
パリを去る
1888年2月、ゴッホはパリを離れました。34歳のときのことです。
テオとの関係は、この頃にはかなり落ち着いてきており、かつてのような激しい衝突は減っていました。それでもゴッホは、自らその共同生活に終止符を打ち、南フランスへと旅立ちます。
彼がパリを去った理由は、実のところはっきりしていません。ただし、有力な説のひとつが「テオの健康を気遣ったため」というものです。
当時のゴッホは、アルコール漬けの日々を送っていました。アブサン、葡萄酒、ビール、コニャック──飲まずにいる日はほとんどなく、娼館通いも頻繁でした。そして、そんな兄を止めるどころか、テオ自身もその生活に巻き込まれていきます。
テオはもともと体が弱く、そこに拍車をかけるように無理を重ねていました。前年には、ヨハンナ・ボンゲルスへのプロポーズを断られ、心も身体もかなり弱っていたのです。
ゴッホは、そんなテオの様子を目の当たりにしていました。
もしかしたら、自分がそばにいることで彼をさらに追い詰めてしまっているのではないか──。
そう考えたゴッホは、あえて距離をとるという選択をしたのかもしれません。

「アブサン」とはハーブ系のリキュールで比較的安価で飲むことができました。その為。多数の中毒者が出たとされています。ゴッホの他にロートレックもアブサンを愛飲しました。
アルルへ

アルルは古代ローマに大都市として繁栄した過去を持ちます。円形闘技場は1世紀末に建造された遺跡で現在は闘牛のイベント等で賑わっています。
ゴッホも滞在時にここで闘牛を見ました。
画像:by Rolf Süssbrich

南仏で“日本”を見つける
1888年、ゴッホは南フランスのアルルへと移住しました。
なぜ、彼がこの地を選んだのか?──実のところ、明確な理由は残されていません。
けれど、彼がテオやベルナールに宛てた手紙を読むと、そのヒントが浮かび上がってきます。
「雪の中で雪のように光った空をバックに白い山頂をみせた風景は、まるでもう日本人の画家たちが描いた冬の景色の様だった。」20
「僕は日本にいるような気がするのだ」21
「まず、この土地が空気の澄んでいることと明るい色彩効果の為に日本のように美しく見えるということから始めたい。水が風景の中に美しいエメラルドと豊かな青の斑紋を描いて、まるで、クレポン(浮世絵)のなかで見るのと同じ趣だ。」22
アルルの風景を前にしたゴッホの目には、それが“日本そのもの”のように映っていたのです。
かねてから憧れてやまなかった浮世絵の世界──。
その美しさが、遠く離れた南仏の空と光の中に重なって見えたのでしょう。
つまり、ゴッホにとってアルルとは、“ヨーロッパの中の日本”だったのかもしれません。
黄色い家──南仏に築いた“夢のアトリエ”
アルルに着いて数ヶ月。
ゴッホは最初、レストラン・カレルの一室を借りて暮らしていました。ところが、賃料のことで店主と揉めてしまい、やむなく引っ越すことに。そんな中で彼が次に選んだのが、「黄色い家」でした。
その家は、カレルから少し北にある、鮮やかな黄色の壁をした一軒家。
けれど、いざ中に入ってみれば──電気もガスもなく、トイレすら隣の宿を借りなければならないという不便さ。
それでもゴッホは、この家にすっかり心を奪われてしまったのです。
「外側は黄色いペンキが塗られ、内側は白石灰で日当たりがとても良い。〔……〕日当たりがいいんだから、うんと明るい室内で絵がみられるというわけだ。」 23
「この家の外側は新鮮なバターのような黄色に塗られていて、けばけばしい緑の鎧窓がある〔……〕〕この家の中にいると僕は生活し、呼吸し、瞑想し、絵を描くことができる。僕の血液が人並みに循環するためには、強い暑さがどうしても必要なのだから北国にかえるよりは、さらに南国にゆく方がいいと思われる。ここにいるとパリにいる時よりも調子が良い。」24

