はじめに
ゴッホといえば、今や誰もが知る有名な画家です。皆さんは、ゴッホの作品といえばどの絵を思い浮かべますか? また、お気に入りの作品はありますか?
私がゴッホの作品の中で最も気に入っているのは、「ファン・ゴッホの椅子」です。この作品は、ゴッホが南仏のアルルに滞在していた際に描かれたもので、同じ時期に「ひまわり」や「夜のカフェ・テラス」も生み出されています。アルルでの滞在により、ゴッホは自身の画風を確立し、今も多くの人々に愛される色鮮やかな作品群が誕生しました。その中の一つが「ファン・ゴッホの椅子」です。
「椅子」をテーマにしたゴッホの作品には、他にも「ゴーギャンの肘掛け椅子」があります。「ゴーギャンの肘掛け椅子」と「ファン・ゴッホの椅子」は同時期に描かれ、それぞれにポール・ゴーギャンとゴッホの性格を反映した品々が描かれています。「ファン・ゴッホの椅子」には、木製の素朴な椅子の上に、ゴッホ愛用のパイプとタバコ入れが描かれています。一方、「ゴーギャンの肘掛け椅子」には、ゴーギャンの知性を象徴するように、本と蝋燭が置かれています。
この作品が描かれた当時、ゴッホはアルルの「黄色い家」でゴーギャンと共同生活をしていました。しかし、二人は頻繁に衝突し、その関係は次第に険悪になっていきます。ゴッホはゴーギャンを嫌っていたわけではありませんが、癇癪持ちで些細なことで激高する性格が災いし、周囲から疎まれることも多かったのです。ゴーギャンとの衝突も避けられなかったと言えるでしょう。
ゴーギャンがアルルを去ることを察したゴッホは、錯乱し、自分の耳を切り落としてしまいます。彼は市民病院に入院し、後に退院しますが、その時にはすでにゴーギャンはアルルを去っていました。
孤独の中、ゴッホは「黄色い家」で絵画制作を再開し、完成させたのが「ファン・ゴッホの椅子」と「ゴーギャンの肘掛け椅子」でした。
ゴッホの考えや作品に対する想いは、弟テオへの手紙に多く記されていますが、「ファン・ゴッホの椅子」と「ゴーギャンの肘掛け椅子」については多く語られていません。孤独の中、誰も座っていない椅子にゴッホは何を見出していたのでしょうか。彼の心境を想像するしかありませんが、椅子というモチーフに当時の複雑な感情が込められていたことは想像に難くありません。
絵画鑑賞では、色彩や構図といった表面的な要素から作家の心情や背景を想像することが多いですが、画家の生涯やその環境を知ることで、作品への理解が深まることもあります。特にゴッホは、生前、弟テオに多くの手紙を送り、その人生を詳細にたどることができる稀有な画家です。今や屈指の人気を誇るゴッホの作品ですが、その魅力の一部は、彼の人生を知りながら作品を見ることにあるのかもしれません。
今回第1部では、4部に分けてゴッホの生涯を辿りながら、彼の作品を紹介・解説していきます。少し長くなりますが、ゴッホの作品に興味を持ち、好きな絵を見つけていただければ幸いです。
第2部以降の記事はこちらから
幼少期から学生時代
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)は幼いころから画家を志していたわけではありません。彼が画家としての道を選んだのは27歳のときで、これは他の著名な画家と比べてかなり遅い決断でした。それまで、どのような人生を歩んでいたのでしょうか? 第1部では、ゴッホの誕生から画家になる直前までを解説していきます。
ゴッホは1853年、オランダのズンデルトで牧師の父テオドルス(通称ドルス)と母アンナの間に生まれました。祖父や画商の伯父、そして死産した兄と同じく「フィンセント」という名前を付けられたのです。
画像:by G.Lanting
幼い頃のゴッホは人見知りで、非常に神経質な性格でした。女中の証言によると、ゴッホは他人を不快にさせるほど「変わり者」で、「へそ曲がり」「最も可愛げがなかった」と語られています。
ゴッホは他の子どもたちと遊ぶよりも、独りで郊外を歩き回ることを好みました。そこで見つけた野草や甲虫を収集し、ラテン語名を添えて丁寧に標本を作っていました。こうした趣味や自然への関心は、後年の芸術的感性の基礎となったと考えられますが、他人との交流を避ける傾向は、後に彼の人間関係に大きな影響を与えることになります。
型破りな性格のゴッホは両親の手に余るようになり、1864年、11歳のときにズンデルトから約20km離れたゼーフェンベルヘンのヤン・プロフィリ寄宿学校へほぼ強制的に入学させられます。その後、1866年にはティルブルフのヴィレム2世校へ進学しますが、1868年、卒業まであと1年を残して実家に勝手に戻ってしまいます。
ゴッホは努力し、教室で4番目の成績を収めていましたが、それでも我慢の限界に達したのでしょう。両親にとっては、費やした学費や下宿費が無駄になったことから、その失望は相当なものだったに違いありません。
