博物館網走監獄 完全ガイド!五翼放射状舎房・監獄食・白鳥由栄の脱獄史まで徹底解説

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北海道の雄大な自然に抱かれた網走市。その天都山の一角に佇む「博物館 網走監獄」は、明治時代から実際に使用されていた獄舎を保存・公開している野外歴史博物館です。

単なる観光施設としてだけではなく、ここの囚人たちが北海道の大地を切り拓いていったという囚人たちの過酷な労働によって切り拓かれた北海道開拓の歴史を今に伝えるという背景も持つこの博物館は文化面においても重要な博物館といえます。


監獄の博物館?どんなところ?

近年、映画や漫画の舞台としても注目を集める「網走監獄」。
現在も稼働している「網走刑務所」とは別に、かつての貴重な建造物を1980年代から移築・保存しているのがこの博物館です。

現在の網走刑務所

最大の見どころは、国指定重要文化財の「五翼放射状平屋舎房(ごよくほうしゃじょうひらやしゃぼう。1912年から70年以上にわたり実際に使用されていたこの建物は、中央の看守所を起点に5本の指を広げたような形が特徴です。少ない人数で全通路を監視できる機能美を備えており、一歩足を踏み入れると当時の厳しい空気感が伝わってきます。

五翼放射状官舎内
このような長い舎房が中央見張所から5つ枝分かれしています。

命がけで切り拓かれた「囚人道路」

かつての網走監獄は、単なる収容施設ではなく、北海道開拓という国家プロジェクトの拠点でもありました。

今私たちが利用している北海道の幹線道路。その一部は、深い原生林の中、網走監獄の囚人たちが鎖でつながれたまま切り拓いたものです。「道路を作る」という言葉からは想像もできないほどの過酷な労働により、多くの尊い命が失われました。

鎖塚(亡くなった囚人の墓標)
現在、囚人道路沿いにはこうした慰霊碑が建造されています。
画像:by:pino

館内の展示では、この「囚人道路」の悲劇についても詳しく解説されています。美しい景観の裏側にある歴史の重みに触れることで、自由の尊さや先人への感謝を改めて深く感じることができるはずです。


目次
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網走監獄の歩み

ここで少し網走監獄の歴史についてザッとされっておきましょう。

1. 北海道開拓の夜明けと監獄の誕生

天都山から望む網走湖
画像:by 663highland

明治維新後、政府にとって急務だったのが北海道の開拓です。当時、南下政策を進めるロシアの脅威に対抗するため、またその他の諸外国に対抗するためには、蝦夷地の防衛とその豊富な資源の獲得は早急に行うべき政策でした。政府は蝦夷地を「北海道」と改め、その開拓に乗り出します。

しかし、当時の北海道のほとんどは手つかずの原生林。道路を通すには膨大な費用と人手が必要でした。そこで政府が白羽の矢を立てたのが、全国の監獄に収容されていた囚人たちです。

当時は西南戦争などの内乱により、国事犯(政治犯)をはじめとする受刑者が急増し、監獄は飽和状態にありました。彼らを北海道の開拓に従事させれば、収容先を確保できるだけでなく、安価な労働力として活用できる――。まさに「一石二鳥」の策として、明治23年(1890年)、網走の地に監獄が設置されたのです。


2. 「死の道」と呼ばれた中央道路の開削

画像出典:© OpenStreetMap contributors

網走監獄に収容された約1,200名の囚人に課せられたのは、網走から北見峠まで約160km(当時の計画)に及ぶ「中央道路」の開削という、極めて過酷な任務でした。

現代のような重機は一切ありません。囚人たちは原始林の中、手作業で巨木を倒し、土をならしていきましたが、食料補給も不十分な中、過酷な労働と栄養不足により「脚気(かっけ)」が蔓延してしまいます。
あまりの苦しさに脱走を試みるものがいましたが、見つかれば看守により斬り殺されてしまうことも。たとえ逃げ延びたとしても、どのみち深い原生林の中では行き場などありませんでした。