実物の黄色い家は第二次世界大戦中の空襲で甚大な被害を受けて取り壊されました。
「パリの哀れな馬車馬たち——君や僕らの友人や貧しい印象派の画家たち——を疲れた時には放牧してやれる隠れ家を作れたらいいがと思っている。」25
ゴッホはこの黄色い家を、単なる住まいではなく、夢のような「芸術家たちのコミュニティ」にしたいと考えました。
売れっ子の「大通りの画家」ではなく、まだ世に出ていない「裏通りの画家」たちのための避難所を作りたい——。
そんな想いを胸に、ゴッホはここアルルで、理想の“画家共同体”を築こうとしていたのです。
前衛的な画家を支えようとする弟テオにとっても、新しい作品が生まれる拠点ができるのは悪くない話。
ゴッホは、この計画を熱心にテオに伝え、協力を求めました。
しかしその一方で——
この計画には、もっと個人的で切実な願いも込められていました。
それは、自分の“孤独”を埋めたいという想い。
パリを離れ、またひとりになったゴッホは、ふと昔のことを思い出します。
オランダ・エッテンで、友人のラッパルトと過ごした日々。
あの頃のように、一緒に絵を描き、語り合い、笑い合える時間を、もう一度持てたなら──。
「僕は必要とあれば、新しいアトリエに誰かと二人で暮らしても良く、またそうなればいいと思う。」 26
夜の色
アルルでの生活を通して、ゴッホはたくさんの作品を生み出しました。その中には、夜の情景を描いたものもいくつかあります。彼は夜景を描くために、真夜中でも外に出て、暗闇の中から鮮やかな色彩をすくい上げました。
「僕には良く夜の方が昼よりもずっと色彩が豊かであり、最も強い菫色や青や緑の色合いがあるように思えることがある。ちょっと注意をしてみたら、或る星たちはレモン・イエローで、また別な星は燃えるようなピンク、或いは緑、青、勿忘草色の光輝をもっているのがわかるはずだ。〔……〕夜景を実地で描くのは大変おもしろい。従来人がデッサンしたり描いたりしたものは、簡単にスケッチをした後で、真昼間やったものだ。しかし僕は現場で事物を描くことに喜びを覚えている。」27

代表作である《夜のカフェテラス》もこの時期に誕生しました。ゴッホは夜の光を見つめ、その微妙な色の変化を感じ取りながらキャンバスに向かいました。
「この夜の絵には黒が全くなく、専ら美しい青と菫色と緑で描かれ、周囲の光に照らされた広場は薄い硫黄色と緑がかったレモン・イエローを帯びている〔……〕もちろん色の質を正しく見分けがたいから、暗がりの中では、青を緑と間違えたり、青薄紫をピンクの薄紫と間違えたりすることがあるのは事実だ。しかしそれは一本の蝋燭でも極めて豊かな黄色やオレンジ色を与えるのに、あわれな青ざめた白っぽい光りで夜景を描く従来の因習を脱する唯一の方法だ。」28

ゴッホは、闇の中に潜む色をじっと見つめ、その豊かさを最大限に引き出そうとしました。また、色の移り変わりを強調して描くことにより、見る人の感情に直接訴えるような表現にも挑戦していきます。
その試みが顕著にあらわれたのが、同じく1888年9月に制作された《夜のカフェ》です。
この作品の舞台は、黄色い家に移る前に仮住まいとしていたカフェ・ド・ラ・ガール。夜通し営業しており、宿のない人々が夜を明かす場所でもありました。ゴッホはこの空間の不穏な空気を描くため、なんと3日間も徹夜で制作したといいます。
「僕は『夜のカフェ』で、カフェとは人々が身を持ち崩し、気狂いになり、罪を犯すところだということを表現しようと努めた。柔らかいピンクや鮮紅色の葡萄の絞り槽様の赤、堅い黄緑色と青緑色にうつりあったルイ15世風、ベロネーズ風の柔らかな緑、地獄の坩堝、青白い硫黄色の雰囲気の中にあるこれらすべてのもの、それを対照させて、何か居酒屋の闇の力のようなものを表現しようとしてみた。」29