テオについて
ゴッホには3人の妹と2人の弟がいましたが、その中でも弟のテオドルス(通称テオ)とは特に仲が良く、ビー玉やスケートを一緒に楽しんでいました。テオは父親似の社交的で明るい性格で、人当たりの良さから後にゴッホを深く支える存在となります。テオは後にグービル商会(伯父フィンセントが経営陣に在籍)で活躍し、パリのモンマルトル大通りの店舗の経営を担うまでになります。ゴッホが画家に転身してからは、彼の良き理解者として生活費の援助を惜しまず続けました。
グーピル商会時代
ハーグ支店へ。美術との出会い
寄宿学校を抜け出し自由を満喫していたゴッホでしたが、いつまでもそのままではいられませんでした。父方の伯父で、同名の「フィンセント」(通称:セント伯父)の助けにより、1869年7月(16歳)に美術商グーピル商会へ入社。ハーグ支店の見習い店員として働き始めます。
この仕事を通じて、ゴッホは本格的に美術や絵画に関心を持つようになります。ズンデルトで野草や昆虫の研究に没頭した少年時代と同じように、今度は美術誌を読み漁り、美術館や王室コレクション、画廊や骨董市に足を運び、絵画についての知識を深めました。
グーピル商会はハーグだけでなく、ロンドン、パリ、ブリュッセル、ニューヨークにも支店を持ち、オランダ国内に限らず、ヨーロッパ各地や北米の絵画も取り扱っていました。この時点でゴッホはまだ画家になることを考えていませんでしたが、絵画に関する基礎的な知識の多くはこの時期に身に付けました。
ゴッホは驚異的な好奇心と情熱で絵画を研究し、最終的には上客を相手に商談を任されるようになります。上層部からも評価され、1873年初めにはロンドン支店への転勤が決まります。
順風満帆のようにみえたが…
社会人として順調に思えたゴッホですが、私生活では孤独なままでした。そんな中、カロリーン・ハーネベークという女性に恋をしますが、彼女は別の男性と結婚してしまいます。この失恋に深く落胆したゴッホは、心の慰めを求めて娼館通いを始めるようになります。
ロンドン支店への転勤は、表向きは「栄転」とされていました。実際、ハーグ支店の上司テルステーフはゴッホの両親にあてて、
「画廊では誰もが——美術愛好家も顧客も画家も——フィンセント(ゴッホ)が応対するのを好んでいる、そして、彼はきっとこの職業で成功するだろう」1
と手紙を送るほど、ポジティブな評価をしていました。
しかし、絵画に対する情熱や知識が評価された一方で、ゴッホは職場の同僚と打ち解けることがなく、テルステーフには「奇矯で無作法」に映っていました。また、上客を相手にする仕事をしていながら、性的不品行に走ったことは問題視され、最終的に彼はこの職業に不適切だと見なされるようになったのです。
こうして、1873年5月、ゴッホは顧客との接触が少ないロンドン支店への転勤を命じられることになりました。
テルステーフについて
ゴッホを支えた人物として、弟テオがよく知られていますが、H.G.テルステーフが陰ながらゴッホを支えていたことはあまり知られていません。テルステーフは20代半ばでグーピル商会のハーグ支店長となった敏腕の画商であり、ゴッホは彼を畏敬の念とともに深い尊敬の気持ちを持って接していました。
ゴッホがグーピル商会を辞めた後も、テルステーフはゴッホを気にかけ、デッサンの教本や水彩絵の具を送っていました。しかし、ゴッホが弟テオの支援を頼り、画家になろうとしていることを知ったテルステーフは強く反対し、以降、ゴッホの作品を「芸術」として認めることはありませんでした。さらに、ゴッホがテオの支援を受けながら娼婦のシーンと同居していることを知ると、テルステーフは大いに失望し、ゴッホとの関係を断絶してしまいます。
ゴッホはテルステーフを兄のように慕っていましたが、自分を認めようとしないテルステーフに対して次第に強い憎しみを抱くようになります。それでも、テルステーフに認めてもらいたいという思いは消えず、ゴッホは手紙を送り、自身の作品をアピールし続けました。結果的に、ゴッホがテルステーフに認められることは一度もなく、彼はそのまま亡くなります。しかし、テルステーフとゴッホの複雑な関係が、ゴッホの画家としての形成に深く影響を与えたことは間違いないでしょう。
ゴッホの死後、テルステーフは過去にゴッホから届いた手紙をすべてストーブで燃やしてしまいました。これは、天才と称されるようになったゴッホとの不和な関係を世間に知られたくなかったためだと考えられます。しかし、200~300通にのぼるとされる手紙を捨てずに持ち続けていたことは、テルステーフがゴッホに対して憎しみと同時に複雑な感情を抱いていたことを示唆しているのかもしれません。(ちなみに、ゴッホはテルステーフに限らず、テオやラッパルトからの手紙もすべて捨てていました。)