驚くべきことに、この過酷な突貫工事により、わずか8カ月という短期間で道路は完成。しかしその代償は大きく、200名以上の囚人が命を落としました。その悲惨な歴史から、のちにこの道は「死の囚人道路」と呼ばれるようになります。

現在、私たちが北海道をドライブで楽しむことができる美しい幹線道路。
その基盤の多くは、網走監獄の囚人たちが命を懸けて切り拓いたものだったのです。

道路を開削する囚人の様子
博物館内キャプションボードより

3. 網走と「監獄」:葛藤と恩恵の歴史

北海道の過酷な開拓に投入されたのは、長期刑を科せられた重罪人たちでした。20世紀に入り、囚人道路のような命の危険を伴う外役労働(監獄の外での労働)は廃止されましたが、網走への重罪人の収容はその後も続きました(おそらく日本の辺境であるという地域柄や、五翼放射状平屋舎房などの優れたセキュリティ面により)。

そのため、網走の地元住民の間では「網走=凶悪犯がいる監獄の町」という負のイメージを強く嫌い、網走刑務所の改名を求める声が高まっていきました。実際に1938年(昭和13年)には、網走町が刑務所名変更の請願を提出し、衆議院で採択されたものの、貴族院で不採択に終わっています。

一方で、網走監獄が開設された当時を知る住民からは、「網走に刑務所が来なければ、ここまで大きくなれなかった」という声も上がっていました。 実際に、中央道路の開通は近代化の要となり、現代の北海道の発展に結びついていきました。また、監獄開設時には看守とその家族が町に移住し人口が著しく増加、その際にできた多くの産業が刑務所にかかわり発展していったといわれています。つまり、「監獄」は地域に大きな恩恵をもたらしていたのです。

現在の網走市
画像:by 663highland

4.「監獄」と文化

日本一の農園刑務所

網走刑務所は、全国的に有名な農園刑務所として知られています。

当時は最先端であったアメリカの近代農業制度を取り入れ、札幌農業伝習学校(現・北海道大学農学部)出身の技官を採用して寒冷地農業を飛躍的に進化させました。日本で唯一水田を持つ刑務所として稲作にも挑戦し、大正11年(1922年)には司法省から「農園設備特設刑務所」に指定されるなど、農業近代化の先駆けとなりました。

現在も受刑者による耕種農業・畜産が続き、特に「網走監獄和牛」は高品質で知られ、A5ランクの肉牛も生産されています。


映画とサブカルチャー

高倉健 主演の映画「網走番外地」(1965年)

網走監獄は、過酷な北海道開拓史を象徴する施設として、長年にわたり日本文化に強い影響を与えてきました。特に脱獄・極寒の監獄生活・人間の極限といったモチーフが、映画や漫画で繰り返し描かれ、国民的イメージを形成しています。

代表例は1965年から始まった高倉健主演の『網走番外地』シリーズ(東映、全18作)。
網走刑務所を舞台に脱獄囚の逃亡劇をアクション満載で描き、当時のヤクザ映画ブームを象徴する名作群です。

現代では、野田サトル先生の漫画『ゴールデンカムイ』が大ヒット。網走監獄が金塊争奪戦の重要舞台となり、メインキャラクターの脱獄王・白石由竹は、実際に網走刑務所に収容されていた「昭和の脱獄王」白鳥由栄がモデルであることは有名です。また漫画内にも登場した囚人を収容する舎房「五翼放射状平屋舎房」は博物館網走監獄の最大の見どころ。現在ではファンの聖地巡礼コースとして賑わっています。


重要文化財がたくさん!展示施設紹介

最後に「博物館 網走監獄」の主な展示施設をご紹介します。

【重要文化財】
五翼放射状平屋舎房(ごよくほうしゃじょうひらやしゃぼう)

