第2部からの続きです。
前回のおさらい
聖職者への道を挫折し、画家を目指すことになったゴッホは、オランダのヌエネンにて大作「ジャガイモを食べる人々」を完成させました。渾身の作品ではありましたが周囲の評価は芳しくありません。
モデルとのスキャンダルや父の死による家族関係の悪化から、ゴッホはヌエネンを去ることになってしまいますが…
アントウェルペンへ
ベルギー最大の港町、アントウェルペン
1885年11月(32歳)、ゴッホはベルギーのアントウェルペンに移住しました。
それまで過ごしていたヌエネンの田舎から、賑やかな都会での生活へと移ったゴッホは、その喜びを弟テオに語ります。
「僕がアントウェルペンへ来てどんなに喜んでいるか、口ではちょっと言えないくらいなのだ。〔……〕この両極端を一緒にしてみると、僕の頭にどんなに新しい想念が生まれ出てくることか。両極端、まったくの片田舎とここの大賑わい。僕は大いにこれが必要だったのだ」1
アントウェルペンでも、ゴッホはこれまでと同様にモデルを求めますが、今回はモデル代金を節約するためにある考えがありました。
「肖像画を描いてやってそれをポーズ代の支払いにかえるという考えはおそらくかなり安全な道だろう」2
「僕の最良のチャンスは人物画にある。〔……〕僕は自分の仕事が他の人の仕事と比べて引けを取らぬことを知っている。」3
人物画を何度も描き続けたことで、画力に自信をつけたゴッホは、肖像画を描くことでモデル代を節約しようとします。しかし、現実はそう簡単にはいかず、結局、踊り子や娼婦にお金を払い、モデルを雇うことになってしまいます。そして、モデルを探すという名目で、ゴッホは娼館に頻繁に通うようになりました。
モデル代を節約するどころか、出費はますます増える一方でした。増える出費に困惑したテオは、ゴッホに「田舎に戻ってほしい」と頼みますが、ゴッホは激しく反発します。
「月に多分50フラン足りなくなるから田舎へ戻ってほしいというような頼みを君が当然のこととして僕に要求できるとは思わない。〔……〕やれやれ、苦労の何たるかについて一度だって考えてみたこともなく暮らしているような人間、万事は好都合に展開するものといつも考えているような人間、そういう連中がいかに多いことか!〔……〕僕の好きなようにさせるだけの誠実さを持ってくれ。僕は喧嘩したくないし、これからもそんなことはしない、だが、自分の行路を邪魔されたくないと君に言っているのだからね。」4
王立芸術学院
テオから「田舎に戻れ」との要請を受けたゴッホは、どうしてもアントウェルペンを離れたくないと美術学校への入学を希望します。彼はテオに対し、美術学校では安価で裸体モデルを提供してくれるだけでなく、新たな人間関係も築けると強調しました。
その後、無事にアントウェルペン王立芸術学院に入学したゴッホは、自信を持って授業に参加します。オランダ時代に培った技術を活かし、モデルである二人のレスラーを周囲が驚くほどの速さと勢いで絵を描いていきました。
しかし、授業中にゴッホの絵を目にした校長シャルル・ヴェルラは、あきれた様子で言い放ちます。
「わしはこんな腐った犬みたいなものは直さん。さあ、君、すぐデッサンのクラスへ行きたまえ」5
「腐った犬みたいな」と評されたゴッホは、赤面しながらもヴェルラの指示に従い、デッサン教室へ移ります。しかし、その後のデッサン教室でゴッホの怒りは爆発しました。
ある日、ミロのヴィーナスを写生する課題が出され、ゴッホはヴィーナスの腰の幅を大げさに強調して描きました。これを見た教師ウジューヌ・シベールは怒り、クレヨンで修正を加えます。ゴッホはこれに激怒し、強く抗議しました。
「それだから、あなたは若い女がどういうものかわかっていないのです。いやはや!女というものは腰と臀と子供を入れることのできる胎盤とを持っていなければいけないのです!」6
「デッサンとは像の部位の大きさや形態を線に見出し形を正確に表現していくこと」ということがシベールの理念でした。しかし、ゴッホは、正確さだけを求めるデッサンを「死んでいる」と自身の正当性を主張したのです。激怒したゴッホはこの日以降、授業には出席しなくなりました。
シベールのゴッホのデッサンに対する評価は「ミロのヴィーナスのデッサン」が残っていないのでなんとも判断できません。しかし、当時同じデッサン教室に通っていたヴィクトル・ハーヘマンはゴッホのビーナスのデッサンについてこう語っています。
「美しいギリシャの女神は逞しいフランドルの女将になってしまった。」
「私はいまだにこの巨大な骨盤をした、ずんぐりのヴィーナスが目に浮かんできます。ファン・ゴッホの木炭から生まれ出たあのとてつもない臀部肥大の女像が。」7
梅毒
アントウェルペンで娼館に通い始めてから、ゴッホの体調は急激に悪化していきます。彼は手紙で、テオに対して次のように訴えています。
「抜けた歯、あるいは抜けそうな歯が少なくとも10本はある。これはあまりにもひどいし、実につらい。それに、この丘で僕は40歳以上に見えてしまう。〔……〕同時に、胃が悪くなっているから手当てすべきだと僕は言われている。〔……〕先月頃から非常に具合が悪くなった。絶えず咳が出て、灰色っぽい痰を吐き始めるようになったりして、僕も心配になってきた。」8
この体調悪化の原因として、過度の喫煙や栄養失調が考えられますが、ゴッホの場合、さらに別の要因が関わっていた可能性があります。彼はグーピル書店に勤務していた頃から娼館に通っており、ハーグでシーンと同棲していた時には淋病で入院したこともありました。不特定多数の相手との性交渉を繰り返していたことから、ゴッホは梅毒に感染していたと考えられています。
19世紀当時、梅毒の治療法は確立しておらず、水銀を用いた治療が一般的に行われていました。水銀は服用や燻蒸、軟膏として皮膚に塗るなどの形で使われ、中毒症状である「流延」を発症させることで病気を排出できると信じられていました。また、水銀の症状として他に、歯肉の潰瘍や歯の喪失といったものがあげられます。現在では、水銀は中枢神経系や内臓に有害な影響を与えることが分かっており、このような治療法は使用されていません。
ゴッホの歯の喪失や「灰色っぽい痰」といった症状は、水銀中毒の副作用に該当します。彼もまた、梅毒の治療として水銀を用いた治療を受けていた可能性が高く、梅毒に加え、水銀中毒による健康被害も出ていたと考えられます。
アントウェルペンからの逃亡
健康の悪化や美術学院の退学など、アントウェルペンで思うような成果を上げられなかったゴッホは、次第に不安と焦燥感に苛まれるようになります。彼はこう嘆いています。
「僕はここへ来てあまりにも早く前進しようと願ったが為にあまり進歩しなかったかもしれない。だが、仕方がないではないか。健康状態が理由の一つでもあった。」9
ドレンテ時代と同様に行き詰まりを感じる中、ゴッホはパリへ移住し、テオと同居するという案を提案します。テオは一度ヌエネンに戻って療養するように促しますが、ゴッホは田舎に戻ることを頑として拒否しました。
「ねえきみ、ブラバント(ヌエネン)へ行けば、僕はまた最後の一銭までモデル代に注ぎ込むようなことになるに決まっている。またぞろ同じ話がすっかりそのまま繰り返されるだけだ。そいつはありがたい話じゃない。それでは、僕らは本来の道から遠ざかってしまう。だから、なるべく早く僕が(パリへ)行くのを許してくれ。できれば今すぐ、と言いたいところだ。」10