ロンドン支店へ。
ロンドンに転勤後、ゴッホはイギリスの絵画を見て回り、新たな知見を求めました。彼はジョン・エヴァレット・ミレイやジョージ・ボートン、ジョン・コンスタブル、ウィリアム・ターナーといった著名な画家について、弟テオへの手紙で言及しています。
「『ユグノー』や『オフィーリア』などを描いたミレイだが、彼の絵は非常に美しい。それからボートンがいる。彼の『教会へ行く清教徒』が我々の写真画廊にある。僕は彼の素晴らしい絵をいくつか見た。」2
しかし、1873年8月には、最初に借りた下宿がゴッホの給料に見合わない高額な宿賃だったため、新たな下宿へ引っ越すことになりました。この次の下宿先は、ハックフォード通り87番地で、大家のユルシュラ・ロワイエと彼女の娘ウジェニーと共に暮らすことになります。人見知りのゴッホでしたが、ロワイエ家との良好な関係を築くことができました。それは孤独であった彼にとって心の支えとなりました。
「今、一緒に住んでいる家族は非常に楽しい。」3
ヨハンナ・ボンゲル※によると、ゴッホはウジェニーに恋をしていた可能性があります。ただし、ゴッホの手紙にはウジェニーに対する具体的な言及がなく、そのため恋心が実際にあったかどうかは憶測の域を出ません。しかし、後年、ウジェニーの孫キャスリーン・メナードが保管していた菓子箱から、ゴッホが描いたスケッチ「ハックフォード通り87番地」が見つかりました。これがゴッホからの贈り物であったとすれば、ロワイエ家との関係が単なる借家人以上のものだったことが示唆されます。
※:(ヨハンナ・ボンゲルは、後に弟テオの夫人となり、ゴッホ兄弟の手紙をまとめた書簡集を発刊した人物です。私たちがゴッホの人生をたどれるのは、彼女の尽力によるところが大きいでしょう。)
さらにヨハンナによれば、ウジェニーには婚約者がおり、ゴッホが婚約を破棄するよう迫ったものの成功しなかったようです。ヨハンナは「この最初の大きな悲しみで彼(ゴッホ)の性格は変わってしまった」4とも記しています。
1874年8月下旬、ゴッホは突然ロワイエ家を出て別の下宿に引っ越しました。これが失恋の影響か、それとも別の理由(仕事探しにロンドンへやってきたゴッホの妹アンナとウジェニーの間に摩擦があった可能性5)が原因かは不明です。しかし、気に入っていたロワイエ家を去ることはゴッホにとって苦痛だったことでしょう。
再び孤独となったゴッホは、職場でさらに孤立し、仕事への意欲を失います。これを心配した両親とセント伯父(グーピル商会の経営者だった)は、彼に気分転換としてパリ支店での短期赴任を命じましたが、その効果はほとんどなく、ゴッホの苛立ちはむしろ増してしまいました。
1875年1月、ロンドンに戻ったゴッホの勤務態度は改善されることなく、彼は次第に新画廊開業を予定していたロンドン支店にとって厄介な存在となっていきます。そして同年5月、再度パリ支店へ異動を命じられました。
パリ支店へ。宗教に熱中し解雇される
ロワイエ家を去った後、ゴッホは宗教書に強く惹かれるようになり、熱心に読み漁る日々を過ごしました。パリに移ってからもその情熱は衰えず、弟テオへの手紙でも、美術の話題(テオもグーピル商会に入社していました)は次第に減り、宗教に関する話が多くなっていきます。
パリ本店で働く同僚であり同じアパートに住んでいたハリー・グラッドウェルと共に、ゴッホは聖書やトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に没頭していきました。
1875年、ゴッホがパリに移住した時期は、フランス美術界では印象派が大きな話題を呼んでいました(ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」やモネの「散歩、日傘をさす女」が描かれていた時代です)。ハーグ支店時代のゴッホであれば、こうした美術動向に飛びつき、調査や研究に没頭したことでしょう。しかし、この頃のゴッホは宗教に深く傾倒しており、同時期の印象派について記録を残していません。
次第にゴッホは禁欲的な思想に取りつかれるようになり、商業主義的なグーピル商会での仕事に対して強い疑念を抱くようになります。彼の仕事に対する意欲は薄れ、宗教への情熱ばかりが高まっていきました。
1875年のクリスマスには、無断でエッテン(父ドルスの転勤に伴いズンデルトから移っていた)へ帰省してしまいます。その行動がきっかけで、1876年4月1日、ついにゴッホはグーピル商会を解雇されることとなりました。
聖職者を目指す
弟テオの成功とは裏腹に…
ゴッホが解雇という苦境に立たされていた一方、弟のテオは成功を収めていました。