赤と緑という補色の組み合わせを使って、「人間の恐ろしい情熱」をあぶり出す。色彩によって不安や狂気の空気を描き出すこの作品は、フォービズムや表現主義など、後の画家たちにも大きな影響を与えました。
こうしたアプローチは、印象派が追い求めた「自然の光」とは明らかに違います。ゴッホが見つめていたのは、目に映る風景そのものではなく、その奥にある「感情」や「魂」でした。
「僕はカテドラル(大聖堂)よりは人間の眼を描きたい。カテドラルがいかに荘厳で堂々としていようと、そこにない何物かが人間の眼の中にはあるからだ——人間の魂は、それが惨めな乞食のであろうと、夜の女であろうと、僕にとってはいっそう興味がある。」30
画家になる前から、ゴッホは「人間」に深い関心を寄せていました。伝道師として鉱山地帯で働いていたときも、画家として農民や労働者を描き続けたときも、彼の眼差しは常に人間の内面に向けられていました。
アルルで彼が確立したこのスタイルは、風景画や静物画であっても「人間の魂」を映し出すものとして、独自の発展を遂げていきます。
「黄色い家」での共同生活
ゴーギャンと向日葵
ゴッホは、かつてパリで交流のあった画家仲間ゴーギャンが生活に困っていることを知り、弟テオにある計画を提案します。
それは──「黄色い家」でゴーギャンと共同生活を送り、生活費として毎月250フランをテオが支援するというもの。
代わりに、当時ゴッホよりも知名度の高かったゴーギャンが、毎月1点以上の作品をテオに送るという内容です。
制作に集中できるゴーギャン、作品という“商品”を得られるテオ、そして孤独を癒やしたいゴッホ。三人それぞれにメリットがある、なかなか魅力的なアイデアでした。
「多分ゴーギャンが南仏へ来そうだ。」31
ゴーギャンの到着を心待ちにしながら、ゴッホは準備に励みます。テオからの追加支援で家具をそろえ、特に力を入れたのが部屋を彩る絵の制作。その“主役”に選ばれたのが、あの「ひまわり」でした。
ゴッホとゴーギャンが初めてであったのは、1887年12月のパリ。その際、彼らは記念に互いの作品を交換しています。
ゴーギャンはマルティニーク島で描いた作品を、ゴッホはパリ時代に描いた「ひまわり」の絵を2点──現在はメトロポリタン美術館とベルン美術館に所蔵されている《ひまわり》と《二つの切られたひまわり》──をゴーギャンに贈りました。
ゴーギャンはこの「ひまわり」をとても気に入り、自分のスタジオに飾るほど大切にしていたそうです(とはいえ、後にパナマへの旅費のために手放してしまいますが……)。
このエピソードをよく覚えていたゴッホは、「ひまわりこそ、黄色い家を飾るのにふさわしい」と考えたのでした。


こうして1888年8月、ゴッホはゴーギャンがアルルに来る前に、下図4点の「ひまわり」作品を描き上げます。
その後、ゴーギャンとの共同生活が始まった後にも、これらの作品を元に下図3点の複製を描きました。
冬になり、本物の花が手に入らなくなった時期でも、ゴッホは夏に描いた絵を見ながら「ひまわり」を描き続けています。なぜそこまでして「ひまわり」を量産したのでしょうか?
その答えはテオに宛てた手紙の中に記してあります。
「『ゆりかごを揺らす女』を中央に右と左に向日葵の二点を置けば、三双一曲になることもついでに心得ておいてほしい。そうすれば中央の黄色とオレンジの色調が隣り合った両翼の黄色の為に一層輝きを増す。」32

黄色い家の近所のルーラン夫人がモデル。手にはゆりかごを揺らすための紐を持っています。

中央に人物画をおいて、両サイドに「ひまわり」をおく飾り方を主張しています。
ゴッホは、人物画《ゆりかごを揺らす女》(モデルは黄色い家の近くに住んでいたルーラン夫人)を中央に、両脇にひまわりの絵を置いて三連祭壇画のように飾る構想を持っていたのです。
《ゆりかごを揺らす女》も複数制作されているため、それらを全て三連祭壇画のように飾ろうとしていたのかもしれません。
また、「ひまわり」の複製3点の内1点は、どうやら贈り物として描かれたようです。
実はゴーギャン、アルルを去った後に「黄色い家に残した自分の習作と、ひまわりを交換しないか」と申し出ています。しかしゴッホは、突然アルルを去ったことへのわだかまりがあった為、簡単に了承しませんでした。
それでも、彼はゴーギャンが「ひまわり」を心から気に入ってくれたことに、少し心を動かされます。
「ゴーギャンに向日葵の絵を一点やれば喜ぶだろうから、何とかして喜ばせてやれればと思う。それでもし彼が二点のうち一点を望めば、ままよ、二点のうち彼のほしい奴を作りなおそう。〔……〕ゴーギャンはこの絵が格別好きだ。彼はなかでも特にこう言ったものだ。『これこそ…花だ』と。」33
こうして、ゴーギャンのために描かれた「ひまわり」が誕生します。
もっとも、完成直後にゴッホは再び発作を起こして入院してしまったため、この絵が本当にゴーギャンの手に渡ったのかどうかは、今もはっきりしていません。