ゴッホは、テオと同居すれば家賃や食費などの生活費を節約できることを強調しますが、テオにとっての問題はそこではありませんでした。画商としての才能を認められ、今やグーピル商会パリ支店の支配人を務めるテオが最も恐れたのは、ゴッホがパリでトラブルを起こすことでした。
父ドルス亡き今、ゴッホの面倒を見れるのは自身だけであるとテオは充分に自覚していました。しかし、ゴッホのヌエネンでの複数のスキャンダルや数々の奇行、温厚なラッパルトを激怒させた等々の背筋が凍る事実は、テオに同居を尻込みさせる充分な理由となりました。
なんとかパリへの移住を思いとどまらせたいテオでしたが、ある日、突然パリ駅からの使者が現れ、手紙を届けます。そこには見覚えのある字でこう綴られていました。
「一気に(パリへ)やって来てしまったのだが、怒らないでくれ。〔……〕ルーヴルへ行っている。〔……〕できるだけ早く来てくれ。」11
パリへ
テオとの同居
1886年3月(32歳)、ゴッホは突如パリに押しかけ、テオとの同居を始めます。テオは元々住んでいたモンマルトルのアパートを引き払い、ゴッホのアトリエを設けるため、より広めのルピック通りのアパートの4階に引っ越しました。
当初、ゴッホは比較的穏やかに暮らしていましたが、次第に生活は荒れていきます。アトリエ内だけでなく、アパート全体に絵具や画材を散らかすようになり、訪問者たちはその様子を次のように語ります。
「アパートというよりも絵具屋のようになっていました」「どこもかしこも荒れ放題でした。あらゆる部屋を乱雑にするのが好みだったのです」
さらには、一泊した客も「朝、寝台から足を出すと、フィンセント(ゴッホ)がその辺に放置していた絵具壺に足を突っ込んでしまった」12と述べています。
新たなアパートに移ってから、1,2か月の内に、テオは原因不明の病に倒れ、雇っていた女中は逃げ出してしまいました。
また、ゴッホはアパートに訪れた客に口喧嘩を仕掛けることもしばしばでした。テオの親友であるアンドリース・ボンゲルは、ゴッホについてこう語っています。
「彼は世間的な事情については全然考えもしない人です〔……〕彼は年中誰とでも喧嘩しています」13
テオはゴッホとの生活がどれほど過酷なものになるか、ある程度は覚悟していました。しかし、兄との常軌を逸した生活は予想以上に負担となり、早くも限界を迎えた彼は、妹にこう打ち明けました。
「(ゴッホと)一緒にやっていくのは不可能で…何故なら彼は何も、誰も容赦しない〔……〕彼を見た者は誰もがこう言います、『気違いだ』と」14
コルモン画塾
パリでテオとの同居を始めたゴッホは、テオの紹介でフェルナン・コルモンが経営する画塾に入門します。コルモンの画風はアカデミックなものでしたが、彼自身は塾生にその画風を強要することはなく、比較的自由に描かせていたようです。
当時のコルモン画塾には、トゥルーズ・ロートレックやエミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ジョン・ピーター・ラッセルといった将来の有名画家たちが集まっていました。
しかし、アントウェルペンの美術学院での経験と同じように、ゴッホはコルモン画塾でも周囲と上手く馴染むことができませんでした。それでも、外国人学生であったジョン・ピーター・ラッセルとは親しくなり、ゴッホは彼のアトリエを訪れるようになります。その際に描かれたラッセルによるゴッホの肖像画は、ゴッホ自身が非常に気に入り、生涯大切にしました。
しかし、ラッセル以外の塾生とは依然として打ち解けることができず、ゴッホはコルモン画塾を3〜4か月ほどで辞めてしまいました。アントウェルペンの美術学院時代の級友ホレイス・リーヴェンズに宛てた手紙では、こう綴っています。
「コルモンのアトリエに通ったが、期待していたほど役には立たなかった。これは僕の方が間違っていたのかもしれないが」15
ゴッホとモンティセリ
1886年5月、パリで開催された第8回印象派展において、ジョルジュ・スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》が発表されました。この作品は、筆触分割(色をできるだけ混ぜずに分割して描く技法)を用い、光学と色彩理論に基づいた新しい技法で描かれ、パリ中の画家から注目を集めました。スーラは後に「新印象派」と呼ばれるグループの中心的存在となります。
ゴッホも新印象派の動向について関心を抱いていたはずですが、1886年秋にリーヴェンズに宛てた手紙では、「アンプレッショニスト(印象派)たちのある種の絵には大いに素晴らしいと思っている」16と述べている一方で、具体的に挙げた画家はエドガー・ドガの裸婦とクロード・モネの風景画だけでした。印象派の最先端であったスーラや彼の作品については触れていません。
また、ゴッホは「アンプレッショニストたちの絵を見てからは、君の色彩も僕の色彩もそのままの方向で発展する限り彼らの理論と正確に同じではないことがはっきりした」17とリーヴェンズに語り、自分の色彩理論が印象派と相いれないものであることを示唆しています。
そんなゴッホが特に敬愛していたのは、ヌエネン時代に愛読していたシャルル・ブランの著書で「偉大な色彩主義者」と称されたウジェーヌ・ドラクロワでした。そして、ドラクロワの後継者としてゴッホが崇拝していたのがアドルフ・モンティセリです。
モンティセリは、ゴッホにとって特別な存在となります。1886年6月にモンティセリが亡くなると、ゴッホは彼を英雄視し、モンティセリ風の静物画を次々と制作するようになりました。
また、自画像においてもモンティセリの影響が見られます。
外光
ゴッホはコルモンの画塾を辞めてから、アトリエに閉じこもって制作を続けていました。しかし、絵は全く売れず、彼のフラストレーションは募っていきます。このフラストレーションは、しばしば同居している弟テオに向かいました。テオの友人であるアンドリース・ボンゲルは、ゴッホが無関係なことでもテオを責め立てる様子を証言しています。
「まったく彼(テオ)に罪のないことまで何でもかでも彼を責め立てるのです」18
そんな生活に疲れ果てたテオは、1887年3月、末妹ウィレミーンへの手紙で兄との生活の苦しさを打ち明けます。テオはかつてゴッホを深く愛していたが、今や二人の関係は冷え切り、家の中では耐え難い状況になっていること、さらにゴッホの不潔さやだらしない生活態度に限界を感じていたことを吐露しています。
「彼(ゴッホ)を援助し続けるのは、彼にとって良くないことかもしれないと自問することがある。何度、もう少しで彼を見放してしまおうとするところまで行ったろう。〔……〕僕にとっていちばん重荷になっているのがカネの問題などと思ってはいけない。問題は、僕らが今や互いに共感しえないということなのだ。僕もフィンセント(ゴッホ)を深く愛していた時代があった。いちばんの親友だったのだ。だがもう終わった。〔……〕家ではもはや耐え難い状況になっている。こうした言い争いが原因で、もう誰も僕らのもとに来ようともしない。おまけに、フィンセントはひどく不潔でだらしないありさまだ。」19
テオが兄を追い出そうと決意しかけた際、ゴッホはその危機を察知し、態度を改めて外に出て風景画を描くようになりました。最初はテオを宥めるために始めた屋外での制作でしたが、この経験がゴッホの画風を一変させるきっかけとなりました。