1873年1月、テオは兄と同じグーピル商会ブリュッセル支店に入社しました。同年11月には、かつてゴッホが勤めていたハーグ支店へ異動します。社交的で穏やかな性格のテオは、すぐに支店長テルステーフに気に入られ、経営者のセント伯父からも高い評価を受けます。
セント伯父は、子供に恵まれなかったため、ゴッホ兄弟をグーピル商会に入社させました。当初、経営の跡を継ぐのはゴッホだと期待していましたが、その期待は裏切られる結果となりました。
1876年3月末、グーピル商会から解雇されたゴッホは、エッテンの実家に帰省しようとしていましたが、その直前にイギリス・ラムズゲートの学校から採用通知を受け取りました。解雇という挫折を経験していたゴッホにとって、この仕事は救いとなり、両親に面目を保つ手段にもなりました。
エッテンに数週間滞在した後の1876年4月14日、ゴッホは船で再度イギリスへ向かいました。
聖職者へのあこがれ
ラムズゲートの学校ではウィリアム・ポスト・ストークス氏が経営する寄宿学校で働き始めましたが、給料の問題でストークス氏と衝突し、解雇されます。7月からはロンドン西部アイズルワースにあるトーマス・スレイド=ジョーンズ牧師が運営する「ホルム・コート」で教師として勤務することになりました。
ジョーンズ牧師は、学校の運営に加え、近隣のターナム・グリーンにある教会で牧師を務めていました。宗教熱に駆られたゴッホは、ジョーンズ牧師に教会での仕事を願い出て、日曜学校や木曜夜の礼拝を手伝うようになりました。ゴッホは、病気の生徒を見舞うなどの仕事にも熱心に取り組み、牧師の信頼を得るようになります。
その結果、牧師はゴッホに南部ピーターシャムのメソジスト礼拝堂で指導を任せ、1876年10月には初めて説教壇に立つことを許しました。この経験は、ゴッホに聖職者への憧れを強く抱かせました。
アイズルワースから送られる手紙には、宗教について長々と書かれることが増え、ゴッホは次第に正式な聖職者になることを志すようになっていきます。
1876年12月、ゴッホはエッテンの実家へ帰省しましたが、現在の仕事を続けることを両親に反対されます。特に父ドルスは、見込みのない仕事を続けることに懸念を抱き、セント伯父を通じてゴッホに新しい仕事を用意していました。聖職者になるには8年以上の学業が必要であるという現実をドルスから聞かされ、ゴッホは一旦その夢を諦めざるを得ませんでした。
それでも、ゴッホの心の中には、依然として宗教への熱い情熱が消えることなく残っていました。
「宗教上の仕事については、僕はまだあきらめてはいない。」6
ドルトレヒトへ。書店で働くが…
再びセント伯父の力を借り、1877年1月(23歳)からゴッホはドルトレヒトの書店「ブリュッセ&ファン・ブラーム」に就職しました。しかし、命じられた仕事はしっかりこなしていたものの、書籍販売について学ぼうとはせず、仕事中に聖書を翻訳したりして過ごしていました。
ゴッホは聖職者になることを諦めておらず、当時ドルトレヒトの牧師だったケレル・ファン・ホールンに助言を求めます。しかし、ファン・ホールン牧師も父ドルスと同じようにゴッホの考えに否定的でした。
また、書店の店主の息子ブラートに対しても、ゴッホは時折牧師になりたいという思いを語っていました。ある時、ブラートが「だけど、あなたのお父さんがあんなに長年勤めていても、エッテンとかデ・レールなどといったところよりましな地位が得られないところを見ると、あまり香ばしくない話じゃないか」7と助言すると、ゴッホは怒ってこう言い返します。
「お父さんは絶対に正しい地位にいるのだ、真の牧者なのだ。」8
ゴッホは聖職者への夢を否定されたものの、父ドルスとその職業を心から尊敬していました。失恋や職場での人間関係の悪化から宗教にのめり込んだと言われるゴッホですが、彼の強い聖職者への執着は、もしかすると幼い頃から抱いていた父への敬愛に根ざしていたのかもしれません。
仕事場では相変わらず孤立していたゴッホですが、ルームメイトで教員の勉強中だったパウルス・ヘンリッツとは仲が良く、しばしば散歩に出かけるほどでした。ヘンリッツは後年、ゴッホについて「宗教への感情は広く、気高い」としつつも、書店の仕事に関しては「不向き」だったと評しています。また、ヘンリッツによると、ゴッホは仕事以外の時間をほぼすべて宗教に捧げ、聖書を読み、説教の草稿を書き続けていたそうです。それでもゴッホは両親には書店での仕事に満足しているふりをして、苦労を隠していました。
ヘンリッツがゴッホの実家に泊まった際、母アンナに職場でのゴッホの様子を話しました。アンナはゴッホが書店の仕事に満足していないこと、そして彼の唯一の願いが牧師になることだという話を聞き、心を痛めます。