共同生活の始まり
1888年10月23日、ついにポール・ゴーギャンがアルルの黄色い家に到着します。ゴッホにとっては、待ちに待った夢の共同生活のスタートでした。
…しかし、ゴーギャンの気持ちはまるで正反対。彼は黄色い家での共同生活に同意はしていたものの、体調不良を理由に出発を何度も先延ばしにしていました。実際のところ、ゴッホとの共同生活にはかなり不安を感じていたのです。というのも、ゴッホの気難しさや情緒の不安定さは、すでにパリの画家仲間の間でも有名な話でした。
それでもゴーギャンがアルル行きを決断したのは、いくつかの「現実的な魅力」があったからです。テオとのつながりができること。そして、アルルでの生活費を援助してもらえること――。出発前に友人のエミール・シュフネッケルへ宛てた手紙には、こんな風に書かれています。
「今月の終りにはアルルへ出発するが、この滞在はカネの心配をせずに仕事を楽にするのが目的なのだから、世間に乗り出せるようになるまで、長い間アルルで暮らすっことになると思う。」34
ゴッホは黄色い家を、「裏通りの画家たちの避難所」にしたいと本気で考えていました。志を同じくする仲間が集い、語り合い、刺激し合いながら制作する――そんな夢を抱いていたのです。
一方でゴーギャンはというと、あくまでもアルル滞在を“画家として成功するための一時的な足場”と見ていました。そして、その現実的な判断は的中します。ゴーギャンがアルルに到着してから数日後、パリのテオの元では彼の作品が売れ始め、わずか2か月の間に5点も売れたのです。

ゴーギャンの成功は、画商であるテオにとっても嬉しい出来事。そしてそれは、ゴッホにとっても「兄として」「仲間として」喜ばしいはずのことでした。
…でも、やっぱり、複雑な気持ちは抑えきれません。
「絵が売れなければ、どうしようもない。〔……〕僕は自分の絵もいつかは売れる日が来ると思うが、君に対してこんなに払いが滞り、カネばかり使って収入があげられない。それを思うとときどき僕は憂鬱になる。」35
30代で本格的に画家を志したゴーギャン。そんな彼の目覚ましい成功は、ゴッホに焦りと不安をもたらすことにもなっていきます――。
衝突
アルルでの共同生活が始まってから、ゴッホはゴーギャンと一緒に絵を描いていきます。たとえば、「葡萄畑の風景」や、「カフェ・ド・ラ・ガールの名物女将・ジヌー夫人」を題材にした作品など、2人は互いに作品を見せ合いながら制作に勤しみます。
しかし――
理想的に見えた日々の裏で、少しずつ、けれど確実に、二人の間に“亀裂”が生まれていきます。
芸術に対する考え方がまったく違っていたのです。
ゴーギャンは「綜合主義(そうごうしゅぎ)」を掲げ、自然をそのまま描くような印象派的スタイルには否定的でした。彼が求めていたのは、心の中のイメージを絵に投影すること。つまり、ゴッホのように“その場で一気に描き切る”即興的なスタイルは、ゴーギャンにとって全くの「ナンセンス」だったのです。
彼はゴッホに、「もっと想像の世界を描くべきだ」とアドバイスしました。
ゴッホはその言葉に応え、《エッテンの庭の記憶》や《小説を読む人》など、想像だけを頼りに作品を描いてみました。しかし、やってみて実感したのは――「これは、自分には向いていない」ということ。
テオへの手紙にも、正直な気持ちが綴られています。
「僕はヌエネンの後援を描いたあの作品(※おそらく《エッテンの庭の記憶》のこと)だめにしてしまった。想像で仕事をしようとすると、どうしてもこういう癖が出るようだ。」36


一方で、ゴッホも黙っているわけではありません。ゴーギャンの絵に細かい指摘を繰り返し、自分の意見をぐいぐい押し付けてしまいます。その執拗な姿勢に、ゴーギャンはうんざり。友人ベルナールへの手紙では、こんなふうにこぼしています。
「ヴァンサン(ゴッホのこと)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。」37
ぶつかり合いは芸術面だけにとどまりませんでした。
生活面でも、次第に緊張が高まっていきます。
アトリエの中は散らかり放題、金銭管理もかなりルーズ。もともと船員や株の仲買人を経験していたゴーギャンは、生活をきちんと整えることに慣れていました。だらしのないゴッホに代わって、炊事や会計係を進んで引き受け、生活力に乏しいゴッホを支えようとしていきます。
しかし、料理を教えてみても、ゴッホが作るご飯は――「とてもじゃないが食べられなかった」とか。
結局、ゴッホができる家事は、せいぜい買い物くらい。
ゴッホはゴーギャンに対して、芸術家としても人間としても強い敬意を抱いていました。しかし、売れない自分への劣等感や、意見が噛み合わないもどかしさ、ゴーギャンによる生活への口出しが、次第に彼の心をざわつかせていきます。
そしてその不満は、やがてお決まりの「癇癪」となって――
ゴーギャンに向けられるようになっていきました。
耳切り事件
ゴーギャンとの破局、テオの結婚
ゴーギャンは次第にゴッホとの共同生活に限界を感じるようになります。絵を描く場所を台所に移したものの、寝室に行くにはどうしてもゴッホの部屋を通らなければならず、完全に距離を取ることはできませんでした。ついにゴーギャンは、テオに対してこんな手紙を送ります。
「売れた絵の代金の一部を送ってもらえるとありがたく思います。清算がすっかりすめば、僕はパリへ戻らねばならない。フィンセント(ゴッホ)とぼくとは気性の違いからいざこざなしにはもう絶対一緒に暮らすことはできません。彼も僕も仕事の為に平静を必要としています。」38
おそらくゴッホは、ゴーギャンの口から直接「出ていく」という言葉を聞いたわけではありません。しかし、その空気を敏感に察していました。
「ゴーギャンはこの楽しいアルルの町にも、僕らの仕事場のこの小さな黄色い家にも、またとりわけ僕自身に少々嫌気場さしたんだと思う。」39
そんな中、もうひとつ大きな知らせが舞い込みます。テオがヨハンナ・ボンゲル(友人アンドリースの妹)結婚するというのです。兄としてはもちろん祝福すべきことですが、内心では複雑な気持ちを抱えていました。というのも、ゴッホは密かに「いつかテオがパリを離れ、自分と一緒にアルルで暮らしてくれるかもしれない」と願っていたからです。
結婚によって、テオの心はこれから妻に向かう。それは当然のことなのに、ゴッホの胸には「自分は見捨てられるのでは」という不安が渦巻きました。テオにそんなつもりがなくとも、ゴッホの心はどんどん沈んでいきます。