ゴッホはパリの街並みやセーヌ川、郊外の風景など、積極的に風景画を描くようになります。これまでのように人物画の合間に描く風景画ではなく、風景そのものに集中して描く姿勢が見て取れます。また、この時期の作品は、今までにない明るさと色の鮮やかさがみられ、明らかに印象派の影響が反映されているのが特徴的です。
ゴッホがヌエネン時代に学んだシャルル・ブランやドラクロワ、モンティセリの色彩理論は、パリの外光を取り入れることでさらに発展し、筆触分割の技法を取り入れるまでに至りました。これにより、ゴッホの作品は一層明るく、色彩豊かなものとなります。
天候により外出できないときにはアトリエで自画像を描き、その中でスーラ的な点描から線状のタッチによる描き方まで、様々なことを試しました。点描やタッチを活かした描き方は後年の作品にゴッホの特徴的な描き方としてみられるようになります。
浮世絵
ゴッホはパリでの生活を続けるため、弟テオとの不仲を解消するために風景画の制作に励み、テオとの関係を修復することに成功します。テオは妹ウィレミーンへの手紙で「僕らは仲直りした。このまま上手くいくといいのだが。〔……〕ヴィンセントは一生懸命仕事をして、上達している。絵が明るくなってきた。太陽の光を取り込もうとしているんだ。」20と報告しました。
この時期、テオが勤めるグーピル商会は印象派の画家たちを取り込む方針にシフトしだしました。そして、その画家たちを発掘する役割にテオが選ばれます。テオは手始めにパリ支店のアントルソル(中2階)に1ダースのクロード・モネの作品を展示し、それは美術市場にて大きな話題となりました。
ルピック通りのテオのアパートには、彼との繋がりを求めてパリ中の若い画家が訪ねてくるようになります。その中にエミール・ベルナールがいました。
野心家のベルナールはテオの歓心を買うためにゴッホとも交流するようになります(他の者はゴッホの気質を恐れて関わろうとしなかった)。ベルナールの明らかな打算的な付き合いから始まった関係でしたが、この出会いがゴッホに大きな影響を与えました。
ベルナールはゴッホより15歳も若い年齢でしたが、近代美術を「単純化された広い面」と「明瞭な輪郭線」で構成されるもっと単純化された(後にクロワゾニスムと呼ばれる)様式に発展させようと考えていました。そして、ベルナールはそのイメージの具体的な例として日本の浮世絵をあげます。当時の西洋美術の遠近感や写実主義に対抗するかのようなベルナールの考えは、ゴッホにも強く響きました。
ゴッホは既にアントウェルペンのアパートにいた際に浮世絵を部屋に飾っていましたが、ベルナールを通じて初めて本格的に浮世絵を自身の芸術の指針として意識するようになります。彼は、東洋美術を扱う美術商ジークフリート・ピングの店を訪れ、多くの浮世絵を買いあさり、それらの模写を始めました。
浮世絵を通じてゴッホは、まず西洋画に特有の遠近感から脱却し、より平面的に対象を描くことの重要性を学びました。これにより、色彩がより豊かに際立つことができたのです。さらに、輪郭線を使って色の面を分けることで、画面全体にリズムや調和をもたらす新しい表現を習得していきました。
こうして、パリの外光や浮世絵から得た色彩感覚を吸収したゴッホは、驚異的な勢いで独自の画風を築き上げていきました。
パリを去る
1888年2月(34歳)、ゴッホはパリを離れました。
テオとの関係は比較的良好でありながらも、ゴッホは自ら共同生活に終止符を打ち、南フランスへと向かうことを決断しました。パリを去った正確な理由は明らかではありませんが、いくつかの推測がされています。その中で有力な説として、ゴッホがテオの健康を気遣ったためというものがあります。
この頃、ゴッホはかつてのようにテオに当たり散らすことはなくなりましたが、アルコールの過剰摂取が続いていました。アブサンや葡萄酒、ビール、コニャックなど、彼の日常にはアルコールが欠かせず、娼館にも頻繁に通っていたのです。一方、テオもまた兄を止めることはなく、むしろ兄の不摂生な生活に影響を受け、自身も同じように無茶をするようになっていました。
前年、テオはヨハンナ・ボンゲルスに求婚したものの断られ、その失意の中でさらに無理を重ねるようになっていたのです。もともと体の弱かったテオが一層健康を害していく様子を見たゴッホは、最終的に自ら離れる決断をしたのではないかと考えられています。
アルルへ
南仏アルル
ゴッホがアルルを移住先に選んだ正確な理由は不明です。しかし、アルルから送ったテオやベルナール宛の手紙には次のようなものがあります。
「雪の中で雪のように光った空をバックに白い山頂をみせた風景は、まるでもう日本人の画家たちが描いた冬の景色の様だった。」21
「僕は日本にいるような気がするのだ」22
「まず、この土地が空気の澄んでいることと明るい色彩効果の為に日本のように美しく見えるということから始めたい。水が風景の中に美しいエメラルドと豊かな青の斑紋を描いて、まるで、クレポン(浮世絵)のなかで見るのと同じ趣だ。」23
これらの手紙から、ゴッホがアルルの自然と風景に日本的な美しさを見出し、まるで日本にいるかのような感覚を覚えていたことが窺えます。彼は日本の情景を追い求め、南仏アルルという地に降り立ったのかもしれません。
黄色い家
アルルに到着してから数カ月、ゴッホはレストラン・カレルに部屋を借りていましたが、賃貸料金をめぐって主人と揉め、転居を余儀なくされました。次に彼が選んだのは、レストラン・カレルから数ブロック北に位置する「黄色い家」でした。
この家には電気もガスも通っておらず(後にテオからの仕送りでガスを通します)、トイレすらないため隣の宿のトイレを借りる必要がありました。それにもかかわらず、ゴッホはこの家を非常に気に入りました。
「外側は黄色いペンキが塗られ、内側は白石灰で日当たりがとても良い。〔……〕日当たりがいいんだから、うんと明るい室内で絵がみられるというわけだ。」 24
「この家の外側は新鮮なバターのような黄色に塗られていて、けばけばしい緑の鎧窓がある〔……〕〕この家の中にいると僕は生活し、呼吸し、瞑想し、絵を描くことができる。僕の血液が人並みに循環するためには、強い暑さがどうしても必要なのだから北国にかえるよりは、さらに南国にゆく方がいいと思われる。ここにいるとパリにいる時よりも調子が良い。」25
1888年5月、ゴッホはこの黄色い家をアトリエとして使い始め、9月には家具が揃い、住むようになります。それまでは近隣のカフェ・ド・ラ・ガールに部屋を借りて寝泊まりしていました。そして、ゴッホはこの黄色い家を「裏通りの画家」たちのためのコミュニティにしようと計画します。(ゴッホは、すでに売れている画家を「大通りの画家」、まだ成功していない才能ある画家たちを「裏通りの画家」と呼んでいました。)
「パリの哀れな馬車馬たち——君や僕らの友人や貧しい印象派の画家たち——を疲れた時には放牧してやれる隠れ家を作れたらいいがと思っている。」26
ゴッホは、このコミュニティがテオの美術商としての活動にも利益をもたらすと強く主張しましたが、同時にそれは自身の孤独を埋めるためでもありました。パリを離れ、再び孤独を感じたゴッホは、7年前のエッテンで画家友達のアントン・ラッパルトと過ごした日々を思い出していました。彼らが共に素描し、陽気に過ごした日々は、ゴッホにとって忘れがたいものでした。