ヘンリッツの報告を受けた父ドルスはついに根負けし、ゴッホが王立大学の神学部を受験することを条件に、聖職者への道を認めました。母方の伯父であるヨハネス・ストリッケル牧師や父方のヤン伯父が、勉強や下宿の世話を手助けすることを約束します。しかし、グーピル商会での経験からゴッホの性格をよく理解していたセント伯父だけは、神学部受験に対して否定的で、援助を拒否しました。
敬愛する父と故郷ズンデルト
ヘンリッツがエッテンのゴッホ家を訪れる少し前、父ドルスはドルトレヒトにいるゴッホに手紙を書いていました。その中で、かつての教区であるズンデルトの農夫アールセンが危篤であることを伝えています。
この知らせに、ゴッホは宗教への使命感と故郷ズンデルトへの郷愁に駆られました。いてもたってもいられなかった彼は、ヘンリッツから旅費を借り、その日の最終汽車でズンデルトへ向かいました。ズンデルトまでの最後の20㎞は夜道を徒歩で移動し、夜明けまでアールセン家の人々が起きるのを待ちました。 朝になり、アールセンの子供たちから、アールセン本人が昨晩亡くなったと知らされます。ゴッホは父ドルスのように家族に聖書を読み聞かせ、アールセンの遺体を見ました。その時のことを陶酔した心境で以下のように記録しています。
「僕は枕の上に横たわったあの高貴な顔を忘れることはないだろう。顔には苦しみのあとが見えていた。しかし、平和な表情をして、ある種の神聖さを漂わせていた。ああ、実にそれは美しかった。」9
その後、徒歩でエッテンまで移動し、両親を突然訪問しました。(不眠のまま一晩で合計25~30㎞歩いたことになります) ゴッホがアールセン家を訪ねたことを知った父ドルスは、彼のズンデルトへの愛着に感謝しながらも、その常軌を逸した行動に困惑を隠せませんでした。ドルスはこの複雑な心境をテオへの手紙に綴っています。
「テオ、お前はフィンセント(ゴッホ)がまた突然来て我々を驚かせたのをどう思う。彼はもっと慎重であってほしかった。」10
その後、ゴッホは1877年5月(24歳)より、アムステルダムのヤン叔父の家に下宿し、受験勉強を開始します。 伯父たちからの積極的な支援を受けながらも、父ドルスは内心、息子が聖職者に向いているのかという疑念を拭い去れませんでした。そしてその疑念は、残念ながら後に的中することになります。
ヤン伯父と日本
ゴッホがアムステルダムで下宿していたヤン伯父(ヨハンネス・ファン・ゴッホ)は、父ドルスの兄で、当時海軍中佐、海軍司令官、さらにアムステルダム造船所の所長も務めていた人物です。ゴッホ家の中でも最も社会的地位が高い人物として知られています。
実は、このヤン伯父は日本に縁がある人物でした。二見史郎氏の「ファン・ゴッホ詳伝」によると、彼は1860年11月から1年間、艦長として日本に滞在していたそうです。二見氏の記述によれば、ヤン伯父は当時の駐日オランダ総領事デ・ヴィットに同行し、幕府の老中である安藤対馬守信正と面談しています。また、駐日米国公使タウンゼント・ハリスの通訳兼秘書であったヘンリー・ヒュースケンが攘夷派の武士に襲撃され命を落とした際、ヤン伯父は自らの艦から分遣隊を送り、葬儀に参列させたとされています。
後年、画家となったゴッホは日本の浮世絵に強い影響を受け、日本の風景を夢見て南フランスのアルルへと向かいました。それほどまでに憧れた日本とヤン伯父との意外な関係を、もしゴッホが知っていたなら、ヤン伯父に日本のことを詳しく尋ねたことでしょう。しかし、ゴッホの手紙にはヤン伯父と日本との関係についての言及はなく、またゴッホが浮世絵と出会う前にヤン伯父は他界していたため、ゴッホがその冒険を知ることはなかったようです。
神学校へ向けての受験勉強
神学校受験に必要なギリシャ語とラテン語の教師として、ストリッケル牧師の紹介でメンデス・ダ・コスタがゴッホの指導にあたることになりました。メンデスはゴッホよりわずか2歳年上であったため、二人は初対面にもかかわらず、すぐに打ち解け合いました。
メンデスは聴覚障害を持つ弟と同居していましたが、ゴッホはその弟に大きな関心を示し、いつも親切に接していました。また、メンデス家で世話をしていた精神薄弱の伯母が「ファン・ホルト(引き割り大麦という意味)さん」とゴッホに対して勘違いした挨拶をしても、ゴッホは嫌な顔をせず、「メンデス、あなたの伯母さんがいくら僕の名前を台無しにしたところで、彼女は善良な人です。僕は大好きですよ。」11と優しく対応しました。
このエピソードは約30年後、メンデス自身がゴッホについて語ったもので、彼はゴッホに対して非常に好意的な印象を抱いていました。また、メンデスはゴッホの外見や性格について次のように述べています。