ラッパルト、テルステーフ、シーン、そして父ドルス…
これまでゴッホが心を寄せた人たちは、皆、彼のもとを離れていきました。
人間関係がうまくいかないたびに、ゴッホはこう考えてきました。「相手が自分を理解しなかった」「環境が悪かった」と。けれど、ゴーギャンとの決定的な別れの中で、ふと気づきます――もしかしたら、原因は自分自身にあるのかもしれない、と。
そして今、唯一の支えだったテオまでもが、自分の手から離れていこうとしている…
「テオから見捨てられるかもしれない」という疑心暗鬼。
それと同時に、弟の幸せを心から喜べない自分への、どうしようもない自己嫌悪。
そんな複雑な感情がゴッホの中でぶつかり合い、やがて彼の心を深く、静かに追い詰めていくのでした。
事件当日
1888年12月23日の夜――。
長く降り続いた雨がようやくやんだアルルの町で、ゴーギャンは一人外へ出かけていきました。目的は娼館か、カフェか。とにかく、あの黄色い家から少しでも離れたかったのかもしれません。
その途中、彼はふと背後に気配を感じます。振り返ると、そこにはゴッホの姿が。
最近のゴッホの様子に不穏なものを感じていたゴーギャンは、身構えつつ声をかけました。
するとゴッホは口を開きます——
「君は行くのか?」
唐突な問いかけに、ゴーギャンは少し戸惑いながらも「…ああ」とだけ答えました。
するとゴッホは、懐から新聞の切り抜きを取り出し、黙って手渡します。
そこにあったのは――「殺人鬼、逃亡す」。意味深な見出しが躍っていました。
それだけを残して、ゴッホは踵を返し、闇の中へと消えていきました。
不可解な行動に、不穏な空気。
胸騒ぎを覚えたゴーギャンは、その夜、黄色い家へは戻りませんでした。
耳とメッセージ
その頃、家へ戻ったゴッホは、激しい躁状態に陥っていました。
そして、自らの左耳を剃刀で切り落としてしまうのです。
激しく出血しながらも、ゴッホはその耳を新聞紙で包み、ある場所へと向かいます。
それは、ゴーギャンも通っていた娼館でした。
彼は娼館の前に立っていた歩哨に、その包みを託します。
届け先は、ゴーギャンお気に入りの娼婦・ラシェル。
でも、それは彼女への贈り物ではありません。
ゴッホが本当に届けたかった相手は――ゴーギャンだったはずです。
「彼はきっと、今ここにいる」。そんな想いが、ゴッホを突き動かしていました。
歩哨に包みを渡す際、ゴッホは一言、こう添えます。
「僕を思い出して」
怒りでも、脅しでもない。
彼が差し出したのは、自分の身体を削ってまで伝えようとした、悲痛な“メッセージ”でした。

ゴッホは左耳のみみたぶのみを切り落としたと言われてきましたが、近年レー医師が作家アーヴィング・ストーンに送ったとされる上図のイラスト付きの手紙がみつかりました。
手紙のイラストによれば、わずかな耳たぶを残してバッサリと切り落とされていたことが分かります。
入院の果てに
アルル市立病院