彼は、黄色い家にその日々の再来と、理想的な画家たちの共同生活を夢見ていたのです。
「僕は必要とあれば、新しいアトリエに誰かと二人で暮らしても良く、またそうなればいいと思う。」 27
夜の色
アルルでの生活を通して、ゴッホは数多くの作品を生み出しました。その中には、夜景を描いたものもいくつかあります。彼は夜景を描くために、真夜中でも屋外で制作を続け、暗闇の中からも鮮やかな色彩を見出しました。
「僕には良く夜の方が昼よりもずっと色彩が豊かであり、最も強い菫色や青や緑の色合いがあるように思えることがある。ちょっと注意をしてみたら、或る星たちはレモン・イエローで、また別な星は燃えるようなピンク、或いは緑、青、勿忘草色の光輝をもっているのがわかるはずだ。それに青黒い色の上に小さな白い点々を置いただけでは足りぬことは敢えて言うまでもなくわかりきった話だ。〔……〕夜景を実地で描くのは大変おもしろい。従来人がデッサンしたり描いたりしたものは、簡単にスケッチをした後で、真昼間やったものだ。しかし僕は現場で事物を描くことに喜びを覚えている。」28
代表作である「夜のカフェ・テラス」も、この時期に描かれました。電気のない時代、闇夜の中で絵を描くことは難しかったことが想像されますが、ゴッホは意外な方法でその問題に対処しました。ゴッホは現地にガス灯等の灯が無い場合、麦わら帽子のツバに蝋燭を付け、灯として活用したとされています。日本でいえば丑の刻参りのような恰好に近いでしょう。その姿は、周囲の人間の目には非常に奇妙に映ったことでしょうが、ゴッホは大真面目でした。ゴッホは夜の景色から微妙な色の変化を見極め、それを作品に反映させていきます。
「この夜の絵には黒が全くなく、専ら美しい青と菫色と緑で描かれ、周囲の光に照らされた広場は薄い硫黄色と緑がかったレモン・イエローを帯びている〔……〕もちろん色の質を正しく見分けがたいから、暗がりの中では、青を緑と間違えたり、青薄紫をピンクの薄紫と間違えたりすることがあるのは事実だ。しかしそれは一本の蝋燭でも極めて豊かな黄色やオレンジ色を与えるのに、あわれな青ざめた白っぽい光りで夜景を描く従来の因習を脱する唯一の方法だ。」29
光の中の微妙な色彩の移り変わりを観察できる能力は、色彩の移り変わりを誇張して描く方法を発見しました。その鋭敏な色彩感覚と浮世絵やベルナールから学んだ「輪郭線や色面で画面を構成し装飾的かつ象徴的な効果をもたらす」スタイルを独自に発展させ制作していきます。その様子が顕著にみられるのが1888年9月に制作された「夜のカフェ」です。
「夜のカフェ」の舞台となったのは、ゴッホが黄色い家に住む前に仮住まいとして滞在していたカフェ・ド・ラ・ガールです。このカフェは夜通し営業しており、宿賃のない放浪者が夜を明かす場所としても利用されていました。ゴッホはこのカフェの怪しい雰囲気を描き出すため、3日間徹夜して制作に取り組みました。
「僕は『夜のカフェ』で、カフェとは人々が身を持ち崩し、気狂いになり、罪を犯すところだということを表現しようと努めた。柔らかいピンクや鮮紅色の葡萄の絞り槽様の赤、堅い黄緑色と青緑色にうつりあったルイ15世風、ベロネーズ風の柔らかな緑、地獄の坩堝、青白い硫黄色の雰囲気の中にあるこれらすべてのもの、それを対照させて、何か居酒屋の闇の力のようなものを表現しようとしてみた。」30
ゴッホは、赤と緑の補色関係を用いて「人間の恐ろしい情熱」を描こうとしました。彼は、赤が象徴する情熱と緑が持つ優しさを対比させ、その不安定さを表現しています。この作品を通して、ゴッホは色彩によって鑑賞者の感情に訴えかけ、さらに物を単純化し歪めて描くことで、非物質的な感情や力を表現しようと試みました。このスタイルは後にフォービズムや表現主義に影響を与えることになります。
また、このゴッホの描き方は印象派の自然光に基づくアプローチとは異なります。彼は以前、風景画を描いた際に次のように述べています。
「僕はカテドラル(大聖堂)よりは人間の眼を描きたい。カテドラルがいかに荘厳で堂々としていようと、そこにない何物かが人間の眼の中にはあるからだ——人間の魂は、それが惨めな乞食のであろうと、夜の女であろうと、僕にとってはいっそう興味がある。」31
ゴッホは画家になる前から「人間」に強い関心を抱いていました。伝道師として働いていた時も、画家として農民や労働者の生活を描き続けたのも、常に「人間の魂」に対する深い関心があったからに違いありません。アルルで彼が確立した表現は、「人間の魂」を捉えようとする試みであり、それは人物画に限らず、「夜のカフェ」のような風景画や静物画にも反映されていきました。
ゴーギャンと向日葵
ゴッホはパリ時代の画家仲間であるゴーギャンが生活費に困っていることを知り、テオにある計画を提案しました。それは、ゴッホとゴーギャンが黄色い家で共同生活をし、生活費として毎月250フランをテオが負担し、代わりにゴーギャンは毎月少なくとも1作品をテオに送るというものでした。この計画により、ゴーギャンは生活費を心配せずに制作に専念でき、テオはゴーギャンの作品を手に入れることができるという一石二鳥のアイデアでした。
「多分ゴーギャンが南仏へ来そうだ。」32
ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活を始めるために嬉々として準備を開始します。テオから追加の支援を受けてゴーギャン用の家具を揃える一方、ゴッホは部屋に向日葵の絵を飾ることを決めました。
ゴッホとゴーギャンは1887年12月にパリで知り合い、その際にお互いの作品を交換しました。ゴーギャンはマルティニーク島で描いた作品を提供し、ゴッホはパリで描いた向日葵の絵2点を渡しました。この向日葵の作品「向日葵(メトロポリタン美術館蔵)」と「二つの切られた向日葵(ベルン美術館蔵)」をゴーギャンは非常に気に入り、後にパリのスタジオに飾るほどでした(しかし、1890年代にはパナマへの旅費のために売却されてしまいました)。
ゴーギャンが向日葵の作品をとても気に入ってくれたことを良く覚えていたゴッホは、黄色い家に飾るには向日葵の絵しかないと考えたのです。
「僕はブイヤベースを食べるマルセーユ人の熱心さで、絵を描くのに熱中している。」33と述べるほどの情熱をもって、8月中に向日葵の絵を4点制作しました。
ゴーギャンとの共同生活が始まった後も上のオリジナル作品を元に3点の複製作品を制作しました。
ゴッホはゴーギャンがアルルを去った後も向日葵の絵を描いています(季節的に向日葵が手に入らなかった為、夏に描いたものを見ながら)。しかし、何故向日葵の絵をこんなにも量産したのでしょうか。手紙の中では以下の様に言及しています。
「僕は頭の中でこういう画布(「ゆりかごを揺らす女」)を向日葵の画布の間に置いてみる、すると向日葵の画布は同じ大きさの大燭台か脇ぞえの枝付燭台となり、全体はしたがって七ないし九の画布で構成されることになる。」34
「『ゆりかごを揺らす女』を中央に右と左に向日葵の二点を置けば、三双一曲になることもついでに心得ておいてほしい。そうすれば中央の黄色とオレンジの色調が隣り合った両翼の黄色の為に一層輝きを増す。」35