「わたくしの目に映った彼の容貌は魅力がないなどというものでは決してなかった。〔……〕どうして彼の妹が彼について『多少とも荒っぽい外観』などと語っているのかどうもわたくしには解らないのである。〔……〕決して荒っぽかったなどと言えるはずがない。彼の力強い手についてもそうであり、また彼の表情についても同じで、むしろそれは素朴なものとして見られたであろう。その表情は多くを表現したが、またさらに多くを内に秘めていた。」12
メンデスの指導のもと、ゴッホは順調にラテン語とギリシャ語の勉強を進め、ほどなくしてラテン作家の文章を翻訳できるようになり、愛読書であるトマス・ア・ケンビスの著作を原文で読むまでになりました。
しかし、ギリシャ語の動詞でつまずいたゴッホは徐々にやる気を失い、受験勉強に対して疑問を抱くようになります。
「メンデス、僕の様に、貧しい人たちに平和を与え、彼らがこの世の生活に安らぎをうるようにする仕事に携わりたいと思っている人間にとってこんな恐ろしい勉強が必要だとあなたは本気で信じていますか。」13
メンデスは懸命にゴッホのモチベーションを取り戻そうとしましたが、ゴッホの成績は停滞し始めました。ゴッホ自身も努力を続けようとしましたが、結果が伴わず、次第にフラストレーションを募らせます。
ゴッホはその苛立ちを、自らを罰する行動で発散していました。メンデスによると、勉強が進まない日には、ゴッホはこん棒で自分の背中を叩き、ベッドで寝ることを拒否して木造小屋の硬い床で眠るという罰を自らに課していたそうです。これが昼間の勉強に悪影響を及ぼしていたことは言うまでもありません。
ゴッホはこれら自己懲罰について「メンデス、僕はまたこん棒を使いましたよ」だとか「メンデス、昨夜は自分に閉め出しの罰を食わせましたよ」などとメンデスへ律儀に報告をするのでした。
メンデスはゴッホのこうした行動について「精神的マゾヒズムから来ていたように思われる」と振り返り、少なからず戸惑いを感じていました。
当初2年間を予定していた神学校受験の勉強は、メンデスの判断で1年足らずで終了します。メンデスは、このままでは合格は難しいと判断し、ストリッケル牧師に勉強の中止を提案しました。ゴッホ自身もその決定に同意し、メンデスとの授業は幕を閉じることになります。
カテキスタ
メンデスから受験勉強の中止が提言される以前、ゴッホは勉強の合間や休日を利用して、頻繁に町の教会を訪れていました。その際、英国人牧師チャールズ・アドラーと知り合い、彼の影響で「シオン教会」の日曜学校で教えることになります。
受験勉強に対してやりがいを感じられなくなっていたゴッホは、次第にシオン教会での活動に心の拠り所を見出し、「カテキスタ(教理を教える人)」としての道を志すようになります。
しかし、カテキスタは宗教家の階級の中で最も低い位置にあり、給料も非常に少ない職業でした。無論、父ドルスはこれに猛反対します。伯父たちも巻き込み、多額の費用をかけて支援してきた結果が「カテキスタ」では、家族全員が納得できるはずもありません。ドルスはゴッホに受験勉強を続けるよう何度も説得しますが、ゴッホはこれを頑なに拒否してしまいます。
こうして、アムステルダムでの神学校受験のための勉強は、結局失敗に終わりました。牧師になるためには8年の学びが必要だと最初から説明されていたにもかかわらず、ゴッホはたった1年でその道を自ら諦めてしまったのです。
ベルギー・ブリュッセルへ。さらなる挫折
1878年7月5日、25歳のゴッホはアムステルダムからエッテンの実家へ戻りました。すぐにでも現場で働きたいと強く願っていたゴッホに対し、父ドルスは別の道を探ります。そして、ベルギーの福音派の学校を見つけました。当時、ベルギーの聖職者資格はオランダに比べて取得が容易で、オランダで6年かかる教程がベルギーではわずか3年で済むとされていたため、ドルスはゴッホにも合格の可能性があると考えたのです。
7月中旬、ドルスはゴッホを連れてベルギー・ブリュッセルの伝道師養成学校の面接試験に向かいます。この際、アイズルワースのトーマス・スレイド・ジョーンズ牧師も推薦状を携えて同行しました。
面接の結果、3カ月の試用期間を経て問題がなければ、3年間の全教程を履修することが許可されることになり、ゴッホは1878年8月にブリュッセルの伝道師養成学校へ入学しました。25歳のゴッホは学年で最年長でした。
学校ではアムステルダムの時と同様にラテン語の授業が行われましたが、ゴッホはメンデスに以前宣言したように「聖職者にとって不要」と勝手に判断したことに関しては全く興味を示しませんでした。級友の証言によれば、授業中に教師のボクマが「ファン・ゴッホ、これは与格かな、それとも対格かな(与格・対格とはヨーロッパ言語の文法)」と問いかけた際、ゴッホは「実際、どちらでもかまわないです。」と挑発的に答えたそうです。