1888年12月24日の朝――。
ゴッホは黄色い家のベッドで意識を失ったまま倒れているところを発見され、そのままアルル市立病院へ運ばれました。
耳の治療を受けたゴッホは、まもなく意識を取り戻します。
けれど、精神状態は不安定なまま。
せん妄に陥り、混乱した言動を繰り返す日々が続きました。
12月25日。
ゴーギャンからの電報を受けた弟テオがアルルに駆けつけ、病院で兄と面会します。
そのときの様子を、テオは妻ヨハンナへの手紙でこう記しています。
「僕が彼のそばにいた時、わずかだが調子がいい瞬間があった。だがすぐに、神学や哲学的なうわ言に戻ってしまう。そこに居合わせているのはあまりにも悲しい。時折、彼は自分の病気に気が付いて、その時は泣こうとするのだけど、泣くことができないんだ。」40
テオはその後、アルルでの兄の様子を見守ってもらうため、郵便配達員のルーランと、地元のプロテスタント牧師フレデリック・サルに世話役と連絡役を託します。
そしてゴーギャンとともに、その日のうちにパリへ戻りました。

黄色い家の近所に住んでいた郵便配達員のルーラン。《ゆりかごを揺らす女》のモデルは彼の妻です。
ルーランはゴッホの数少ない友人の一人でした。
ルーランによると、ゴッホは「恐ろしい発作」を起こすこともあり、一時は独房に隔離されていたそうです。
しかし少しずつ回復に向かい、12月29日には共同部屋へ戻ることができました。
年が明けて、ゴッホはテオ宛てにこんな手紙を書いています。
「僕はまもなくまた仕事にかかれようと思っている。」
「君が心配すると僕は余計に不安になるから、今君に願うのは唯一つ、心配しないでおいてくれることだ。」41
主治医のレー医師も同じ手紙の中で、回復についてこう書き添えました。
「幸いなことに私の予想が的中して、異常昂奮はほんの一時性のものでした。二、三日中には元通りの人間にかえれるだろうと確信します。」42
そして、1月7日。
ゴッホは無事に退院し、再び黄色い家での生活が始まります。
この1月には、かの有名な《ファン・ゴッホの椅子》や《ゴーギャンの肘掛け椅子》をはじめ、向日葵の複製画も2枚制作。
さらに、お世話になったレー医師のために肖像画も描いて贈りました。
ところが、2月に入ると、ゴッホの様子が再びおかしくなります。
退院直後には「何でもなかった」と思っていたものの、
日を追うごとに「やっぱり自分は病気かもしれない」と自身でも異常に気付くようになりました。
次第に、「誰かに毒を盛られている」という被害妄想も現れはじめ——
そして退院1か月後の2月7日、異変に気づいた近隣住民が警察に通報。
ゴッホは再びアルル市立病院に収容されることになったのです。
周囲の不審、3度目の入院
1889年2月17日、ゴッホは再び精神状態が落ち着き、ひとまず仮退院が許されました。けれども、彼の暮らすアルルの町にはすでに不穏な空気が漂い始めていました。耳切り事件の衝撃は大きく、近隣の人々の間では「危険な人物」としてのイメージがすっかり定着してしまっていたのです。
日頃から目立つ行動が多かったゴッホに対して、地域の人々は次第に恐れや偏見を募らせていきました。ゴッホ自身も「みんなが怖がっている」と周囲の違和感には気付くようになります。
それでも当時のゴッホは、自分が精神的に不安定だったことをある程度受け入れつつも、「これはただの地方病みたいなもの」と、病状そのものはあまり深刻には捉えていなかったようです。
また以前のように、落ち着いて絵を描いていけるかもしれない——
そんな希望がわずかに見えはじめていた頃、住民たちの間ではひそかに“ゴッホ追放”の動きが進んでいました。
退院からわずか9日後の2月26日、黄色い家の近隣住民たちが連名でゴッホの「隔離」を求める請願書が市長に提出されました。署名はおよそ30名。内容はというと、彼の行動を糾弾する証言が次々と並べ立てられたものでした。
その内容はかなり誇張されていました。「女性にしつこくつきまとった」「子どもを追いかけまわした」「商店で他の客を侮辱した」など、彼の印象を決定的に悪化させるものでした。
こうしてゴッホは、再び病院へ収容されてしまいます。
この理不尽な扱いについて、ゴッホはテオへの手紙で深い悲しみと怒りをぶつけています。
「ただ一人のそれも病気の男に対して、多数よってたかって掛ってくる、そんな卑怯者がこれほどいると知った時、それこそ僕はどてっ腹を棍棒で殴られる気がしたものだ。〔……〕こんなひどい目にあい辛い思いをするくらいなら、いっそ死んだほうがましだ。」43
シニャックの訪問。深刻な「発作」