舎房の廊下
舎房によって長さは違いますが、長いもので70m以上あります。

博物館網走監獄で一番の見どころは、やはりこの「五翼放射状平屋舎房」です。
1912年(明治45年)に建設されたこの建物は、ベルギーのルーヴァン監獄をモデルにしたもので、中央の見張所から5つの舎房が放射状に広がる独特の形状が特徴です。下の見取り図を見ると、まるで人の手を広げたような形が一目瞭然で、中央の見張所から少ない看守で全体を効率的に監視できる、刑務所ならではの合理的な設計になっています。

五翼放射状平屋舎房の見取り図

木造の刑務所建築としては世界最古級であり、北海道開拓史や日本近代史にとって極めて重要な遺構です。
1983年頃から網走刑務所の全面改築工事に伴い移築計画が進められ、1985年(昭和60年)に現在の博物館敷地へ移築・復原されました。当初は2005年(平成17年)に登録有形文化財に指定され、2016年(平成28年)2月9日には国の重要文化財に昇格。今もなお、当時の刑務所の様子を忠実に伝えてくれています。

中央の見張所から分かれる舎房

網走刑務所の脱獄王

白鳥由栄(しらとり よしえ、1907~1979)
画像:by HSGryffindor

漫画『ゴールデンカムイ』の白石由竹のモデルとしても有名な白鳥由栄は、生涯で4回の脱獄を成功させた伝説の「脱獄王」です。 特に1944年(昭和19年)、網走刑務所の厳重警備の「五翼放射状平屋舎房」から脱獄したエピソードは衝撃的です。

網走では凶悪犯専用の特別房に収容され、重さ20kg近い特製手錠・足錠をかけられ(看守からはかなり警戒されていた)、真冬でも夏服一枚、夏には厚着を強制されるなど過酷な待遇を受けました。白鳥はこれに耐えかね、脱獄を決意。 視察窓(視察孔)の鉄枠を固定するボルト(または釘)に、毎日の食事の味噌汁を朝晩2回、数カ月~1年にわたって吹きかけ続けました。塩分による腐食でボルトが錆び緩み、ついに外すことに成功。 視察窓のサイズはわずか20×40cmと極めて狭いものですが、白鳥は肩や手足の関節を自由に脱臼できる特異体質を持っていたため、頭さえ通せば体全体を抜け出すことができました。 廊下へ出た後は壁をよじ登り、天窓を頭突きで破壊。こうして白鳥は脱獄を成功させました。

網走以外にも青森・秋田・札幌の刑務所から脱獄を繰り返しましたが、脱獄後に世話になった看守長(小菅の小林良蔵主任)を訪ねて自首したり、警官から煙草をもらった親切に感動して自首したりするなど、どこか人間味あふれる性格だったようです。

白鳥が実際に入れられた第4舎には、脱獄する白鳥らしきマネキンが展示されています。

【重要文化財】
庁舎(ちょうしゃ)

博物館の正門を抜けるとすぐ目に入る建物。 正門の赤レンガとは対照的に、鮮やかなグレーと水色で塗られた西洋風の外観が特徴で、当時としては珍しい近代的な建築様式をしています。

この庁舎は、1909年(明治42年)の大火災後、1912年(明治45年)に建造されたものです。司法省の設計により囚人たちの手で施工され、内部にはボイラーや蒸気発電設備が備えられました。これにより、網走の町で初めて電気の灯りがともり、舎房や庁舎全体が24時間体制で照らされるようになりました。夜中も灯りが消えることがなかったことから、「最果ての不夜城」と呼ばれたとも言われています。

現在は博物館のギャラリーとして活用されており、網走監獄の歴史を詳しく綴ったキャプションボードや関連書物が展示されています。また、冬場は館内で暖房の効いた数少ない場所の一つなので、寒さが厳しい時はここで一息つくのがおすすめです。