他の学生に対しても友好的ではなく、ある学生が彼をからかった時には、恐ろしい表情で相手に向かって行き「一撃を食らわせた」と言われています。また、ゴッホは授業中に机を使わず、ノートを膝に乗せて読み書きを行っていました。教師が机に座るよう促しても「ご心配なく、僕はこれで充分なのです。」と拒否し、アムステルダム時代の自己懲罰に似た行動を繰り返していました。
こうした態度から、ゴッホは3カ月の試用期間で不合格となります。ベルギーの基準がいくら緩やかでも、勉強を好まず、常に対立的な態度を示すゴッホには「聖職者としての適性がない」と判断されてしまったのです。この結果にゴッホは深い絶望を味わいました。
学校側は父ドルスに配慮し、「勉強を続けるだけであれば学校に残っても良い」という提案をしましたが、ゴッホはブリュッセルを離れ、さらに南西に位置するボリナージュで実際の伝道活動を行うことを希望します。
ボリナージュへ。絶たれる聖職者への道
1878年12月(25歳)、ゴッホはベルギーの炭鉱地帯であるボリナージュのプティ・ヴァムへ向かいました。伝道師の資格は持っていませんでしたが、宗教への情熱と父ドルスの推薦状により、現地の伝導委員会から伝道師として6カ月間の試用期間(毎月50フランの俸給付き)を認められました。
ボリナージュに到着したゴッホは、すぐに精力的に伝道活動を開始します。公衆の前で説教を行い、病人を見舞うなど、地域の人々と深く関わりながら献身的に活動を進めました。特にゴッホの心を引きつけたのは、炭鉱夫たち労働者の姿でした。彼はテオに宛てた手紙の中でこう述べています。
「先日、たそがれ時に白い雪の上を家路につく抗夫たちの姿を見たが、それは魅せられるような眺めだった。この人たちは全くまっ黒だ。彼らが暗い炭坑から陽の当たる明るみへ出てきた時は、まったく煙突掃除夫そっくりだ。彼らの家は実に小さくて、小屋と呼んだ方がいい。〔……〕夕方になると、小さなガラス窓ごしになつかしい灯がともるのが見える。」14
当時のボリナージュでは炭鉱労働者の賃金がここ3年で3分の2に減少しており、爆発や落盤、疫病で何百人もの炭鉱夫が命を落としていました。そのため、この地域では劣悪な労働環境や資本主義の行き過ぎに対抗するため、労働組合などの組織が活動していました。
ゴッホはこの厳しい現状に深く共感し、自分の俸給50フランを彼らに分け与え、病人のためには自分の衣類を裂いて包帯にするほど献身的でした。最終的には、贅沢すぎると感じた下宿を離れ、炭鉱夫たちと同じ小さな小屋に移り住み、寝具も使わず炉の隅で眠るようになりました。この行動は、かつて家庭教師メンデスが「精神的マゾヒズム」と評した自己懲罰と同じようなものでした。
当初は身なりの整っていたゴッホも、次第にみすぼらしい格好になり、最後には現地の炭鉱夫でさえ驚くような姿になっていました。住民たちは「(ゴッホは)炭坑夫よりもっときたない顔をしていた」「シャツ1枚、靴下1足持たぬありさまとなり、わたしどもは彼(ゴッホ)が袋の布でシャツをこさえているところを見かけたものです」15と語っています。ゴッホの姿は、もはや聖職者らしさとは程遠いものでした。
父ドルスは息子の異常な行動を聞き、現地を訪問します。そこには藁を詰めた袋の上に横たわるやせ細ったゴッホがいました。ドルスは息子を下宿に連れ戻し、伝道師らしい生活に戻るよう説得しますが、ゴッホは再び小屋に戻ってしまいます。現地の伝導委員会も、ゴッホの「過剰な献身」に懸念を抱き、父と同じように彼に忠告しましたが、ゴッホはそれを受け入れませんでした。
こうした自己犠牲的な行動は、現地の労働者たちと同じ境遇に立つことで彼らの信頼を得たいというゴッホの誠実な思いから生じたものだったのでしょう。しかし、その誠実さは他人から見れば狂気以外の何物でもありませんでした。試用期間の6カ月が過ぎると、伝導委員会はついにゴッホの伝道師としての許可を取り消し、俸給の支給も終了してしまいました。
こうして、ゴッホの聖職者への道は完全に閉ざされてしまったのです。
第1部のまとめ「ゴッホの居場所は何処にあったか」
幼少期から気難しく、癇癪を起こしやすかったゴッホは、他者との交流が苦手で、常に衝突を繰り返し孤立していました。この孤独は生涯にわたって彼を悩ませましたが、例外的に彼が穏やかに活躍できた場所が一つありました。それが、イギリスのアイズルワースで、トーマス・スレイド・ジョーンズ氏のもと教師として働いていた時です。
アイズルワースに滞在中、ゴッホは南にあるハンプトン・コート宮殿を訪れ、美しい庭園や並木道を楽しんだり、宮殿内に展示されていたホルバイン、レンブラント、ダ・ヴィンチ、ティツィアーノらの絵画を鑑賞して「うれしかった」と弟テオへの手紙に綴っています。彼は生徒たちとも親密に接し、毎日朝夕に聖書を読み、讃美歌を歌い祈りを共にしていました。ゴッホは生徒たちの祈りを「主が聞いておられるわたりがらすの雛たちの鳴き声を思い出す」16と表現し、彼らに対する深い愛情を示していました。