ゴッホは向日葵と人物画を三連祭壇画のように飾る構想を持っており、そのために複数の向日葵の絵が必要だったのです。
また、1889年1月以降の複製画については、ゴーギャンへの贈り物として制作したと考えられます。ゴーギャンはアルルを去った後、手紙で黄色い家に残していた自身の習作とゴッホの向日葵の交換を提案しましたが、ゴッホはオリジナル作品をテオに送る必要があったためこれを拒否しました(しかも、ゴッホはゴーギャンがアルルを去ったことに対してかなり怒っていた)。
それでも、ゴッホはゴーギャンが向日葵の絵を気に入ってくれていたことに嬉しく思っていたようです。
「ゴーギャンに向日葵の絵を一点やれば喜ぶだろうから、何とかして喜ばせてやれればと思う。それでもし彼が二点のうち一点を望めば、ままよ、二点のうち彼のほしい奴を作りなおそう。〔……〕ゴーギャンはこの絵が格別好きだ。彼はなかでも特にこう言ったものだ。『これこそ…花だ』と。」36
と後に考え直し、複製画を制作しました(ただし、完成後にアルルの病院に入院したため、ゴーギャンに渡すことはできませんでした)。これが1889年1月以降に制作された複製画2点に相当します。
共同生活の始まり
1888年10月23日、ゴーギャンはアルルの黄色い家に到着し、ゴッホとの共同生活を開始しました。ゴッホにとっては待ちに待った共同生活の始まりでしたが、ゴーギャンの心境は真逆でした。
ゴーギャンは黄色い家での共同生活を承諾したものの、体調不良を理由にアルル行きを尻込みしていました。彼はゴッホとの共同生活に対してかなりネガティブな感情を抱いており(ゴッホの気難しさはパリの画家仲間たちにも知られていた)、そのためにアルル行きを躊躇していたのです。しかし、パリのテオとのつながりを得られることや、アルルでの生活費の援助が魅力的な提案であったため、ゴーギャンは最終的に出発を決意しました。出発前に友人のエミール・シュフネッケルに宛てた手紙には、以下のように綴っています。
「今月の終りにはアルルへ出発するが、この滞在はカネの心配をせずに仕事を楽にするのが目的なのだから、世間に乗り出せるようになるまで、長い間アルルで暮らすっことになると思う。」37
ゴッホは黄色い家を「裏通りの画家の避難所」として発展させるという大きな理想を追っていましたが、それとは対照的にゴーギャンはアルル滞在の利点を現実的に見定めていました。そして実際、ゴーギャンのアルル到着から数日後、パリのテオの元で彼の作品が売れ始め、滞在中の2か月間に計5点もの作品が買い手がついたのです。
ゴーギャンの成功はテオの成功を意味しました。その為、ゴッホもゴーギャンの成功を「僕だって嬉しい」と喜びましたが、一方で手紙とともに送られてくるゴーギャンへの報酬を嫉妬と羨望の眼差しで見ていました。
「絵が売れなければ、どうしようもない。〔……〕僕は自分の絵もいつかは売れる日が来ると思うが、君に対してこんなに払いが滞り、カネばかり使って収入があげられない。それを思うとときどき僕は憂鬱になる。」38
同じような境遇(ゴーギャンも本格的に画家を目指したのは30代になってからだった)のゴーギャンの成功は、ゴッホに焦燥感を抱かせ始めました。
衝突
ゴッホはゴーギャンとともに葡萄畑やカフェ・ド・ラ・ガールのジヌー夫人を一緒に描くなど制作活動に邁進していきました。しかし、二人の間には次第に深刻な対立が生まれるようになります。
ゴーギャンは綜合主義(作品に象徴性や精神性を反映させようとする一派)を掲げ、自然描写を主とした印象主義・写実主義に反発していました。特に、ゴッホのように勢いに任せて短時間で描き切るスタイルをナンセンスと感じていたゴーギャンは、ゴッホに対して全くの想像で描くことを勧めました。
ゴッホはゴーギャンの意見に応え、「小説を読む人」や「エッテンの庭の記憶」など、モデルを使用せずに制作しましたが、その出来栄えは芳しくなかったようです。ゴッホはテオへの手紙で、想像で描くことが自分のスタイルには合わないと述べています。
「僕はヌエネンの後援を描いたあの作品(おそらく「エッテンお庭の記憶」のこと)だめにしてしまった。想像で仕事をしようとすると、どうしてもこういう癖が出るようだ。」41
一方、ゴッホもゴーギャンの作品に対して細かな間違いを指摘し、自分の考えを執拗に主張しました。この態度が次第にゴーギャンをうんざりさせる原因となりました。ゴーギャンはベルナール宛ての手紙で、次のように愚痴をこぼします。
「ヴァンサン(ゴッホ)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。」42
衝突は絵画にとどまらず、生活面でも起こりました。アトリエ内の乱雑さや金銭管理の無計画さにゴーギャンは辟易しました。船員や株の仲買人としての経験を持つゴーギャンは、炊事や会計係を担当し、生活能力が乏しいゴッホを支えようとしましたが、ゴッホに料理を教えても、その出来栄えは「食えたものではなかった」とされています。ゴッホができる家事は買い物くらいでした。
ゴッホはゴーギャンを尊敬していましたが、絵が売れないことへの劣等感や芸術性の不一致、ゴーギャンの経済面や生活面への干渉が次第にゴッホをイライラさせ始めます。ゴッホの不満は癇癪となってゴーギャンを襲うようになりました。
耳切り事件
ゴーギャンとの破局、テオの結婚
ゴーギャンは次第にゴッホとの共同生活に耐えられなくなり、台所で絵を描くようになりましたが、寝室に行くには必ずゴッホの部屋を通らねばならず、完全にゴッホを避けることはできませんでした。ゴーギャンは耐えられなくなり、テオに対して共同生活の継続が不可能である旨を訴えました。
「売れた絵の代金の一部を送ってもらえるとありがたく思います。清算がすっかりすめば、僕はパリへ戻らねばならない。フィンセント(ゴッホ)とぼくとは気性の違いからいざこざなしにはもう絶対一緒に暮らすことはできません。彼も僕も仕事の為に平静を必要としています。」43
ゴッホはおそらくゴーギャンから直接的に黄色い家を出るという言葉を聞いていませんでしたが、持ち前の敏感さでゴーギャンの心情を察しました。
「ゴーギャンはこの楽しいアルルの町にも、僕らの仕事場のこの小さな黄色い家にも、またとりわけ僕自身に少々嫌気場さしたんだと思う。」44
同時期には、テオがヨハンナ・ボンゲルと結婚することが判明しました。結婚自体は喜ばしいものでしたが、テオがグーピルから独立してアルルに来ることを心の隅で願っていたゴッホにとって、急な結婚の話は寝耳に水でした。テオの愛情はヨハンナに奪われ、自身は「見捨てられるかもしれない」。テオにその気がなくとも、ゴッホの頭には不穏な疑念が沸き上がりました。
ゴーギャンをはじめ、ゴッホに近づいた人間はことごとく離れていきました。その他の人間はゴッホに近づこうともしません。ラッパルトとの決別、父ドルスの死、シーンとの別れetc…その不和や不幸の度に、ゴッホはその原因を周囲の寛容のなさとその環境のせいにしてきました。しかし、ゴーギャンとの破局によりその根本的な原因は自身にあることを悟ります。
テオにこれ以上迷惑はかけられない。それに、経済的な見栄から弟の結婚を心の底から喜べない自分にゴッホはどうしようもない自己嫌悪を感じました。こうした葛藤はゴッホの神経を高ぶらせていきます。
事件当日