1889年3月23日。弟テオは結婚準備のまっただ中でアルルに行けず、代わりに友人であり画家のポール・シニャックに、ゴッホの様子を見に行ってほしいと頼みました。
ポール・シニャック(1863〜1935)は、点描技法を用いた新印象派の画家として知られる人物。マルセイユ近郊のカシスへ向かう途中、アルルに立ち寄ってゴッホを訪ねてくれたのです。
この訪問により、ゴッホに久しぶりの光が差します。シニャックの付き添いのおかげで、レー医師から外出許可が下り、彼は約1カ月ぶりに黄色い家へ戻ることができました。
シニャックに対する印象は、ゴッホの中で非常に良かったようです。後に彼は、こんなふうにテオへ書き送っています。
「彼(シニャック)は実に誠実で公明で、また実に率直だった。〔……〕シニャックは粗暴だという評判だけれども僕は非常に冷静な男だと思う。泰然自若たる男、専らそういう感じだ。これまで印象派の画家と話をしていて両方がこれほどまでに意見の不一致や衝突を見ず後味も悪くなかったためしはめったに、いや全然ない。」44
この感謝の気持ちとして、ゴッホは《ニシンの静物画》をシニャックに贈っています。

この感謝の気持ちとして、ゴッホは「ニシンの静物画」をシニャックに贈っています。
「彼(ゴッホ)の絵を見にゆきましたが、非常にいい絵がたくさんあり、どれもが大変面白いものです。〔……〕私が見たところ彼はすみからすみまで健康で健全であったということを、特にはっきり申し上げておきます。彼の唯一の願いは——落ち着いて仕事が出来るということです。どうかそういういい状態に彼をおいてやるよう万々よろしく願います。」45
……ところが実際のところ、ゴッホの精神状態は必ずしも安定していなかったようです。
滞在中、二人は絵や文学について熱心に語り合い、穏やかな時間を過ごしていました。けれど突然、ゴッホが激しく興奮し、なんとテレピン油を飲もうとしたのです。シニャックは驚いて必死に止め、そのまま病院に連れ戻して医師に報告しました。
ただ、ゴッホが病院で「監禁状態」にあることに心を痛めていたシニャックは、この一件をあえてテオには伝えませんでした。彼の精神状態についても「異常なし」と報告したのです。
このころから、ゴッホの発作は徐々に周期的なものとなり、彼の心と体に暗い影を落としていくことになります。

シニャックはゴッホを見舞った後、カシスへ向かい、カシスからはゴッホ宛に絵葉書を送りました。ゴッホからシニャックへの返事の手紙には《花咲く桃の木》と《花が咲く果樹園、アルルの眺め》の2点の素描が添えられています。

ゴッホはシニャックへの手紙の中で《花咲く桃の木》について言及しています。
「小さな農家が見える貧しい田園だ。アルピーヌ山脈の線が青く、空は白と青だ。前景には小さな桃の木に花が咲いている芦の生け垣の囲いがある。——何から、何まで小粒で、庭も畑も、菜園も木も、あの山々までがまるで日本の風景画にあるように小さい。だから僕がこのモティーフにひきつけられたというわけだ。」46
アルルを去る
いつまでも病院にいるわけにはいかず、かといって「黄色い家」にも戻れない——そんな板挟みの状況の中で、ゴッホはレー医師の持ち家の二部屋を借りて、ひとまず暮らし始めました。
けれど、この頃にはすでに「独り暮らし」そのものに不安を抱くようになっていました。
「アルルか他のところで、新しいアトリエを借り、そこで独り暮らしをすることは到底僕には出来まいし、したところでさしあたり同じ結果になってしまう」47
”ヨーロッパの日本”。ここアルルで「裏通りの画家」たちのために「画家の共同体」をつくる——
そんな理想を夢描いていたゴッホでしたが、この瞬間、その夢は音を立てて崩れ去りました。
夢どころか、これから先、満足に暮らしていけるのかどうかもわからない——
失意の中で、心の支えだった「絵を描くこと」にも、自信が持てなくなっていきます。
「それに君もよく解っているように、いまさら成功の見込みはまるでない。」48
「画家としては僕はまかり間違っても絶対大物にはなれないと感じている。」49
独りで暮らせない以上、誰かと一緒に暮らさなければなりません。
かつてなら、何のためらいもなく、パリの弟テオのもとに向かったでしょう。
でも今は、もうその道も選べないのです。
残された道。
それは精神病院に、自らの意思で入院するという選択でした。
──奇しくもそれは、生前の父ドルスが、かつてゴッホに勧めた道。
当時は反発し、強く否定したはずのその道を、今、自分から歩こうとしている……
皮肉というには、あまりに静かで、苦い現実でした。
そして1889年5月初旬。
ゴッホは静かにアルルを去り、北東に位置する「サン・レミ」の精神病院へと向かいます。