庁舎の中
喫茶コーナーもあります。珈琲がとても美味しかったです。

【重要文化財】
二見ケ岡刑務支所

1896年(明治29年)、網走監獄の農作業を先導する「屈斜路外役所」として開設されたのが、この二見ヶ岡刑務支所の始まりです。 現存する建物(庁舎、舎房、炊場は明治29年建築、教誨堂及び食堂は大正15年増築)は、現存する木造刑務所建築として最古級のもので、1999年(平成11年)に博物館網走監獄へ移築・復原されました。2016年(平成28年)2月9日には国の重要文化財に指定されています。

もともとは網走刑務所の西方丘陵地にあった支所で、農作業に従事する囚人たちが収容されていました。特徴は塀のない開放的処遇で、信頼のおける選抜された受刑者たちが社会復帰を目指して自立的に作業を行う場所でした。

なお、こうした開放施設での脱獄事件は極めて稀ですが、2018年に同じく塀のない松山刑務所大井造船作業場で脱走事件が発生した例もあります。一方、二見ヶ岡農場では1981年(昭和56年)頃に逃走事件が起きたようで、それ以降は大きな事例は報告されていません。刑務所は罪人を隔離する施設であることに変わりありませんが、同時に更生と社会復帰を支える場でもあります。まさに収容者と看守の信頼関係によって成り立っている施設といえるでしょう。


【重要文化財】
教誨堂(きょうかいどう)

この建物は「教誨堂」といい、宗教者や教誨師が収容者に対して精神的・倫理的・宗教的な支援や指導を行う場所です。 設計は司法省によるものですが、実際に建築したのは収容者たち自身。特にこの教誨堂は「神仏が宿る家」として、収容者たちがどの建物よりも精魂を込めて作ったといわれています。

外観は木造の落ち着いた入母屋造りですが、内装は漆喰風の明るい壁で柱を極力少なくした広々とした空間になっています。そのため、戦後には軽スポーツやレクリエーションの場としても活用され、収容者たちの憩いの場となりました。


監獄食堂

博物館網走監獄内の「監獄食堂」では、現在の網走刑務所で収容者が食べている食事と同じメニューを味わうことができます。 代表的な「監獄食」は、麦飯(米7割・麦3割)、焼き魚(さんままたはほっけ)、小鉢、味噌汁というシンプルながら意外と豪華な内容。観光客に人気です。

筆者が訪れた際には運悪く休業中でしたが、基本的には博物館の開館日に営業しており、入館しなくても利用可能です。ただし、ランチタイムのみの営業(11:00~15:00、ラストオーダー14:30)なのでご注意ください。冬季は休業になる年が多いため、事前確認をおすすめします。



まとめ「網走監獄と北海道の歴史」

博物館前の鏡橋

今回は、日本でも珍しい屋外型の博物館――しかも監獄をテーマにした異色のスポット「博物館網走監獄」を紹介してきましたがいかがでしたか。

「監獄」という言葉からは物々しいイメージが浮かぶかもしれませんが、当時の囚人たちの過酷な労働なくして、北海道の開拓と発展はなかったと言っても過言ではありません。中央道路の開削をはじめ、広大な農地の開墾、インフラ整備など、網走監獄(囚徒外役所)の存在は北海道近代史の基盤を築いた重要な役割を果たしました。

その後も、内地から次々に重罪人が送り込まれ、日本最北端の極寒の地というイメージが重なった結果、現在でも「網走=監獄の町」という強い印象が残っています。過去にはこの負のイメージを嫌う地元住民の声もあり、刑務所名の変更を求める請願まで出されたほどですが、監獄を中心に町が発展してきたという歴史は、日本近代史においても極めて珍しく、貴重な遺産です。

北海道を訪れた際には、ぜひ「博物館網走監獄」へ足を運んでみてください。明治・大正時代の木造建築を体感しながら、北海道の成り立ちと「光と影」の両面を学べる、忘れがたいスポットになるはずです。


「博物館網走監獄」の基本情報

所在地:北海道網走市呼人1−1

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