1888年12月23日の夜、ゴーギャンは外出しました。長く降り続いた雨の合間を縫って、娼館やカフェに行くつもりだったかもしれません。ゴーギャンが近所の公園に向かう途中、背後に気配を感じます。そこにはゴッホがいました。この頃、ゴッホの様子がおかしいと感じていたゴーギャンは、警戒しながら声を掛けました。ゴッホは言いました。
「君は行くのか?」
ゴーギャンは唐突な質問に答えを窮し、「ああ」とだけ答えました。するとゴッホは「殺人鬼、逃亡す」という新聞の記事の切り抜きをゴーギャンに手渡し、その場を去りました。ゴーギャンはその切り抜きに何の意味があるのかを不審に思い、その夜は黄色い家には戻りませんでした。
一方、黄色い家に戻ったゴッホは躁狂の発作を起こし、剃刀で自身の左耳を切り落としました。その耳を新聞紙に包み込んだうえ、その包みをゴーギャンのお気に入りの娼婦であるラシェルに渡すよう、娼館前の歩哨に「僕を思い出して」というメッセージ付きで託しました。ゴッホは、ゴーギャンがその娼館にいるだろうと考え、娼婦宛ではなくゴーギャン宛に耳の包みを届けたと思われます。
アルル市立病院
1888年12月24日の朝、意識がない状態で黄色い家のベッドで発見されたゴッホは、アルル市立病院に担ぎ込まれました。入院後、耳の治療が施され、ゴッホの意識は回復しましたが、精神的には依然として不安定な状態が続きました。ゴッホはせん妄状態にあり、頻繁に混乱した言動を示しました。
12月25日、ゴーギャンの電報を受けてテオがアルルへ到着し、ゴッホと面会しました。テオは、当時のゴッホの状態について妻ヨー宛てに次のように記しています
「僕が彼のそばにいた時、わずかだが調子がいい瞬間があった。だがすぐに、神学や哲学的なうわ言に戻ってしまう。そこに居合わせているのはあまりにも悲しい。時折、彼は自分の病気に気が付いて、その時は泣こうとするのだけど、泣くことができないんだ。」45
テオはゴッホの状態を報告する役割を郵便配達員のルーラン(アルルでゴッホに最も親しかった友人)と現地のプロテスタント牧師フレデリック・サルに依頼し、その日のうちにゴーギャンとともにアルルを発ち、パリへ戻りました。
ルーランによれば、ゴッホは「恐ろしい発作」に襲われることがあり、独房に隔離されていましたが、次第に回復し、12月29日には共同部屋に戻ることができました。ゴッホは年明けに自身の体調についてテオ宛に手紙を書いています。
「僕はまもなくまた仕事にかかれようと思っている。」
「君が心配すると僕は余計に不安になるから、今君に願うのは唯一つ、心配しないでおいてくれることだ。」46
担当のレー医師もゴッホの回復について良好な旨を同手紙に書き添えました。「幸いなことに私の予想が的中して、異常昂奮はほんの一時性のものでした。二、三日中には元通りの人間にかえれるだろうと確信します。」47
1月7日、ゴッホは無事に退院し、黄色い家に戻りました。1月中には前述した向日葵の2枚の複製画や「ファン・ゴッホの椅子」、「ゴーギャンの肘掛け椅子」などを制作し、世話になったレー医師には肖像画を描いて贈りました。
しかし、2月になるとゴッホの精神状態は再び悪化しました。退院当初、ゴッホは「何でもなかったのだ」と考えていましたが、後に「自分が病気だという感じがした。」とテオに打ち明けています。また、「デルフォイ神殿の三角床几の上で神託が唱えられるように、僕は熱狂や狂気や予言で身がよじられる時がある」48と発作の予兆を手紙に綴っています。
次第に「何者かに毒を盛られる」との被害妄想を持つようになり、2月7日、その様子を不審に思った近隣の住民が警察に通報されます。そして、ゴッホは再度アルル市立病院の独房に収容されることになりました。
周囲の不審、3度目の入院
1889年2月17日、ゴッホは再び精神の安定を取り戻し、仮退院が許されました。しかし、黄色い家周辺の住民たちの間では不穏な空気が広がりつつありました。日頃からその奇矯な行動により周囲から注目されていたゴッホへの不信感は、耳切り事件やその後の異常行動によってさらに深いものとなっていたのです。
ゴッホ自身も周囲の視線に違和感を覚え、その心情を以下のように表現しています。
「どうやらこの土地には何か曰く因縁があって、それでみんなは絵を怖がっているらしい。」49
この時点で、ゴッホは自分が精神的に不安定であったことを認めていました。「僕の精神が平衡を欠いていたのだから、君の親切な手紙にいくら返事を書こうとしてもダメだったろう。」50とテオに宛てた手紙に記しています。しかし、ゴッホは病状をそれほど深刻に受け止めておらず、「地方病にすぎない」と軽く見ていました。おそらく、テオに過度な心配をかけたくなかったため、病状を軽く扱っていたのでしょう。
2月26日、近隣住民によって提出された請願書により、ゴッホは再び病院に強制収容されました。この請願書は黄色い家の近隣住民約30名の署名を集め、市長へ提出されたものでした。住民たちはゴッホの奇行について誇張した証言を次々に出し、ゴッホを黄色い家から追い出すための画策を進めました。証言の中には、ゴッホが婦人にセクハラまがいの行為をし、家まで追いかけたというものや、子供たちを追い回し、商店で客を侮辱したという話が含まれていました。
ゴッホは自身の3度目の入院を、深い悲しみと憤慨の念を抱きながら、テオに手紙で伝えています。
「ただ一人のそれも病気の男に対して、多数よってたかって掛ってくる、そんな卑怯者がこれほどいると知った時、それこそ僕はどてっ腹を棍棒で殴られる気がしたものだ。〔……〕こんなひどい目にあい辛い思いをするくらいなら、いっそ死んだほうがましだ。」51
シニャックの訪問
1889年3月23日、結婚準備に追われていたテオは、画家ポール・シニャックにゴッホの様子を見に行ってほしいと頼みます。シニャックはマルセイユのカシスへ向かう途中、アルルに立ち寄ってゴッホを訪問しました。
シニャックの付き添いにより、レー医師から外出の許可が下り、ゴッホは約1カ月ぶりに黄色い家へ戻ることができました。ゴッホはシニャックに対して非常に好意的な印象を抱き、次のように手紙に書き残しています。
「彼(シニャック)は実に誠実で公明で、また実に率直だった。〔……〕シニャックは粗暴だという評判だけれども僕は非常に冷静な男だと思う。泰然自若たる男、専らそういう感じだ。これまで印象派の画家と話をしていて両方がこれほどまでに意見の不一致や衝突を見ず後味も悪くなかったためしはめったに、いや全然ない。」52
ゴッホはシニャックのことを大変気に入り、感謝の印として「ニシンの静物画」を贈りました。
シニャックもゴッホを高く評価し、テオに手紙で彼の状態が良好であると報告しました。
「彼(ゴッホ)の絵を見にゆきましたが、非常にいい絵がたくさんあり、どれもが大変面白いものです。〔……〕私が見たところ彼はすみからすみまで健康で健全であったということを、特にはっきり申し上げておきます。彼の唯一の願いは——落ち着いて仕事が出来るということです。どうかそういういい状態に彼をおいてやるよう万々よろしく願います。」54
しかし、シニャックの報告とは裏腹に、彼はゴッホの異常行動を目撃しています。黄色い家に滞在している間、シニャックとゴッホは絵画や文学の話をして過ごしていましたが、突然ゴッホが激しく興奮し、テレピン油を飲もうとしたのです。シニャックは慌ててこれを制止し、急いで市立病院に戻って医師に報告しました。