第3部のまとめ「ゴッホの精神疾患について」
オランダを離れたあと、ゴッホはパリで印象派や浮世絵に出会い、画風を大きく変えていきました。
そして南仏アルルにやってきた彼は、明るく鮮やかな色彩をまとった、まさに“ゴッホらしい”作品を次々に生み出していきます。
けれども、私生活では不安の影が広がっていきます。
ゴーギャンとの破局、弟テオの結婚──精神的に不安定になっていたゴッホは、ついに耳を切り落とすという衝撃的な行動に出てしまいます。
この頃から、ゴッホは発作を繰り返すようになり、いつ襲ってくるか分からない発作に恐れを抱くようになります。

ゴッホを苦しめたこの精神の病について、現在もさまざまな説が語られていますが、はっきりとした診断名はわかっていません。
当時、アルル市民病院の医師は「一種の癲癇(てんかん)」と診断しました。おそらくそれは、けいれんを伴わない「潜在性癲癇」のことで、このタイプの癲癇は、不安や幻覚、妄想といった発作性の行動障害を起こす特徴を持っています。これは、ゴッホの発作の様子とよく一致しているため、有力な説のひとつです。
また、ゴッホの生活習慣も精神状態に大きく影響していたと見られています。
彼はパリ時代から大量のアルコール、特に強い酒アブサンを好んで飲んでおり、それに加えて栄養状態の悪さもありました。
こうした生活が脳に負担をかけ、やがて深刻な精神症状を引き起こした可能性があります。
特に、急に飲酒をやめたことで、せん妄などの離脱症状が現れたとも考えられており、最初の発作もそれに起因していたかもしれません。
このように、ゴッホの精神疾患について推定はされているものの、特定には至っていません。さらに、単一の疾患ではなく、複数の疾患が併発していた可能性も否定できません。
精神疾患や脳の病気は、現在でも治療が難しい場合が多く、MRIやレントゲン技術のなかった当時の医療環境においてはさらに困難だったことでしょう。
ゴッホは治療が困難な精神的な病を抱えながらも、発作と戦い続け、作品を描き続けました。彼がサン・レミやオーヴェルでどのように過ごし、どのような絵を描いたのか——続きは第4部へ…

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参考文献・サイト
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行
・マリー・アンジェリーク・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード「テオ もうひとりのゴッホ」平凡社 2007年8月1日発行
・二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行
・食品安全委員会「ハザード概要シート(案)(水銀)」中毒症状 https://www.fsc.go.jp/sonota/hazard/osen_1.pdf 2024年5月3日参照
・Wikipedia「梅毒の歴史」歴史的な治療法 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%AF%92%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 2024年5月3日参照
・厚生労働省「職場の安全サイト」安全データシート 水銀 https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/7439-97-6.html#:~:text=%E4%B8%AD%E6%9E%A2%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B3%BB%E3%80%81%E8%85%8E%E8%87%93%E3%81%AB%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%80%81%E8%A2%AB%E5%88%BA%E6%BF%80,%E3%81%8C%E7%A4%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 2024年5月4日参照
・ファンゴッホ美術館https://www.vangoghmuseum.nl/en
・「On the Banks of the River, Martinique」,contemporaries of van gogh, Van Gogh Museum https://catalogues.vangoghmuseum.com/contemporaries-of-van-gogh-1/cat53 2024年5月25日参照
・Willem A. Nolen et al.(2020) New vision on the mental problems of Vincent van Gogh; results from a bottom-up approach using (semi-)structured diagnostic interviews.
引用
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷、1273頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1254頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1257頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1277~1278頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1316頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1316頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1317頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1288頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1296頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1299頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1322頁 ↩︎
- スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行、55~56頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、56頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1325頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1324頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1325頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、59~60頁 ↩︎
- マリー・アンジェリーク・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード「テオ もうひとりのゴッホ」平凡社 2007年8月1日発行、122頁 ↩︎
- オザンヌ・ジュード、2007年8月1日、123頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1338頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1346頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷、1964頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1367頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1931頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1346頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1369頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1930~1931頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1931頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1476頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1264頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1369頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1627頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1579頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1540頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1540~1542頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1550頁 ↩︎
- 二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行、192頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1560頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1559頁 ↩︎
- オザンヌ・ジュード、2007年8月1日、152頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1561~1562頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1563頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1592頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1596頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1598頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1605頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1608頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1616頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1618頁 ↩︎
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