ジョーンズ氏との関係も良好で、彼はゴッホの情熱に感銘を受け、教会での活動や公衆に向けた説教を任せました。さらに、ゴッホがテオの病気を理由に帰省を願い出た際にも彼を怒らせることなく御しています。後にゴッホがブリュッセルの伝道師養成学校の面接に向かう際には推薦状を持ち、自ら同行までしています。ジョーンズ氏の存在は伝記では多く語られていませんが、ゴッホにとって非常に面倒見の良い支えであったことが伺えます。
ゴッホはアイズルワースでの仕事の継続を希望しますが、父ドルスはこれを許しませんでした。
ドルスは社会不適合者であるゴッホを何とか立ち直らせようと奔走しました。しかし一方で、アイズルワースでの教師(牧師の助手)の仕事を否定し、アムステルダムでゴッホがカテキスタを目指そうとした際にも猛反対しています。
ドルスがゴッホの職業にこだわったのは、ゴッホ家がエリート家系(セント叔父はグーピル商会の幹部であり、ヤン叔父は元海軍中将)であったことが大きく影響していると思われます。
「叔父たちまでとは言わないが、長男としてふさわしい職業についてほしい」という父ドルスのゴッホへの愛情と淡い期待が皮肉にもゴッホを追い詰める形となったと言えるでしょう。
誰も理解してくれる者がいない中ボリナージュで暴走するゴッホは、ついに伝道の許可を取り下げられます。
聖職者を諦めざるを得なくなったゴッホは絶望しますが…
続きは第2部へ…
「ゴッホを解説!」シリーズ
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ゴッホの足跡(1853~1880年)
参考文献
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス著「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行
・吉屋敬著「青空の憂鬱」評論社 2005年4月25日発行
・二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年11月1日発行
引用・参照元
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第一巻」みすず書房 1984年7月2日改訂版発行、13頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、74頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、78頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、14頁 ↩︎
- スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス著「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行、115頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、156頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、181頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、182頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、174頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、174頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、251頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、249頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、249~250頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、266頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、315頁 ↩︎
- 二見、1984年7月2日、135頁 ↩︎
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