シニャックは、ゴッホが病院に監禁状態であることに同情していたためか、この異常行動についてはテオに報告せず、彼の精神状態に異常はないと伝えたのです。
発作はゴッホを定期的に襲うようになっていました。
アルルを去る
ゴッホは、レー医師の持ち家の二部屋を借りて暮らし始めましたが、独り暮らしに対して強い不安を抱くようになります。
「アルルか他のところで、新しいアトリエを借り、そこで独り暮らしをすることは到底僕には出来まいし、したところでさしあたり同じ結果になってしまう」56
近隣住民との関係が悪化したため、黄色い家に戻ることはもはや不可能でした。荷物を整理しながら、ゴッホはかつて抱いていた「画家の共同体」という理想が完全に潰えたことを痛感しました。
失意の中、絵に対する自信も崩れていきます。
「それに君もよく解っているように、いまさら成功の見込みはまるでない。」57
「画家としては僕はまかり間違っても絶対大物にはなれないと感じている。」58
そして、ゴッホはサル牧師から薦められたサン・レミ(アルルから20~30km程度北東にある地域)の精神病院への入院を自ら希望し、1889年5月初旬にアルルを去りました。
第3部のまとめ「ゴッホの精神疾患について」
オランダを離れた後、ゴッホはパリ時代に印象派や浮世絵の影響を受け、画風を一変させました。アルル時代には自身の独自のスタイルを確立し、明るく色鮮やかな作品を数多く描きました。
しかし、私生活ではゴーギャンとの破局やテオの結婚など、ゴッホの心を揺さぶる出来事が続きました。これにより精神的に追い詰められた彼は、自らの耳を切り落とすという衝撃的な行動に及び、病院に入院します。この時期からゴッホは精神的な発作を繰り返すようになりました。
ゴッホの精神疾患については、現在もさまざまな議論が交わされており、特定することは難しいとされていますが、当時のアルル市民病院の担当医は「一種の癲癇(てんかん)」であると結論づけています。当時の医師が指摘した「癲癇」は、恐らく「潜在性癲癇」を指していたと考えられます。このタイプの癲癇は、一般的な四肢の痙攣を伴う発作ではなく、不安や妄想、幻覚などを引き起こす発作性の行動障害が特徴です。この説は、彼の実際の症状と一致することから有力であるといえるでしょう。
さらに、ゴッホの精神疾患の要因として指摘されているのが、彼の過度な飲酒習慣です。ゴッホは少なくとも1886年頃から大量のアルコールを摂取しており、特にアブサンのような度数の高い酒を愛飲していました。栄養失調とアルコールの大量摂取が組み合わさることで、脳機能に悪影響を与えるリスクが高まり、過度の飲酒を急にやめることで、せん妄などの離脱症状を引き起こす可能性があります。このため、アルル市立病院での最初の発作は、アルコール離脱症状であった可能性が高いと考えられています。
このように、ゴッホの精神疾患について推定はされているものの、特定には至っていません。さらに、単一の疾患ではなく、複数の疾患が併発していた可能性も否定できません。精神疾患や脳の病気は、現在でも治療が難しい場合が多く、MRIやレントゲン技術のなかった当時の医療環境においてはさらに困難だったことでしょう。
ゴッホは治療が困難な精神的な病を抱えながらも、発作と戦い続け、作品を描き続けました。彼がサン・レミやオーヴェルでどのように過ごし、どのような絵を描いたのか——続きは第4部へ…
「ゴッホを解説!」シリーズ
↓今ここ
参考文献・サイト
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷
・フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 上」国書刊行会 2016年10月30日発行
・スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行
・マリー・アンジェリーク・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード「テオ もうひとりのゴッホ」平凡社 2007年8月1日発行
・二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行
・食品安全委員会「ハザード概要シート(案)(水銀)」中毒症状 https://www.fsc.go.jp/sonota/hazard/osen_1.pdf 2024年5月3日参照
・Wikipedia「梅毒の歴史」歴史的な治療法 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%AF%92%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 2024年5月3日参照
・厚生労働省「職場の安全サイト」安全データシート 水銀 https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/7439-97-6.html#:~:text=%E4%B8%AD%E6%9E%A2%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B3%BB%E3%80%81%E8%85%8E%E8%87%93%E3%81%AB%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%80%81%E8%A2%AB%E5%88%BA%E6%BF%80,%E3%81%8C%E7%A4%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 2024年5月4日参照
・ファンゴッホ美術館https://www.vangoghmuseum.nl/en
・「On the Banks of the River, Martinique」,contemporaries of van gogh, Van Gogh Museum https://catalogues.vangoghmuseum.com/contemporaries-of-van-gogh-1/cat53 2024年5月25日参照
・Willem A. Nolen et al.(2020) New vision on the mental problems of Vincent van Gogh; results from a bottom-up approach using (semi-)structured diagnostic interviews.
引用
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第四巻」みすず書房 1984年10月22日発行改版第一刷、1273頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1254頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1257頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1277~1278頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1316頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1316頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1317頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1288頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1296頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1299頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1322頁 ↩︎
- スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス「ファン・ゴッホの生涯 下」国書刊行会 2016年10月30日発行、55~56頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、56頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、56頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1325頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1324頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1325頁 ↩︎
- ネイフ・スミス、2016年10月30日、59~60頁 ↩︎
- マリー・アンジェリーク・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード「テオ もうひとりのゴッホ」平凡社 2007年8月1日発行、122頁 ↩︎
- オザンヌ・ジュード、2007年8月1日、123頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1338頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1346頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第六巻」みすず書房 1984年12月20日発行改版第一刷、1964頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1367頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1931頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1346頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1369頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1930~1931頁 ↩︎
- 二見、1984年12月20日、1931頁 ↩︎
- フィンセント・ファン・ゴッホ著 二見史郎(ほか)訳「ファン・ゴッホ書簡全集 第五巻」みすず書房 1984年11月20日発行改版第一刷、1476頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1264頁 ↩︎
- 二見、1984年10月22日、1369頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1463頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1580頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1627頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1579頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1540頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1540~1542頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1552頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1548頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1550頁 ↩︎
- 二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」みすず書房 2010年10月21日発行、192頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1560頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1559頁 ↩︎
- オザンヌ・ジュード、2007年8月1日、152頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1561~1562頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1563頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1585頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1588頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1588頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1592頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1596頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1596頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1598頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1605頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1608頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1616頁 ↩︎
- 二見、1984年11月20日、1618頁 ↩︎
コメント